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(回答先: 書評のURLです 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2004 年 11 月 28 日 19:48:04)
ジャック・どんどんさん どうもです。
いつもおもしろい本の紹介ありがとうございます。
URLのリンクをクリックすると「ファイルが見つかりません」になってしまうので原文を貼っておきます。(阿修羅のCGIと相性が悪いのかもしれません)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/dokusho/archive/news/2004/11/28/20041128ddm01507022000c.html
今週の本棚:
山内昌之・評 『評伝 北一輝 1〜5』=松本健一・著
(岩波書店・各3150円)
◇天皇と国民の直結を試みた“革命原理”
北一輝は二十世紀の日本が生んだ最も複雑な人物である。幼時に眼疾を患った後、右眼を失明した北は、独自の感性と鋭い知性を武器に日本政治史に大きな足跡を残した。しかし、大正から昭和にかけて日本と中国の双方で活躍した北の行動には、毀誉褒貶がつきまとい、その思想と真意はつねに論争の的となった。佐渡中学を中退して上京した北は、幸徳秋水や堺利彦らの社会主義者と交遊を深めながら『国体論及び純正社会主義』(一九〇六年)を世に出そうとした。その一方、中国革命を援助する宮崎滔天(とうてん)との縁もあって、宋教仁らの民族主義革命派を援助し中国にも出かける。その結果、『支那革命外史』(一九一五−一六年)を出したばかりでなく、革命家の遺児を引き取って北大輝として育てたりもした。さらに、代表作『日本改造法案大綱』(一九二三年)を出版するや、西田税(にしだみつぎ)などの信奉者を介して陸軍の青年将校に大きな影響を及ぼし晩年の悲劇を自ら招くことになった。
北一輝の交遊範囲は、岸信介や大本教の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)から三井合名の池田成彬にまで及ぶ多彩かつ華麗なものであった。これほどの人物の生涯と思想を描くには、書き手の側にも相当な膂力(りょりょく)が必要となる。まさに、松本健一氏の五巻本は本格的な「評伝」の名にふさわしい大作である。氏の論点で重要なのは、天皇を国家支配の機関としてとらえる北が天皇を“革命原理”として使おうとしたという指摘である。三島由紀夫のいう「悪魔的な傲り」にほかならない。北は、「万世一系」の明治国体論がふりかざした「天皇の国家」や「天皇の国民」というイデオロギーを斥(しりぞ)け、「国民の天皇」という考えによって天皇と国民(軍隊)を直結させようとした。天皇を“支配原理”として国家運営をするのでなく、天皇を“革命原理”に置き換えて国家改造すなわち革命を実現しようと試みたのだ。これを担う力として徴兵制下の国民すなわち軍隊を掌握することは、北が中国ナショナリズムの革命から学んだと松本氏は語る。北が『改造法案』で「私有財産限度」を三百万に設定しており私有財産を認めているから“反革命”だという旧左翼的な見方に対しては、近代の個人主義が成功するには自由な経済活動が条件だとし、労働省の設置を要求するなど労働者の権利を尊重した姿勢こそ重視しなくてはならないと反論している。
北は、朝鮮を日本の「属邦」や「植民地」でなく「日本帝国ノ一部」だとし、日本人と朝鮮人が「異民族」として対等の立場にあるとも論じていた。皇太子(後の昭和天皇)暗殺を企てた朴烈(パクヨル)らが北の懐に飛びこんだのには根拠があったのだ。北の『改造法案』は石原莞爾の「東亜連盟」の昭和維新論とともに、戦前の朝鮮民族が辛うじて同意できた考えだという松本氏の説は検討に値するだろう。また、北に私淑した西田税はもともと、秩父宮と陸士の同期であり、西田は日本の無産階級が「極度に虐げられて」おり、「げに、日本改造すべくんば天皇の一令によらざるべからず」と宮に語っていた。
北は二・二六事件の頃に三井から一年につき二万円(現在の二千万ほど)をもらっていた。また、料亭で豪遊を重ねていた点も厳しく指弾されることが多い。しかし、カリスマとは革命のために「一切が許される」と考える非日常的な存在であり、信奉者たちを養うために財閥から生活費をもらっても「喜捨」のように考えるという。北は、二・二六が起こると安藤輝三大尉に「マル」(金)はあるかと電話で聞いている。大事にあたって金が必要だというのは、中国革命を体験した政治リアリズムに由来するのだ。リアリズムは、日米戦争がソ連の参戦をうながし「世界第二大戦」につながり「破滅」を招くので断固回避すべきだという主張を生み出していく。これほどの現実主義者の北は、青年将校の決起を単純に扇動したわけではない。北は、青年将校らが外部の誰にも事態の収拾をあらかじめ頼んでおかなかったことを聞いて「しまった」と思ったらしい。北は、法廷にあっても、青年将校が自分の『改造法案大綱』を信じたという理由から極刑になったのなら、「青年将校を見殺しにすることが出来ません故、承認致します」と罪状を争わず、かれらと同じく死刑の判決を自ら求めたのである。松本氏の感想は多くの読者のものでもあろう。「ここには、じぶんのことを信奉してくれた青年将校たちとともに死に赴きたい、という北一輝の人間性が明らかにでていた」と。
北にとってせめてもの慰めは、裁判長の吉田悳(あつし)少将の公正さであった。吉田は、第一回公判で北について「柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と手記に印象を残している。法務官(検事)が死刑を求刑すると、事件の最大の責任者は「軍部とくに上層部の責任である」と暗に純真な将校たちを死に導いた真崎甚三郎大将らの野心に「許し難きところ」があると示唆したのだ。“敵”の裁判長や刑務所長からも信頼と敬意を寄せられた北の人間性と思想性を多面的に描いた伝記傑作といえるだろう。
毎日新聞 2004年11月28日 東京朝刊