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(回答先: Re: ご指摘ありがとうございます。 投稿者 yun7 日時 2004 年 10 月 07 日 20:10:33)
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させる為に来たのである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。
その言葉をキリストが語ったとすれば、たぶん激励の意味などはない。
信者はその信じる対象が理解不能になった時、その信仰を維持するべく都合の良い解釈しかしない。
逆に言えばその信仰が強いほどその事態を疑ってかからない。
麻原が暴走を始めた頃、盲目に追従した信者がそれだ。
逮捕後もあれだけの証拠があるにもかかわらず現状把握が出来ずにいた信者の姿。
パナウェーブの信者にもそれは当てはまり、白い布とぐるぐるマークの意味や教祖の失禁の意味も疑っていない。
キリストに話を戻せば、後の宣教師たちは、当然、不都合な文面に気づくが、都合の良い解釈を当てはめ、信者ではないものですら疑わない「スタンダード」を構築していったのではないか?
その自己判断ではない「スタンダード」な部分しか理解していない信者を「正義」という新たなお題目を立て、戦争に向わせ「殺し」にいかせる。愛するものを守る為の「膳」。
その戦いにおいて「死」を迎えても「祝福」される。それが「聖戦」。
カルト教団との違いが見えない。
宗教は大多数の人間を管理統制する一部の人のツールだったんだろう。
これからの時代、宗教に変わるシステムが必要だ。
もう聖書自体の「聖」を疑っていい頃だ。
「愛」を喧伝するものは別に聖書でなくてもいい。
アルプスという聖なる山があり、クララという苦悩を持つ人がいて、おんじという山の神やペーターという動物の神がいて、ハイジという友情と愛の神がいる。
今の歴史とはかけ離れた将来、そんな聖書があるかも知れない。
聖書よりもストレートでシンプルな教えがそこにはある。
「苦難にへこたれるな」という教えはクララが立ち上がるまでの流れですんでしまう。
妄信している人達の目線で物を語れば、どんなストーリーだって「教義」に出来る。
キリストを否定しない。が、信者の大多数を非難している。
不整合が多すぎるモノを気が付きもしない信者の大多数に・・・。
浄、不浄を理解した上で信仰している人は尊敬できる。
浄、不浄を理解した上で信者を利用している人は悪だ。
浄、不浄を理解したつもりで利用されている信者は愚かだ。(悪の手先だ)
浄、不浄を理解できないのはただの無知だ。
事故の危険があるからバイクは悪だ。とは考えていない。
バイクが悪ではなくて、事故を起こす暴走が悪だ。
聖書も同じことが言える。
キリストはすでに死に、言葉の意味も検証のしようがない。
ただ、その言葉をその言葉以上に解釈しようという行為を「想像」というのだ。
自分にとって都合の良い想像。=理想。
聖書に自分の理想を投影しすぎると危ない。
まとめられない文章力の無さに苛立ちながらも・・・。