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アメリカには都市のごく一部に非常に優秀な人材がいるが全土を回ってみて思うことは大部分の人々はアフリカの奥地の人々に比するくらいにシンプルで子供っぽいということだ。それとともに思うことはこの国のかなりの部分は土漠や砂漠であり、その風土が中近東のそれと似ているということだろう。こういった風土からはえてして抽象思考が発生しやすい。
中近東に生まれた「千夜一夜物語」またアラジンの魔法のランプという誇大妄想もそれに当たるし、アメリカ人が固有に持つ全能感もそれに当たる。今回再選されたブッシュの思考回路にもこの子供っぽい全能感が濃厚で、私たちは再びこの全能感と誇大妄想の間に翻弄されなければならいのかと思うとうんざりする。
イスラム教国を旅していると、いたるところでその誇大妄想という名の巨人に出会う。
つまり「絶対神」に位置づけられるアッラーそのものが誇大妄想そのものであるわけだが、そのような宗教的場面でなくとも日常の中においても巨人は立ち現れる。
たとえば私たちが街を歩いていて買い物をする。だいたいふっかけてくるというのは通り相場だが、時にこのふっかけ方が尋常ではなく、誇大妄想の領域に入り込む。客観的に見ると笑えるほど滑稽な場面に遭遇しているわけだが、彼ら一流のその詐欺師のような駆け引きにつきあいはじめるといつしか感覚が麻痺し、アリ地獄に巻き込まれたように抜き刺し難い状態に追い込まれる。
サマワに駐屯した自衛隊と地主の間で交わされた土地賃貸交渉の顛末はまさにこのアリ地獄そのもので、私は逐一報道される経緯を見ながら「ああ、またやってるなぁ」と妙なことについ頬が緩んでしまったほどだ。それとともにあの純情な自衛隊が丸め込まれるのは時間の問題だろうなと予測していたが、案の定、彼らは無償の援助に行ったにもかかわらず、あのただの何もない砂漠の砂に莫大な金を払わされつづけている。
ことほど左様に、彼の風土の掟や思考の構造に立ち向かうのは生半可な神経では太刀打ちできない。かつて私は以前向こうの聖職者と宗教談義をしたことがあり、仏教の中に流れる「多神」「寛容の精神」というものを説明した。ふんふんと納得したように聴いていた彼が最後に何と言ったかというと、
「ということは仏教というのは疲れた考えが支配しているということだな」
である。
本当に驚いた。
寛容=疲労。
「眼には眼を、歯に歯を」という復讐の等価交換の原則を数千年も貫き、今もまたその原則の中に生きる彼らにとって「許す」ということは「疲れ」でしかないのである。
幸いなことに私たちこの仏教国はこの本当にしつこくて独善的なイヤな野郎たちと政治的にも地理的にも長い間距離を保ち、イスラム的な誇大妄想と不遇なクラッシュをするのは、せいぜいたまにそこに迷い込んだ私のような旅行者程度で済んでいたわけである。
しかし9・11以降その関係性と風景は変わった。
イスラムと正面衝突したアメリカに無条件で追随した日本は、好むと好まざるとに関わらず(あまりなりたくはない)イスラムの隣人とならざるを得ない時代がやってきたのだ。
その帰納的なひとつの結果がひとりの日本人青年の死である。この路上に汚物のごとくうち捨てられた死は最大限に陵辱されていた。
イスラムの世界では畜生界に突き落とす意味を持つ断頭。
そして血にまみれたアメリカ国旗の包衣。
かりにひとりの青年の軽率な旅程がそのような結果を生んだとしたとしても、そのような「無惨な日本人の死体」を生み落とした日本の戦後政治に怒りと悲しみを覚える。
加えて小泉首相に言いたい。
君は「世界」というものをあまりにも知らなすぎる。
そして、またイスラム世界というものをあまりに知らなすぎる。
イスラムの人々は、その言動が強硬な反面、礼節を重んじる人々でもある。この礼節は何によって表現されるかというとそのひとつは着衣だ。
フランスにあってイスラムの女性のスカーフ問題が騒がれたように彼らにとって包衣は単にファッションではない。すべては神に対する礼節にはじまっている。その着衣の思想が他者にたいする礼節となって敷衍するわけだ。つまり彼らは自分のためにではなく他者を敬うために着衣するのである。
今回、ビン・ラディン氏がひさしぶりに声明を発表する場面が見られたが、私は彼の着衣を見て驚いた。それがほぼアメリカに対しての声明であったわけだが、彼はサーモンピンクの包衣に純白の法帽という最高の礼節を表す衣装で現れたのだ。このことはイスラムの研究者の間でも話題にもならなかったか、あるいは気づかなかったようだが、彼の民族の懐の深さに感じ入った一瞬だった。
また今回、日本人青年を殺害したグループの声明発表時の、背後に聖旗を、そして黒衣でシンメトリーに居並ぶその姿にも並でない決意がその姿に現れており、これは非常に危険な状態であることを臭わせたし、そういった場面でも儀式性を崩さない彼らの姿に奇妙な言い方になるがイスラム人の礼節を感じた。
そのように他者に対する時の礼節としての儀式性や着衣を重んじる彼らに対し、証生青年が非常に不運だったのは、小泉首相が災害視察用の手軽な作業服のままコメントを吐いたことだ。それも災害現場での日本人記者のとつぜんの質問に「テロには屈しない」吐き捨てるように言い、そのままそっぽを向いて歩きはじめたのである。彼の国の慣習に照らし合わせ、国民の命を預かる一国の首相の軽率さと無知に、おいおいこれはまずいよと、私はその一瞬背筋が寒くなった。かりに小泉首相が言うようにそれがテログループであったとしても、彼らは儀式的な姿で小泉首相に声明を出したのである。それに対し、ほとんど犬猫をあしらうような姿(着衣)と態度で声明を唾棄したこの一瞬、ほぼ証生君の処遇と運命は決まった。
運命が決まったということは、彼の処刑が決まったということのみをさすのではない。今日の日本の置かれている立場、というより小泉首相個人の置かれている立場からするなら、グループの要求に応じて自衛隊を撤退させるということはほぼありえない。
したがって、前回の日本人拘束のようにグループが身代金目的ではない以上、証生君が処刑されるであろうことは動かしようがない結末だったのだろう。
私の言う、運命、処遇とはその屍の姿にある。
畜生を意味する断頭。
そして、血に塗られた星条旗の包衣。
犬のように路上に投げ捨てられた死体。
一人の日本人は考えうる限り、最大限の恥辱の姿で殺されたのである。
彼にあのとき、記者のイレギュラーな質問に対し、ちょっと待てとそれを制し、官邸に帰ってのち、あらためて彼が衣服をフォーマルなものに着替え、日本人記者団に向かってではなく、グループに向かって、なぜ私たちがイラクを撤退出来ないのかを(かりに彼らがそれを欺瞞と受け取るとしても)説明すべきだったのだ。
確かにそれでも証正君は殺されただろう。
しかしあそこまで憎悪と恥辱にまみれた無惨な死体にはならなかったはずだ。
小泉首相のこのように、その世界に対する無知と軽率な言動によって彼は今、国民を引き連れてイスラム世界のあの「憎悪の連鎖」の中に自ら好んで入り込みつつある。そしてブッシュの再選によってさらに無神経ぶりはエスカレートするだろう。
「テロには屈しない」という言葉は手負いのブッシュが国民向けに吐かざるを得なかった背水の陣の言葉であったわけだが、その言葉を彼は受け売り的にあまりにも便利に使いすぎているのもグループが日本人を敵視し蔑視したひとつの理由だと考えられる。
それはまさしく「眼には眼を」という言葉なのだ。
「テロには屈しない」
という“慣用句”を呪文のように吐き続けるたびに私たち日本国民はあのイスラム的憎悪の連鎖のアリ地獄に除々に除々に巻き込まれて行くだろう。
かりに屈しない、としても彼は日本人独自の言葉でそれを表現すべきだったのだ。
イスラムの人々は礼節と言葉を持たない人間を軽蔑する。その言葉、つまり意志を持たない民族に対する仕打ちがあの無惨な死体でもあった。
かりに日本国首相がブッシュの言葉ではなく、礼節を欠かない姿で日本文化を背景とした日本人の言葉で彼らを糾弾したとするなら、私たちの子の死体は、せめて墓場に臥せられていたかも知れないと思う。
http://www.fujiwarashinya.com/talk/2004_1104.html