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(回答先: ありがとうございます 投稿者 ぷち熟女 日時 2004 年 10 月 12 日 00:44:20)
ぷち熟女さん、こんにちは、レスをありがとうございます。
>あたくしはまた、如往さまのおっしゃる懐かしさは転生によるものかしらと思っておりました。性だけが違い、あとの女性性と男性性の表現やそれに関する好みが合っておられたお相手であった、ということなのでしょうか。
“転生”というよりはこちら側の概念に近いものです。若い頃には、運命的な出会いと感じ、否むしろきっとそうだとの想い込みから、相手は自分の過去世の生まれ変わりかも知れないし、出会うべくして過去から約束されていたのだというような妄想に駈られることもありました。また、私自身15年程前のニュ−エイジの潮流にどっぷり浸かっていたころには、水際を越えた彼岸からの見方に準じて、“転生”の媒介辞を以って人間存在の様態について思索していた時期があります。けれども、今はできるだけ境界を超えずに、しかも際に立ちつつ考察していきたいと考えていますが、その点からも媒介辞としてのアニマとアニムスは結節点に介在するものと捉えています。
私にとって20代の時の恋愛は、まさしく自身の中に潜んでいた男性性(=好奇心が旺盛で快活)の再発見を契機としていました。懐かしいと感じたのは、多分そのことを示していると想われます。そして、私の男性性を受けとめたのはやはり内なる女性性(=受容性に充ちて繊細)であったのでしょう。しかし、彼女達が本当に私の男性性を理解し、あるいは女性性に気づいていたかは不明です。大抵の場合この関係性には耐用年数があるものですが、結婚に至ったときなど子育てや生活の忙しさにかまけている間に期限が忘れ去られてしまうことも多くあるようです。
自身に潜む男性性と女性性の二つの性を互いに相手に見い出し交わることができたら、おそらくそれは人が追求し得る完璧な恋愛(関係)に近いと言ってもよいかも知れません。ただし、必死に求めていても生きている間に真の“運命の人”に出遭えるのは、確率的に見ても至難の業でしょう。通常は内なる男性性や女性性の何れかを表象する片割れを見い出すことで落着してしまいます。
『世界でいちばん不運で幸せな私』はドラマツルギーとしては必ずしも陳腐ではないが、決して目新しいものではありません。しかし、こんな『ばら色の人生』もきっとあるはずだという想いに満ち溢れていて秀逸であると思います。その昔、同世代の誰もが映画小僧でした。私は高校、大学と所謂「映研」に所属していましたが、当時の「映研」はどこも新左翼の巣窟になっていて、オルグを目的にした『戦艦ポチョムキン』や小川紳介監督作品等の映写会によくかり出されたものでした。ただ、映画を観ながらあれこれと想像を廻らす癖みたいなものはその頃と少しも変わってはいないようです。
ぷち熟女さんには、思いがけず私的恋愛論と私的映画論にお付き合いいただくことになりましたが、その大いなる御心にたいし重ねて感謝いたします。
また、会いましょう。