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一国心中考
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投稿者 一般ピープル 日時 2004 年 11 月 11 日 01:09:52:zkY.B9mkzvW4Q
 

(このトークは前回の「君、我が子せめて墓場に臥させよ」が短時間で書かれた不備を踏まえ修正したものである)

一国心中考

 アメリカの都市部の人々はインテリジェンスに富んでいるが、全土のとくに内陸を回ってみて思うことは大部分の人々はシンプルで子供っぽいということだ。今回の大統領選でケリーの都市部、ブッシュの内陸という構図が出たのはその意味で非常に分かりやすい。私の姪はニューヨークでアメリカ人と結婚して住んでいるが、今回の結果に夫婦ともども大変失望していた。南北戦争もまたそうだがアメリカにはこのように知的な層とシンプルな層との対立があたかも国の対立のように昔から存在する不思議な国である。
  それとともに思うことはこの国の内陸部の大部分は土漠や砂漠であり、内陸生まれのブッシュが単純に世界を単純に悪魔と正義に仕分けするように、アメリカの内陸では過度なピューリタニズムがいまだに機能しており、こういった風土からはえてして強硬で排他的な宗教や抽象思考が発生しやすい。
  その意味でアメリカ内陸の風土はまた中近東のそれと似ており、見方によってはそのふたつの過剰な空想的性格がぶつかり合っているとも考えられる。イスラム国に生まれた「千夜一夜物語」またアラジンの魔法のランプという誇大妄想は砂漠風土ならではの発想だし、件のアメリカ人が固有に持つ全能感も空想的だ。
  アメリカ人の全能的性格は宇宙開発、ディズニーランド、そして高性能兵器を玩具のごとく使ってバーチャルな殺戮を行う戦争好きな国民性に現れるが、イスラム教国においてもいたるところでその誇大妄想という名の魔法のランプの巨人に出会う。
  つまり「絶対神」に位置づけられるアッラーそのものが誇大妄想そのものであるわけだが、そのような宗教的場面でなくとも日常の中においても巨人は立ち現れる。
  たとえば私たちが街を歩いていて買い物をする。だいたいふっかけてくるというのは通り相場だが、いつかイランにおいて切れた靴ひもを買おうとすると、一〇〇倍近い値段を吹っかけられたことがある。自然という規範によって人間の思考が制御されているインド以東の国々においてはいくら吹っかけてもこのような無謀な数字は出てこない。しかも彼らはあのモスリム独得の憤怒の眼光で誇大妄想を押しつけるのである。
  彼の言い分はこうである。
  あんたはこれから何ヶ月も旅をする。靴ひもが無ければ旅は出来ないだろう。だからこの靴ひもはあなたの命と同じように価値があるじゃないか。
  理屈と言えば理屈である。そして油断しているとさもそれが正論のように聞こえていつしか丸め込まれてしまうから用心しなければならない。靴ひもそのものに価値があるのではなく、その付帯した意味や用法に価値があるというのは考えてみればまあそうだなぁと思ってしまうのである。それは彼の地において、タダのがれきの土漠が聖地となったときにいかなるものにも代え難い価値を持つことと同じことだ。そしてこのような場合、あの人を飲み込むような眼光につきあってはいけない。暖簾に腕おしの酔眼で値を叩く。そしてやがては価格は落ち着くところに落ち着くわけだが、彼らは一〇〇倍のものを五〇分の一に値切られてそれまでと同じように怒ったような面をしているかというとそうではなく、交渉が成立すると一転、知己の友のようにハグをしてきたりする。それまでの鬼気迫る戦いが何だったのかアホらしくなるほどである。客観的に見ると笑えるほど滑稽な場面に遭遇しているわけだが、彼ら一流のその詐欺師のような駆け引きにつきあいはじめるといつしか感覚が麻痺し、アリ地獄に巻き込まれたように抜き刺し難い状態に追い込まれるわけだ。

 サマワに駐屯した自衛隊と地主の間で交わされた土地賃貸交渉の顛末はまさにこのアリ地獄そのもので、私は逐一報道される経緯を見ながら「ああ、またやってるなぁ」と妙なことについ頬が緩んでしまった。それとともにあの純情な自衛隊が丸め込まれるのは時間の問題だろうなと予測していたが、案の定、彼らは無償の援助に行ったにもかかわらず、あのだだの何もない砂漠の砂に莫大な金を払わされつづけている。 
  ことほど左様に、彼の風土の掟や思考の構造に立ち向かうのは生半可な神経では太刀打ちできない。かつて私は以前向こうの聖職者と宗教談義をしたことがあり、仏教の中に流れる「多神」「寛容の精神」というものを説明した。ふんふんと納得したように聴いていた彼が最後に何と言ったかというと、
  「ということは仏教というのは疲れた考えが支配しているということだな」
である。
  本当に驚いた。
  寛容=疲労。
  「眼には眼を、歯に歯を」という復讐の等価交換の原則を数千年も貫き、今もまたその原則の中に生きる彼らにとって「許す」ということは「疲れ」でしかないのである。
  幸いなことに私たちこの仏教国はこの度し難い異郷の人々と政治的にも地理的にも長い間距離を保ち、イスラム的な誇大妄想と不遇なクラッシュをするのは、せいぜいたまにそこに迷い込んだ私のような旅行者程度で済んでいたわけである。
  しかし9・11以降その関係性と風景は変わった。
  イスラムと正面衝突したアメリカに無条件で追随した日本は、好むと好まざるとに関わらず(あまりなりたくはない)イスラムの隣人とならざるを得ない時代がやってきたのだ。

 その帰納的なひとつの結果がひとりの日本人青年の死である。この路上に汚物のごとくうち捨てられた死は最大限に陵辱されていた。
  イスラムの世界では畜生界に突き落とす意味を持つ断頭。
  そして血にまみれたアメリカ国旗の包衣。
  かりにひとりの青年の軽率な旅程がそのような結果を生んだとしたとしても、そのような「無惨な日本人の死体」を生み落とした日本の戦後政治に怒りと悲しみを覚える。
  加えて小泉首相に言いたい。
  君は「世界」というものをあまりにも知らなすぎる。そして、またイスラム世界というものをあまりに知らなすぎる。
  イスラムの人々は、おうおうにして独善的ではあるが、またその言動が強硬な反面、礼節を重んじる人々でもある。この礼節は何によって表現されるかというとそのひとつは着衣だ。
  フランスにあってイスラムの女性のスカーフ問題が騒がれたように彼らにとって包衣は単にファッションではない。すべては神に対する礼節にはじまっている。その着衣の思想が他者にたいする礼節となって敷衍するわけだ。つまり彼らは自分のためにではなく他者を敬うために着衣するのである。
  今回、ビン・ラディン氏がひさしぶりに声明を発表する場面が見られたが、私は彼の着衣を見て驚いた。それがほぼアメリカに対しての声明であったわけだが、彼はサーモンピンクの包衣に純白の法帽という最高の礼節を表す衣装で現れたのだ。このことはイスラムの研究者の間でも話題にもならなかったか、あるいは気づかなかったようだが、彼の民族の懐の深さに感じ入った一瞬だった。
  また今回、日本人青年を殺害したグループの声明発表時の、背後に聖旗を、そして黒衣でシンメトリーに居並ぶその姿にも並でない決意がその姿に現れており、これは非常に危険な状態であることを臭わせたし、そういった場面でも儀式性を崩さない彼らの姿に奇妙な言い方になるがイスラム人の礼節を感じた。
  そのように他者に対する時の礼節としての儀式性や着衣を重んじる彼らに対し、香田証生君が不運だったのは、小泉首相がたまたま災害視察地で日本人青年拘束に対する記者の質問を受けたことだった。このとき日本は洪水や地震という災害に見舞われ、この日本がてんてこ舞いしている時期にとつぜんのごとく発生した人質事件にまたぞろ何をやっているのか、という気分が一般的な日本人の感情だったと思う。その感情を露骨に表したのが小泉首相だった。災害現場での日本人記者のとつぜんの質問に「テロには屈しない」吐き捨てるように言い、そのままそっぽを向いて歩きはじめたのである。しかもその姿は手軽な作業服のままだった。かりに小泉首相が言うようにそれがテログループであったとしても、彼らは儀礼的な姿で小泉首相に声明を出したのである。それに対し、ほとんど犬猫をあしらうような姿(着衣)と態度で声明を唾棄したこの一瞬、ほぼ証生君の処遇と運命は決まったと言える。
  運命が決まったということは、彼の処刑が決まったということのみをさすのではない。今日の日本の置かれている立場、というより小泉首相個人の置かれている立場からするなら、グループの要求に応じて自衛隊を撤退させるということはほぼありえない。
したがって、前回の日本人拘束のようにグループが身代金目的ではない以上、証生君が処刑されるであろうことは動かしようがない結末だったのだろう。
  私の言う、運命、処遇とはその屍の姿にある。
  一人の日本人は考えうる限り、最大限の恥辱の姿で殺されたのである。
  彼にあのとき、記者のイレギュラーな質問に対し、ちょっと待てとそれを制し、官邸に帰ってのち、あらためて彼が衣服をフォーマルなものに着替え、日本人記者団に向かってではなく、グループに向かって、なぜ私たちがイラクを撤退出来ないのかを(かりに彼らがそれを欺瞞と受け取るとしても)説明すべきだったのだ。
  確かにそれでも証正君は殺されただろう。
  しかしあそこまで憎悪と恥辱にまみれた無惨な死体にはならなかった可能性もある。
 
  私には今回の人質事件から殺害にいたる日本人の姿が一人の青年の死にとどまるものではなく、今後日本人が置かれるであろう世界における特異な位置を何かを暗示しているように思え不気味に感じている。
  対中国政策を見てもわかるように、小泉という人は自分の快感を満足させる対象に対してはことのほか溺愛し(脂つくような目つきで韓国女優チェ・ジュやブッシュの手を両手で握りしめるこの過剰)、不快な対象に対しては徹底的にシャットアウトをするという特異性格が見隠れする。そういった彼の言動を見ていると彼は村十分の出来る人であるのかも知れないとも思う。村八分とは村で不義を働いた人間が共同体からはじき出されることをさすが、しかし冠婚葬祭の参加、つまり二分だけの関わりは許されるという人間味を残した柔軟な共同体システムだ。かつて小泉首相の母堂が亡くなったとき、葬式に出たいと言った別れた妻の申し出を彼は拒否したという事実があるが、彼には人間として他者に持つべき二分の許容を持たない村十分のできる人間なのではないか、とそのときふと思ったことがある。
  こういった没個人的性格が個人の人生の幸不幸に反映され、その人の将来の運命を左右するということであれば、それは自業自得、身から出た錆、で済むわけだが、ヒトラーがその好い例だが一国の首相というものはその個人的性格によって国民の運命を左右する運命共同体の長なわけだ。
  話の香田証生君に戻すなら、香田証生君が単なる一個人でなく、一人の日本国民であるという視点に立てば、その死によって世界における日本人の立ち位置が暗示されたということに他ならない。そしてその無惨極まりない一日本人の死は小泉政治、いや彼の個人的キャラクターによって育まれた快不快政治の産物でもあると言える。
  彼は今、国民を引き連れてイスラム世界のあの「憎悪の連鎖」の中に自ら好んで入り込みつつある。そしてブッシュの再選によってさらにその傾向はエスカレートするだろう。
  昨今、小泉は、あの狂犬と言われたころのリビア大統領、カダフィーと人相が似てきているように思う。カダフィーはその後寝室のそばに爆弾を落とされて、キンタマが縮みあがり、アメリカの忠犬になったが、強硬なわりには腰砕け、というカダフィー的な優柔不断ぶりもカダフィーと似ていた方がまだましなのかも知れないと思うのである。

(このトークは前回の「君、我が子せめて墓場に臥させよ」が短時間で書かれた不備を踏まえ修正したものである)

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