★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 政治・選挙4 > 120.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
近衛文麿と国家総動員法−−−小泉純一郎と有事法。似てる:ヒントは「サントリー」
http://www.asyura2.com/0406/senkyo4/msg/120.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 6 月 29 日 07:33:07:0iYhrg5rK5QpI
 

答えは・・・ウィスキー「ボンボン」でした。
お粗末!

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/konoefumimaro.htm

近 衛 文 麿(内閣)

 近衛文麿は、東京で五摂家筆頭の家柄近衛篤麿の長男に生まれた。公爵。京都大学卒。1931(昭和6)年貴族院副議長、33年議長となり、西園寺公望からは後継者として嘱望されたが、後に離れ、「革新貴族」の代表となり、皇道派など国家改造勢力の期待を集めるところとなる。

36(昭和11)年春、政局は「2・26事件」で総辞職した岡田内閣の後任問題で紛糾、後任が決まらず政治の空白が続いた。その最中の3月4日、天皇より近衛に組閣の大命が下ったが、彼は健康を理由にこれを固持する。このとき安井藤治少将は、「近衛公ガ此ノ重大時局担当ノ自信ナキニ非(あらざ)ルヤ。花見内閣ノ首班ナレバ拝受スルノ徒ナラン」と言ったのは有名な話しである。

一転、同月5日、「外交官で終わりたい」と言っていた前外相広田弘毅(こうき=1878年〜1948年)に組閣の命令が下る(組閣は、陸軍の嫌がらせで9日にずれ込む)。広田にとって、まさに「晴天の霹靂」であった。思いがけなくも檜舞台にのぼった彼は、敗戦後、A級戦犯に問われ死刑となる。

近衛は、林内閣が総選挙に敗北して総辞職したのを受けて1937(昭和12)年6月4日に後藤隆之助ら学者・官僚を中心とする昭和研究会をブレーンとして第1次近衛内閣を組織した(39年1月4日まで)。

首相の座についたとき、「進歩的、民主的な人物」といわれ、パフォーマンスがうまかったこともあり、新聞はあげて国民に期待を持たせる論調を掲載するなど、戦前の歴代総理の中で最も人気が高かった。

組閣1月後の7月に蘆溝橋事件(「7・7事変」)が勃発、現地軍はおさめようとしたのに強気の近衛は、脅せば中国は屈すると考え、直ちに「重大決意」を声明して華北への派兵を決定、国内でも「挙国一致」の戦争協力体制の構築を進め、内閣の指導力強化のための諮問機関としての内閣参議、言論統制のための内閣情報局、国策研究・立案のための企画院などを設置した。

37年12月の南京陥落に気をよくした近衛は、講和条件に関して「賠償」を含む極めて厳しいものにし、参謀本部が推進していたトラウトマンエ作を打ち切り、「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」との声明(近衛第1次声明)を発して、蒋介石政権との交渉に道を閉ざし、新政権の樹立発展を期待した。

近衛は、38年の第73帝国議会で国家総動員法・電力国家管理法を成立させて統制経済の基礎を作るとともに、同年の秋から戦争完遂のための国民精神総動員運動を唱え、思想の統制と社会運動への弾圧を進める政策を推進するところとなる。

他方、その後の軍事的な手詰まりと交渉断絶を打開するために、38年11月3日に上の「対手とせず」との声明を事実上撤回する「東亜新秩序声明」を発表した(近衛第2次声明)が、逆に中国に於ける門戸開放原則に反するとして英米の警戒感を強める結果となり、いわゆる汪兆銘工作も重慶政権を弱体化させるという近衛の意図とはほど遠い結果となる。

結局38年8月以降、「日独防共協定を軍事同盟にするか否か」、「英仏を対象とするか否か」で次第に閣内不統一となり、さらに同年12月22日、汪兆銘を重慶から脱出させ、その新政権との講和条件として「近衛3原則(善隣友好・共同防共・経済提携)」を提示(近衛第3次声明)したが失敗、39年1月に総辞職する羽目になる。

近衛は、40年(昭和15)7月22日、トイツと連携して世界秩序を一変させようという膨張論の台頭と新体制運動を背景に、陸軍の介入によって米内内閣が倒れた後、第2次近衛内閣を組閣した(41年7月16日まで)。

近衛は、いわゆる「荻窪会談」で、第2次近衛内閣入閣予定者であった東条英機陸相・吉田善吾海相・松岡洋右外相らと「日・独・伊3国同盟」の締結、軍事力を背景に仏印・タイヘの南進(侵略)という基本方針を定める。

そして近衛は、組閣直後の7月27日開催の大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」にもとづいて、9月27日にはベルリンで「3国同盟」に調印、援蒋ルート遮断を名目に北部仏印進駐(侵略)を決行する。

10月には大政翼賛会を発足させて挙国一致の体制を独化するとともに、11月に江兆銘政権と日華基本条約を締結、41年4月に松岡外交による日ソ中立条約の締結によって蒋介石政権屈服、武力南進、英米の封じ込めを狙った。

独ソが開戦すると7月2日の御前会議において「対英米戦を辞せず」と決意すると同時に対ソ戦準備着手(関特演=関東軍特殊演習の秘匿呼称)を決定するに至ったが、近衛は交渉による戦争回避をもとめ、対米譲歩に反対する松岡外相を閣外に放逐するために総辞職した。

近衛は、1941(昭和16)年7月18日に対米関係改善をねらい外相を豊田貞次郎に代えて第3次近衛内閣を発足させたが、7月2日の御前会議決定にもとづく南部仏印進駐を実施したため、アメリカは8月に対日石油輸出禁止、在米日本資産凍結の措置に出た。

近衛は、米大統領との直接(「巨頭))会談による関係改善を構想したが、統帥部の要求で9月6日開催の御前会議では、10月下句までに戦争準備をととのえ、10月上旬に交渉妥結の見通しがたたないときには直ちに対米英蘭開戦を決意する、という「帝国国策遂行要領」が決定される。

結局、日米巨頭会談はアメリカ側に拒否されたうえに、内閣は「交渉継続」か「開戦決意」かの問題で分裂、昭和天皇も次第に開戦論に傾いたため、10月16日、わずか7カ月で政権を投げ出し、東条英機に譲った。

つまり近衛は、戦前、「三たび内閣を組織し三たび投げ出した」のである。そこから、人気は高いが、信念なく、主義も主張がない優柔不断な政治家で、容易に周囲の声に動かされ、またその内閣は終始軍部に翻弄され、日本を「戦争と破局」へ導いたとの評価が定着するところとなる。

43(昭和18)年末頃から東条内閣打倒工作、天皇制維持のための終戦工作を展開、45年2月には天皇に講和を勧告する上奏を行い、7月には和平交渉のためソ連に派遣されることとなったが、実現しなかった。

 近衛は敗戦後、自らを「運命の児」と称し、悲劇的政治家を演出しながら東久邇(ひがしくに)内閣の国務大臣、のち内大臣府御用掛として憲法改正案の起草にあたったが、45年12月16日、GHQから戦犯に指名され、東京・荻窪の自宅(「荻外荘(てきがいそう)」)で服毒自殺した。

なお、朝日新聞に近衛の手記が1945年12月20日から11回連載された。手記で近衛は、「戦争回避に天皇はもっと行動すべきだった」と主張しているが、昭和天皇(裕仁)はこれを読み「近衛は自分にだけ都合のよいことを言っているね」と語ったと伝えられている。

1. 岡義武著作集 (第5巻) <山県有朋・近衛文麿>
岡義武/著
岩波書店 (1993.2)
2. 近衛文麿−「運命」の政治家 [岩波新書(青版)]
岡義武/著
岩波書店 (1972.6)
3. 近衛文麿 [三代宰相列伝]
矢部貞治/著
時事通信社 (1958.6)
4. 昭和の宰相 (第2巻) <近衛文麿と重臣たち>
戸川猪佐武/著
講談社 (1982.3)
5. 昭和の宰相 (第2巻) <近衛文麿と重臣たち> [講談社文庫]
講談社 (1985.5)
6. 日中戦争期における経済と政治−近衛文麿と池田成彬
松浦正孝/著
東京大学出版会 (1995.7)
7. 日本宰相列伝 (15) <近衛文麿>
時事通信社 (1986.2)

トップページ

目次

法学―目次

人物伝のページ

歴史のページ

 次へ  前へ

政治・選挙4掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。