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(回答先: 第五章 解き明かされる明治維新の裏(新潮社) 投稿者 エンセン 日時 2004 年 8 月 04 日 05:12:49)
本シリーズの「第三章・横井小楠」において、筆者がフルベッキ写真に写っている大隈重信とされる人物は、本物の大隈重信にほぼ間違いないと述べたのを覚えている読者も多いと思う。そして、その理由については本シリーズで大隈重信を取り上げた際に言及する旨約束していたが、今回漸く約束を果たす時が来たようである。
最初に、フルベッキ写真に写るのは間違いなく大隈重信だと語っているのは、 "Verbeck Of Japan"(Reprint Services Corp)を著したウィリアム・エリオット・グリフィスである。そのグリフィスの "Verbeck Of Japan" を訳した村瀬寿代氏による『新訳考証 日本のフルベッキ』(洋学堂書店)の中に、グリフィスが問題の “フルベッキ写真”について言及している個所があり、フルベッキ写真に写っているのは間違いなく大隈重信であることを示す興味深い内容になっているので以下に全文を引用しておこう。
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フルベッキ氏がアメリカに送った、教師とその生徒たちの写真(筆者注:フルベッキ写真)は日本の歴史家にとっては非常に価値のある資料であろう。この若者たちの中には、後に政府の様々な部署で大きな影響力を持った多くの人物を認めることができる。各省の長、大臣、海外派遣の外交官、そして皇国の首相になった人物など。本の助けや、人に聞くことなく筆者(筆者注:グリフィス)が思い出したり、判別できる中に岩倉兄弟[岩倉具定・具経]がある。また、大隈伯[重信]がいる。日本の新体制の下、この40年間に大隈伯の活躍はめざましく、財務の長や外務大臣、大学の創立者となった。1874年に中国に派遣され外務卿となった副島[種臣]とともに、大隈はフルベッキ氏の下で特に合衆国憲法を学び、ほとんどすべての西欧諸国の基本法に精通した。柳谷謙太郎は特許局長であり、その他にも、1874年にキリスト教国に派遣された使節団の中に、写真に写る者を多く認めることができる。
『新訳考証 日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)
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ちなみに、グリフィスはフルベッキが福井藩の教師招聘をラトガース大学に要請したのをきっかけに来日している。一年近く福井藩で教師を勤めた後のグリフィスは、南校(東京大学)の教師として雇用されており、当時南校の教頭をしていたフルベッキの日々の仕事および生活をつぶさに観察出来る立場にいた。
次に、肝心なフルベッキ写真の撮影時期であるが、問題のフルベッキ写真が撮影されたのは1869年(明治二年)という世間で通説となっている撮影時期でもなく、また佐宗邦皇氏らが主張する1865年 (慶応元年)という撮影時期でもなく、撮影時期を1868年12月(明治元年10月)から1869年1月末(明治元年12月)の間と松浦玲・村瀬寿代の両氏が推定しているのは以下の理由による。
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岩倉兄弟、大隈、フルベッキの行動は概ね記録が残っているので、この四名が長崎で会することのできる時期を調べれば撮影時期が推定できる。大隈が長崎で起きた英国水兵斬殺事件の審査のために来崎したのが1868年10月(明治元年9月)頃である。事件解決後、1869年1月30日(明治元年12月18日)には京都に戻っている。岩倉兄弟は1868年12月(明治元年10月)頃来崎する。また、彼らは1869年1月3日(明治元年11月21日)には佐賀に招かれ、フルベッキも同行したようで、フルベッキはその前日1月2日(旧暦11月20日)に鍋島閑叟の別荘に招かれる。以上から、岩倉兄弟・フルベッキが佐賀を訪問する1868年12月末〜1869年1月初頭(明治元年11月)を除き、岩倉兄弟が来崎した1868年12月(明治元年10月)から、大隈が長崎を離れる1869年1月末(明治元年12月)までの二ヶ月足らずの間に、写真が撮られたと推定できる。
『新訳考証 日本のフルベッキ』(松浦玲監修・村瀬寿代訳編 洋学堂書店)
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さらに、フルベッキ写真には従来から謎めいたところが多々あったと指摘しつつ、その原因を佐賀の乱に村瀬氏は求めているが、なるほど一つの考え方であると思った。そのあたりの村瀬氏の推測に関心のある読者は、直接村瀬氏の『新訳考証 日本のフルベッキ』を参照されたい。