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(回答先: 時代認識が正しくないと思う 投稿者 バール神 日時 2004 年 10 月 07 日 01:00:39)
http://www.tokyo-np.co.jp/120th/henshu/gekidou/gekidou_040609.html
都新聞は、日清戦争で号外をたびたび出し、絵入りで戦況を伝えた
日清戦争の激化とともに新聞への検閲は厳しさを増し、伏せ字続きの「都新聞」は苦境に立たされる。
明治二十七(一八九四)年七月二十五日、朝鮮近海豊嶋沖で両海軍が激しく衝突。新聞各紙は「日本海軍大勝利」と伝え、国内は号外の鈴の音が鳴り響き歓喜にわいた。
だが都新聞が「我海軍の勝報」との見出しで伝えたのは二十九日である。
「電信不通の中、世人は一日千秋の思いで風雲の行方を気遣いし折、釜山より一大快報…敵艦船を捕獲し兵千五百人を乗せた運送船一隻を打ち沈めたり」
この報道は完全に各社に後れを取った。都新聞は翌三十日の一面トップで「新聞紙の検閲」と題する論評を載せ、その悔しさをぶつけている。
「読者は記憶すべし、一昨来、豊嶋近海における海戦の詳報は、号外の勇ましき呼び声とともに都下に流れたことを。然るに我が社と一、二の新聞紙は寂として読者に報ずる所無し。その実は我が社の怠慢にあらずして…」
都新聞は一報を得ると直ちに一頁(ページ)の号外を作り、配布の準備を整えたが、そこで検閲官が「待った」を掛けたのだ。その結果、号外記事の大半が墨で塗りつぶされたため、涙を呑(の)んで配布を断念したのである。
「我が社は決してこれを恨まず、ただ各社の報じ得たるを羨(うらや)むのみ、大いに当局者の注意を望みたし…記者を毛虫視するなかれ」
その三日後の八月一日、宣戦の詔勅が発表され、日本はいよいよ戦争に突入していく。都新聞はなぜか三日の二面で「宣戦の詔勅は昨日御発布あるはずなりしも午後六時までには発表あらざり」と伝えたが、欄外に「宣戦の詔勅」全文を載せている。
おそらく夜遅く全文が判明したが、紙面を作り替える余裕がなく、必死で欄外に突っ込んだのだろう。現在でも時折、締め切り間際に大ニュースが飛び込んできて局内が騒然となることがあるが、この時もおそらく関係者が右往左往し、混乱したに違いない。
「今や弊社は検閲のためほとんど新聞紙の責任を欠くに至れり」「願わくば検閲の酷にならざることを」
紙面に見る痛恨の論評が当時の新聞人の苦悩をうかがわせる。