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(回答先: 見事にブッタ斬られてしまった。降参です。 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 11 月 17 日 07:53:26)
横レスですが、ちょっと雑談的感想です。
バルタン星人さんの博覧強記にはいつも驚かされます。ただ、
>本居宣長はヘーゲル主義者(メチャクチャなこと言い出しますが)だと思います。
というところは別の意味で驚きでした。
小林秀雄の受け売りですが、宣長が「古事記伝」でやろうとしたのは、古人のように読む、ということですね。
テキストクリティークでもないし、構造分析でもない。
記号論でも、解釈学でもない。
ロラン・バルトが最後に到達した「肩ごしに作者の息づかいを聴きながら読む」境地でもない(かなり近い気がしますが)。
まったく独自の読みで、あえていてばベルグソンに近い(笑)。
たとえば『思想と動くもの』(岩波文庫)の「哲学入門」という章の冒頭で次のように書いています。
「たとえば空間の中に一つの物体が運動しているとする。私はその運動を眺める視点が動いているか動いていないかによって別々の知覚をもつ。私がその運動を関係づける座標や基準点の系に従って、すなわち私がその運動を翻訳するのに使う記号に従って、違う言い方をする。この二つの理由から、私はこの運動を相対的と名づける。前の場合も後の場合も私はその物の外に身を置いている。ところが絶対運動という時には、私はその運動体に内面的なところ、いわば気分を認め私はその気分に同感し想像の力でその気分のなかにはいりこむのである。その場合、その物体が動いているか動いていないか、一つの運動をとるか別の運動をとるかによって私は同じことを感じないだろう。私の感ずることは、私がその物体のなかにいるのであるからそれに対してとる視点には依存しないし、元のものを把握するためにあらゆる翻訳を断念しているのであるから翻訳に使う記号にも依存しない。つまりその運動は外から、いわば私のほうからではなく、内から、運動のなかで、そのまま捉えるのである。そうすれば私は絶対を捉えたことになる。」
ここで言う「運動」を物理科学的に捉えると意味が分かりにくいかもしれませんが、「運動」を「持続」と解釈すると、ベルグソンのいわんとするところが見えてくると思います。
「運動」を翻訳する記号を使う時、言い換えると、運動その物の外部に身を置く時、「運動」そのもの(絶対)を捉えたことにはならない、とベルクソンは批判します。
しかし、「運動」その物を捉える方法はないのかというと、ベルグソンはあると言います。
それは「運動」(する対象)その物の内部に入り込むことです(それが「哲学的直感」というわけですが、その根底にはカント批判があると思います)。
そんなことは可能かと思う人は『意識に直接与えられたもについての試論』(ちくま学芸文庫)や『物質と記憶』(駿河台出版社)、『創造的進化』(岩波文庫)を読んでいただくとして、議論を少し進めると。
あらゆる読みは「翻訳」を含んでいます。
しかし、それでは必然的に一面を捉えることしかできない。
決して全体(絶対)を捉えることはできない。
小生は、「翻訳」の不可避性を唱えるデリダには懐疑的で、「肩ごしに読む」ことの快楽(翻訳の不可能性)を語るバルトに共感を覚えます。
また小林の受け売りですが、宣長は「翻訳」技術をほかの誰よりも身につけた上で、あえてそれを捨てて対象の内部に入り込もうとした。
事の成否はともかく、そのような読みの冒険には感嘆せざるをえません。
ベルグソニアンである小林は、宣長のそのような試みにベルグソンの魂を感じていたと思います。
私たちはそのような読みの本質を十分に精査していないと思っています(バルトが本居宣長のような読みの試みを知ったら何と言うだろうか、バルトと小林秀雄の対談というのも聞いてみたかったですね)。
ということで、宣長は、過去を過去として(古人のように)観よう(読もう)というのですから、ヘーゲル主義的歴史主義では断じてないと思うのですがいかがでしょうか。
それにしても、これまた小林の受け売りですが、中江藤樹、山鹿素行、伊藤仁斎、本居宣長など、江戸時代に登場した思想家には現代的に見ても興味深い人がたくさんいますね。