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差異と現象の相関-その2
philosopractical chaosmos氏の探求に押されるように、私の思考も大いに刺激を受け、この10年程度、考えていた構想が、論理として表現できるようになりそうです。
参考 philosopractical chaosmos http://blog.melma.com/00122700/20040925215557
差異的空間を人間は、直感としては理解できるが、存在形式として認識できない。差異的空間における、差異(点)と差異(点)との、接触、コンタクト、相互作用によって、一種の『現象』が生じ、人間は、その現象によって、事実を認識する。
この事実とは、刺激であり、その刺激は、差異(点)そのものでは無い。
『現象』の認知時点では、差異は、消滅している。その消滅している差異(実在)を、我々は、過去のもの、残像、として認識する。現象によって、実在の存在を仮想する、これが、現象学的なアプローチである。
ただ、現象は浮遊し、脈絡が無く、秩序が無いので、所謂、連続性を重んじる立場からは、「差異空間」の方が、実在である、とうプラトン的な発想の転換が生まれる。構造主義も、同じ立場であろう。
しかし、この連続的な思考、においては、勝手に、枠を拵えて置いて、現実を枠に押し込める危険性が大いにある。現在の小泉やブッシュの行動パターンを見れば明らかだ。この点を、ポスト・モダンは強く意識している。
差異空間の無秩序性、無規則な指向性、エネルギー(強度)の偏差などを肯定し、その中における、ハーモニーとして、現象を捉えなおそうとしている。そこには、数学とソフトウェアーなどの格段な高度化が影響している。また、消費社会の分析も、影響しているだろう。
ところが、その差異(点)を、同じ色、同じ形の粒のように、認識している点において、不十分である。
差異は、差異として、絶対的に差異であって、類型化できない。絶対的に類型化できないから、差異である。
この差異と差異を隔てているもの、この部分が問題である。この部分が『時間』、或いは、「時間意識」と呼ばれる存在形式であろう。
我々は、直感によって、差異空間の構造を先天的に理解していて、『現象』による『刺激』によって、差異空間を現実として再認識する。この時、つまり、『現象認識』時には、差異(点)、そのものの存在は保証されていない。何万光年向こうの星の光を我々は見て(現象)、その存在(差異点)を推測するのである。
この現象と差異点との間を繋ぐものとして、我々は、『時間意識』を感じる。
ただ、それを時間として処理するべきか、空間として処理するべきか、或いは、人間の認知力の限界と処理するべきか、この点が問題である。
人間の直感において、空間と時間を、一度に意識することが出来ない。ここに、差異と差異の間を時間が埋める理由がある。
しかし、時間的差異を空間が埋めていると考えることも出来る。
「色即是空」とは、この意味であろうか。そこで、『空即是色』と、直ぐに、言葉が続く。
色が空間で、空が、むしろ、時間である。
アインシュタインは、「マイケルソン・モーレイの実験」によって、光の速さを一定とすれば、空間の存在形式が多様であるべきだ、と言っていると考えられる。
http://maverick.riko.shimane-u.ac.jp/files/Relativity/Sec1/relative1/node6.html
速さとは、空間と時間の関数であるから、空間を変数として、速度を一定とするとは、時間を一定とすることである。
つまり、本来、長くかかるはずの旅が、短いので、空間を縮めて考えようとするのである。この考えの根底には、時間の絶対性が前提とされている。つまり、時間を伸び縮みできない、と考える前提がある。
これは、裏返せば、『光』こそ、時間と空間を結ぶ糸とも言える。光が分割できない、ことが、時間と空間を切り離せないことと同じことなのだ。
『始めに光ありき』とは、まさに、至言である。
http://blog.melma.com/00112192/20040926032540