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あっしらさんこんにちわ。大変遅れたのですが、一応【Re: 感想、質問など色々です。
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/629.html】へのレスです。
(「産業資本主義の終焉」シリーズは遂に完結したのですね。どうもお疲れ様でした。大変楽しく拝見させていただきました。今も新旧問わず何回か読ませてもらってます。理解がある程度追いつきましたらまた「噛付かさせて」もらいますんで(笑)そのときは宜しくお願いします。)
【あっしらさん】
「「マンキュー、スティグリッツ、伊藤元重各氏」の本を読みながら、「この問題はこういうように解釈されているのか」とか「おいおい、それは違うだろ。こうだろう」と考えていますが、相手は応えてくれないはずもなくつまらないですね。」
確かに本を読んでて何か気になることや突っ込みたいことがあっても作者に対してどうしようもありませんからね。時々ですが似たような思いを感じます。
ただ、以前の「主ー客」構造の話の折(認識における「主―客二元論」の超克:「純粋主観」・「純粋客観」そして「純粋感覚」の不在http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/228.html投稿者 あっしら の辺り)あっしらさんが他者との話し合い(議論)や投稿態度にこだわる哲学(信念?)的理由を教えて頂きましたが、阿修羅でのご活躍ぶりから想像してあっしらさんの場合それとはまた別の次元で相当の議論好きだろうとお見受けしています(笑)。上述のつまらなさも恐らく人一倍感じるんでしょうね。
だからという訳でなく寧ろ一読者の要望になるのですが、あっしらさんが「マンキュー、スティグリッツ、伊藤元重各氏」の本の気になる部分を抜き出し反論を試みるというのも相当興味をそそられます。恐らくですが「近代経済学」と「あっしら的経済解釈」の相互比較が出来て話がとても見えやすくなると思います。いかがでしょう?(ちょっと悪ノリが過ぎましたかね、、)
まっくすさんとあっしらさんの対話は大変興味深く拝見させてさせてもらっていたのですが確かに最近見ませんね。お元気だといいのですが。
【あっしらさん】
「他者も自然も自己も同一存在であり内的連関性によって動いていると理解すると、主−客の対立は消え去り、感性的には外であるものの存在性もよく見えるようになると思っています。生と死の違いは、内的連関性の在り方が変わるだけの話かもしれません。」
この辺りは一体どの様な意味なのでしょうか?何度か考えてみたのですが何となくしかイメージが掴めなかったので、、宜しければまたお願いします。
【あっしらさん】
「ボールを投げるにしろ、女性を口説くにしろ、力学理論や恋愛論という抽象的な理論を知っているだけではあまり役に立ちません。力学理論や恋愛論をまったく知らなくても、絶妙なコントロールでボールを投げたり、恋しい相手を落とすことはできます。力学理論や機械工学を修得していれば、絶妙なコントロールでボールを投げる装置は作れます(このときでも「想像力」は不可欠です)。しかし、恋愛理論でどのような女性でも落とせると考えるのは夢想です。」
ボールを投げることに話を限定すれば、数式と言葉で表せるような力学理論を知っていても(大いに参考になることもありますが)直接的にボールを上手く投げれるようにはなりませんね。ですが、ボール投げの方法(理論)を身体感覚として記憶しているなら上手にボールを投げれると思います。
この事から「想像力」について考えを膨らますと、(人間関係的なものを除いて)行動を目的とした想像は物と自己の身体に対する感性(感覚)的なイメージを必要とすると考えられそうな気がします。人間が外に向かって活動をするならどの様な形であれ身体を経由しなければならないからです。
恋愛論の方でも「理論の感性化(身体認識化)」ができれば幾らかは役にたつ気もしますが、そもそも完璧な恋愛論なんて、、、多分無さそうです。
なぜ力学論なら良くて恋愛論はだめかといえば対象の複雑も然ることながら、人間の認識の限界性も関係あると思います。ボールと違って見えないし確かめようもない(相手の)心を恋愛論は扱わねばなりませんが、もちろん直接確かめることは出来ません。とすると相手の心の内を探るには相手の様子から判断するしかない訳です。じゃあここで判断するための基準は何かといえば自分自身の精神に対する内省しかないと思うのです。人が笑ってるのや泣いてるのを見て「楽しいんだな」「悲しいんだな」と想像するには自分が笑ったり泣いたりしている時の感情を基にするしかありません。しかしここであっしらさんの説を借りるなら「私は(生きてる間は)永久に私にたどり着けない」という事になります(観測者である私が観測者である私を観測することは出来ないというのがその理由でしたよね。とすると案外死んだ後なら私は私にたどり着けるかも、、、)。自分を基に相手を知るしかないのに自分自身すら知り切ることが出来ないのなら、やはり完璧な恋愛論は無いと思います。
余談ですが、同じ理屈で友情も家族もそして結局は人間関係である政治も畢竟政治の一部である経済、軍事、どれも完璧な理論などないと言えそうです。
さてやや話が飛ぶのですが以前出させてもらった「遠さ」について、何とかまとめられましたので、、
理論が完全であれ不完全であれ、そして思考の対象が人であれ物であれ、有用な想像力を働かせるためにはそれらに対する感覚的、感性的なイメージを相互の連関によって動かすしかないと思います(ボールを投げるときの(自分の)力加減や、「あの人にこんなこと言ったらどう感じるだろう」と具体的に想像するなど)。ならば、具体的な人、物にたいするイメージがなければ考えようが無いことなります。
とするとです。結局近代人は、例えそれが自分に多大な影響を及ぼすものであっても(環境問題とか原発問題とか経済問題とか)、考えられない、考えようがない状況なのですね。だって様々な問題があることは知っているし、人によっては幾らかなの知識も持っているでしょうが、問題の現場が余りにも遠いため考えるのに必要な生の認識を持つことが出来ないのですから。
(逆に言うと問題の「現場」が生活の近くにくれば、人は色々と考え出すものなのかな?)
政治家の方々と想像力について
考えたり、想像したりするためには人や物や事に対する「具体的」なイメージが必要だと先ほど仮定しましたが、これが一般に通用するとすると一つ不安なことが。
今の政治家や官僚の方々は本当に国民生活について考えてくれているのかということです。僕自身はごくごく普通の一般人ですが、その一般人には政治家の人たちは余り身近に感じられません。別に全部の家を見て回れなどとは言いませんが、このような状態で政治家の皆さんは本当に考えるのに必要なイメージを持つことが出来るのでしょうか?
少なくともテレビに映っている政治家の方々の言説は余りに空虚で、一般人の生活からは乖離しきっているように感じます。
あっしらさんは以前、「支配者(エリート)は地に降りるべきだ」と仰っていましたが、それは地に降りなければ考えるのに必要な生の認識を得ることが出来ないから、というように受け取っても構わないのでしょうか。
それではこの辺で失礼します。では。