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(回答先: 日本SF大賞に押井守監督の映画「イノセンス」 (故矢野徹氏に特別賞)【朝日新聞】 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 12 月 05 日 05:13:39)
少し古い記事を引用: http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_oshii.htm
押井 守(おしい まもる)さん
仕事や学校では、嘘や本音を隠すのに便利な「公的な言葉」を駆使し、ここインターネットでは、匿名の「私的な言葉」で発散する。どちらも自分がやっていることなのに、それが自分自身かと問われれば、首を傾げる。心当たりがある人も多いだろう。ならば、自分を自分たらしめているものは、一体何なのか。
押井守監督は、代表作である「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1983年)や「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」(95年)を通じ、一貫して「自分を自分たらしめているもの」の正体を追求してきたように思う。哲学と科学に、人間と機械に、現実と虚構に、平等に向き合いながら。
その押井監督が現在取り組んでいるのが、来年春に公開予定の新作「イノセンス」。押井監督に聞いた。(依田謙一)
――制作状況は。
押井 楽観できない状況です。特に作画が深刻。ゴールは見えつつありますが。
――「イノセンス」は、当初、「攻殻機動隊2」というタイトルだったと聞いています。「攻殻機動隊」との関係をどう捉えたらいいのでしょう。
押井 別の作品ですね。物語は、「攻殻機動隊」の3年後という設定で、共通したキャラクターも登場しますが、「攻殻機動隊」を知らないと楽しめない作品ではありません。「エイリアン」シリーズを思い浮かべてもらえば分かりますが、1本目から4本目まで、それぞれ別の作品でしょう? 映画の種類が違うんです。主人公は「攻殻機動隊」に登場した脳みその一部以外はすべて人形(サイボーグ)である男、バトー。彼と公安9課でコンビを組むことになったトグサという男のバディ(相棒)ムービーになっています。
――草薙素子の存在はどうなりますか。「攻殻機動隊」は、彼女が広大なネットの世界に旅立つ場面で終わったわけですが。
押井 素子がどう登場するかは言えませんが、ネットの世界の話にはなりません。「イノセンス」で取り組んでいるのは、もっと身近なことです。
――身近なこと?
押井 身体のことです。僕自身が歳をとって、具体的な衰えを感じているのもありますが、「自分である」という根拠は、やはり身体にあるのではないかと考え始めたんです。
――「攻殻機動隊」では、自分であるという根拠は記憶でした。
押井 記憶は、自分というものの同一性を確認するためのものではあっても、自分そのものの根拠にはなりません。実際には、記憶によって、日々刻々と変わり続ける自分を、確認しているだけなんです。むしろ、記憶を自分の根拠にするのは危ういですよ。それは自我や自意識といったことにつながりますが、そういう概念はすべて近代以降に生まれたもので、ずっとあったのはやっぱり身体なんです。
――押井監督の口から、身体と聞くと意外な気もします。
押井 最近、身体に触れずに済むコミュニケーションが求められているでしょう。電車に乗っても、携帯電話にばかり向かっている。五感のなかでも、視覚と聴覚ばかりが偏重されている時代で、なぜ、そうなっているんだろうということが気になっていました。日本映画一つとっても、ものを食べる場面が急速になくなっているし、アニメーションには、身体性のない幽霊みたいな女の子がたくさん出てくる。このままだと、臓器移植のニュースを聞いても「何がニュースなのか分からない」という事態に陥るんじゃないかと。
――今、身体を考えることはそれだけ切実であると。
押井 ただ、それがいいとか悪いということを語るつもりはありません。僕は、状況について描くだけですから。例えば最近、結婚しない人が増えているでしょう。僕の周りにもたくさんいますけど、それを憂うつもりなんてないですよ。孤独が悪だなんて思いませんから。そういう人が増えているのは、他人の生理との関わりを気にせずに生きたいという欲求があるからでしょう。「イノセンス」で身体について考えるからといって「もっと触れ合いましょう」ということが言いたいわけではないんです。むしろ、「向かい合って話せば分かる」というような戦後民主主義の幻想を押しつけられてきた僕にとっては、煩わしい印象すらあります。
――向かい合って話しても、分からないものは分からない。
押井 むしろ、人間が生きていく上で大切なのは「公正で適切な評価」ではないでしようか。褒められれば悪い気はしないと言いますけど、そんなの嘘ですよ。過大評価されるよりも、理解してくれた上で批判されることの方がずっとまともなことで、満足できます。
「イノセンス」では、人形と犬が、重要な「他者」として登場するという。人間を描くのに人間そのものを用いないというわけだ。押井監督は「そんなものは、文学や近代小説が散々やり尽くしたことですから。“人間とは、人間である”と堂々巡りをするだけです」と笑う。
――人形を持ち出した理由は。
押井 人形はそもそも人の形を写し取ったものですから、「人はなぜ人形を作るのか」を考えることで、身体、そして人間という存在を考えることにつながると思ったんです。それはSFの方法論ですが、SFというのは、いつだって今という時代を語るために存在する。これを、実写で役者さんを使って表現してしまうと、そもそも人形を描くということになりません。アニメーションだけが表現できる特権なんです。それにアニメーションは、まさに「人の形を写し取る」作業ですから、人形を描くことで自分がどうしてアニメーションやっているのかについて向き合うことになりました。ですから、「イノセンス」には、これまでの経験、価値観というものをすべてさらけ出して臨んでいます。
――犬の存在については。そもそも監督自身が大の犬好きだということもあると思いますが。
押井 人形は、所詮人間の作ったものですから、そうでない「他者」も描く必要があるんじゃないかと思いました。そうしたら、「なんだ、近くにいたじゃないか」って。人間同士は、相手の意識と付き合ってきたという誤解があると思うんですけど、付き合ってきたのは、結局、身体だけなんじゃないでしょうか。そういうことを、犬の存在を通じて描くことができるんじゃないかと思っています。
――「イノセンス」には、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーが参加していますね。仕事でタッグを組むのは、「天使のたまご」(85年)以来、約20年ぶりそうで。
押井 刺激的ですよ。疲れますけど。
――2人の関係を、何と表現すればいいんでしょう。
押井 友達、ですかね。嫌ですけど、他にいい表現がないから仕方なくそう言っています(笑)。
――鈴木プロデューサーは、押井監督を娯楽路線に引き戻したいようです。
押井 僕は作品をエンターテイメントだと思って作らなかったことは一度もないんですよ。娯楽についての考え方が、彼とは違うんです。だから20年も一緒に仕事してこなかった。まぁ、お互いに歳をとったんで、少しは意見が似てきましたけど。そういう意味では、今回、ドキドキしてもらうための「おもてなし」はできているかなとは思っています。
――「作品には口を出すな」という条件を伝えたと聞いています。
押井 いやいや、出しまくっていますよ。ただ、彼は直接言わないんです。誘導するのがうまい。危険な男ですよ。それでも、僕が彼の言葉を聞こうと思うのは、作品に対して真剣だからです。絵コンテも脚本も、誰より読み込んでいるのが分かります。まぁ、探偵と確信犯の関係ですね。探偵の執念が深ければ深いほど、犯人のトリックも高度になる。そうやって作品がよくなればいいんです。
押井監督の作品を観る上で、「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟が多大な影響を受けたとか、「タイタニック」のジェームズ・キャメロンが絶賛したということは、本来どうでもいいことだ。むしろ、アニメーションに、映画に、人間に、まともに取り組んだ男の一本のフィルムと向き合うには、余分な情報だ。
当たり障りのない公的な言葉と、無闇に凶暴な私的な言葉が溢れる私たちの日常に、もうすぐ、「イノセンス」という名の「自分」が舞い降りる。それまで、押井監督は、残された時間をギリギリまで使い、まさにすべてをさらけ出し「人形」に魂を入れ続けるだろう。