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その昔新宿昭和館(もう影も形もないだろうなあ)なるヤクザ映画専門の映画館でたった一度だけヤクザ映画の3本立てというのを見たことがある。3本見終わって、ホントにあきれてしまったのをよく記憶している。3本とも主演俳優や舞台設定こそ異なっているものの、シナリオの展開は全く同じなのである。
ある町にもうこの道何十年の凄く良い親分がいる。任侠道をわきまえており、人情にも厚く地元にも人望があり誰からも慕われている。親分には美人の娘がいる。これはもう必ずいる。一方同じ町に新興ヤクザがおり、これはもうとことん悪い親分に率いられている。仁義もへったくれもなく、堅気の商店主からみかじめ料はたかるは、女子供に平気で暴力をふるう(今回の学校占拠テロリストみたいだな)は、もう町中の鼻つまみである。これが町の実権を乗っ取ろうと良い親分にあれこれ言いがかりをつけ、暴力抗争に発展する。そんな中で流れ者の任侠がひょんなことから良い親分の所にわらじを脱ぎ、親分の娘ともいい仲(といってもプラトニック)になる。
良い親分は堅気の衆に迷惑をかけちゃあいけねえ。と悪い親分の挑発にじっと耐えて、耐えて、耐えまくる。流れ者もその親分の意向を重んじて、悪い親分の手下の暴虐にじっと耐えて、耐えて、耐えまくる。ところがついに敵の暴力はエスカレートして、良い親分は殺されてしまう。
さあこの流れ者(大体高倉健か、村田英雄が演じている)が怒るの、怒らないの。今までの耐えに耐えたエネルギーが大爆発して、悪い親分とその手下は全員きれいにぶった切られる。これで観客もやっと溜飲が下がる、という仕掛け。
でもこれだと一本見たらもう何本見てもかわりばえしないなあ、と思ったが、周りの観客は結構楽しそうに鑑賞している。ヤクザ映画の制作本数は膨大なものだったであろうから、商業的にもきっと膨大な観客層の裏付けがあったのだろう。徹底的な善玉と徹底的な悪玉の単純な二元論、そういうものを好む階層というのはいつの時代にも存在するのだろう。
でも実際の世の中はこんな単純に割り切れるものではない。どんな人間も善良な側面と邪悪な側面の両方を備えている。ただしその割合には個人差があり、また邪悪な側面をそのまま発現させてしまうか、他人との関わりの中でそれを殺せるかどうか、という所が個人差なのである。この葛藤の全くない人などいるはずがない。(そもそも善良なヤクザなど形容矛盾でしかないが)
同様に戦争やテロで大もうけしている吸血鬼のような連中だって、個人的には意外に親切な紳士かもしれない。ただそういう職業を選んでしまって、いまさらその流れを変える勇気がなくて、そういう業界にいる場合だってあろう。悪名高いカショギのような人間だって、個人的には意外と魅力のあふれた人物かもしれない、と思うのである。そうでなければ各国を股にかけてあれだけの営業はできないであろう。
戦闘機を作って儲けているような大企業の場合、(特にアメリカの場合)経営者も従業員もお国に貢献している、という矜持を持っている場合がほとんであろう。イラクの市民の頭上にクラスター爆弾を降らす現場を見る機会がないからである。政府から「テロから国を護るために使われている」と言われてそのまま鵜呑みにしていることであろう。この人達を「鬼だ、悪魔だ」とわめいてもなぜそんなことを言われるのかも分からないであろう。話は簡単ではないのである。
とはいえ彼らの作る戦闘機で何十万という無辜の市民が殺戮される現実に変わりはなく、どうにか止めさせなければならないことは言うまでもない。ただ「人殺し〜」と叫ぶだけではなく、知恵が必要な所以である。
世の中には先のヤクザ映画ファンに見るように、単純な善と悪の二元論にすべての現象を還元してしまう傾向を持つ人というのは、まちがいなくいる。きっとそういう人々はどんな複雑な社会現象でも、自分の頭の中にできあがった一つの理念型の鋳型に当てはめてしまうのだと思う。その結果理念型以外の情報を正しく処理することはできなくなってしまう。無理に押しつければ消化不良を起こすだけであろう。これはやはり困ったことである。