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(回答先: 時代認識が正しくないと思う 投稿者 バール神 日時 2004 年 10 月 07 日 01:00:39)
http://www.tokyo-np.co.jp/120th/henshu/gekidou/gekidou_040608.html
明治期の新聞は検閲を抜きにしては語れない。とりわけ戦争報道に対する検閲は熾烈(しれつ)を極め、発行停止や「伏せ字」が相次いだ。当時の紙面を見ると、まるで文字当てクイズである。
日清戦争に対する「宣戦の詔勅」が発表されたのは明治二十七(一八九四)年八月一日だ。各紙は六月から「朝鮮の戦乱危急を告げ」と競って戦争報道を展開。当時はあまり多用しない大型活字が連日のように紙面に躍った。
「都新聞」でも「社員特派」の社告を打ち、戦乱詳報を始めたが、その最中の六月五日、内務省から突然報道統制令が下る。「今後軍隊や艦船、弾薬糧食に関する件、交戦の偽り報道などの掲載を一切禁ず」
痛烈な打撃だった。直後の都新聞は「読者に告ぐ」と題して、こう不満をぶつけている。
「この命に接するや前々夜来、収集したる諸種の報道、電報はことごとく反古(ほご)となり、命令に触れる諸所を抹殺したため紙面はかくの如(ごと)く不体裁となりし。今や我が社は紙屑(かみくず)を作るが為に数十名の社員を働かせるに等しく…」
「紙屑」と嘆いた六日の紙面を開くと、六カ所にわたって実に六百字が「伏せ字」となり無残な紙面と化している。続く八日にも同様に五百字が伏せ字とされ黒く塗りつぶされた。
六月の都新聞を見ると、こうした伏せ字や削除のない紙面はほとんどない。八日から十九日まではほぼ連日、さらに二十三、二十六、二十八、三十日と月の半分は虫食いの紙面だ。これでは読者が納得するはずがない。
そんな不満に応えて「今や紙面は十の八、九しか読者に伝えられず、それも当たり障りのなき事のみ」「記事少なしは我が社が怠っているのではなく、働いたが故この始末、了察こう」といったお断りを幾度も載せている。真実を書けば発禁、書かざれば新聞にあらず、そんな焦りと怒りがうかがえる。
このころ都新聞には発行停止になっていた朝日新聞や萬朝報などの「解除広告」が載っている。「発行停止が解除され本日より復刊す、乞(こ)うご期待…」と。
都新聞への当局の検閲はさらに激しさを増し、ついには重大事態へと発展していく。次回続編。