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ミール共同体とロシア革命 後藤新平、柳田国男など>ジャック・どんどんさんへ
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/469.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 8 月 17 日 23:25:21:akCNZ5gcyRMTo
 

参照スレ
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/410.html ジャック・どんどんさん

ジャック・どんどんさん どうもです。夏休みモードでレスが遅れました。

引用は前後しています。
>ロシアの農民自治は、ミールという相互扶助組織で成り立っていて、都市の論理
>(近代化の論理)のイデオロギーであるマルクス主義を受け入れなかった、と昔、
>松田道雄さんのロシア革命の評論で読んだことがあります。

小児科医の松田道雄さんも『思想の科学』のメンバーじゃなかったでしょうか。
『ロシアの革命』も良い本ですが、ミール共同体については『ロシア十月革命』長尾久 
亜紀書房 からちょっと長くなりますが引用します。
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闘争は農村でも起ってきた。すでに一九〇四年からグルジヤでは地主地が続々占拠されてお
り、〇五年二月には戒厳令が布かれるまでになった。中央部でも二月から農民運動が始まり、
四月頃からは村総会決定による村ぐるみの運動が各地で展開されるようになった。このような
村ぐるみの運動の存在を提起した日南田静真(『ストルイピン農業改革』日南田静真 バルタン
注)は、この運動を「全村取決め」運動と呼んでいる。
当時のロシヤの村の多くは「ミール」または「オプシチーナ」と呼ばれる伝統的共同体を
基礎にしていた。ミールは、一三世紀頃からかなり広く存在し、はじめは農事計画や共有地の
利用規制、次いで租税の割当てと徴集、荒廃畑を小作に出すこと、下級裁判などをやり、やが
て土地の配分や割替えもおこなうようになった。土地配分は、平等を原理としたため、入りく
んだ混在耕地制を生み、同じ原理から、定期的な、何年ごとかにおこなわれる割替えがおこな
われるようになった.混在耕地制と割替えは、土地共有思想(土地はミールのもの、神のものとい
う思想)から生れたが、同時に実施される中でこの思想を強めもした。このような村落共同体
は、ロシヤの農村のかなりの部分で、特にロシヤ中央部の農村において一九三〇年代の農業集
団化まで生き続ける。一八六一年の農奴解放によって、ロシヤの農民は、ミールを基礎とした
村団といくつかの村団を合せた郷とに編成された。村団は、各農家の戸主より成る村総会と
村総会選出の村長を通じて一定の自治をおこなった。郷は、一〇戸に一人の代表より成る郷
会、郷会選出の郷長、郷長と郷の全村長から成る郷参事会を通じて一定の自治をおこなった。

これら農民自治機関に対して、政府は地方司政官(ゼムスキー・ナチャーリニク)を任命し、これ
を通じて強力に監督した。各村団は、租税支払いの連帯責任を負わされた。このような、農民
の日常生活と結びつき、しかも帝国の地方統治機構の末端機関だった村が、農民の村ぐるみ闘
争の機関に転化していったのである。このような形で、農民はまず、地主農場での労働報酬の
引上げ、地主地借地料引下げを要求して立ちあがった。闘争は多くの場合、農民による農場ス
トライキ運動となっていった。「血の日曜目」の経過にもこの村ぐるみ闘争にも、ロシヤ革命
の深さがよく現われている。

ところで一九〇五年夏までの農民運動が基本的に地主農場での労働報酬の引上げと地主地借
地料引下げを求める運動だったのは、農民の多くが自作兼小作だったからである。当時のロシ
ヤの小作は、農民が自分の農具と役馬を持参して借りた地主地を小作するもので、普通、雇役
制と呼ばれている。農民の多くは農奴解放によって農奴身分から解放されると同時に、この雇
役制に組み込まれた。農奴解放の時、農民は、領主のもとで用益していた土地よりも少い土地
を与えられたにすぎず、解放直後から土地不足に悩んだのに対して、地主(主として元領主)は
巨大な土地を所有していたからである。こうして成立した雇役制のもとでは、小作地収穫の2/3
が地主のものとなり、僅かに1/3が農民のものとなった。農民運動は、この地主ー農民の経済的
力関係を変えようとしたのである。

−−中略−−

一九〇五年革命後ツァリーズムはもう一つストルイピン農業改革を遂行した。ストルイピン
とは、一九〇六年当時のロシヤの首相の名である。この改革は、一九〇五年の農民運動の基
盤となったミールを破壊し、自立した富農をツァリーズムの社会的基盤として育成する、とい
うものだった。ミールを破壊するために、一九〇七年一月一日から、農民はミールから自由に
脱退することができるようになった。それまではむしろツァリーズム自休がミール維持政策を
とり、農民のミール脱退にさまざまの法的制限を加えていた。ミールから離脱した農民は、自
分の分与地を私有地とすることができた。だが当時のロシヤでは混在耕地制が支配的であり、
離脱農民は、分与地を私有地とするだけでなく、この私有地を交換分合を通じて一ヵ所にまと
めなければ、自立した富農としてはやっていけなかった。改革はこの交換分合をも推進し、フ
ートル農(住居を新農場に移した者)、オートルプ農(住居は移さぬ者)を育成していった。こうし
て一九一五年末までに、ヨーロッパ・ロシヤ四〇県で約二〇〇万戸(一九〇五年当時の当該県の
其同体農家戸数の二二%)が、約一四二一万ヂェシャチーナ(一九〇五年当時の当該県の共同体分与
地面積の一四%)を私有地とした。しかし離脱農家がすべて自立した富農になったわけではな
い。一九一五年末までに四七県でフートル農、オートルプ農になったのは、約二一六万五千
戸、その所有地面積は一二二三万二千ヂェシャチーナだった。これは当該県の全農家の一〇・
三%、全分与地面積の八・八%だった。こうしてフートル農・オートルプ農はある程度つくり
出された。だが農民の多数はいぜんとしてミール共同体に留った。このことは特に、中央農業
地帯・ヴォルガ中流域について言える。しかも、ミールを破壊しようとするツァリーズムの圧力
に対して反抗するミールもあちこちに存在した。ストルイピン農業改革は、その意図を部分的
に実現するに止まったのである。
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ロシアの農民運動について補足すると17世紀ステンカ・ラージンや18世紀プガチョフの反乱
まで遡りますが、かれらコサックは農奴制から逃亡=兆散した農民が結束して部族社会を形成
したカザーク(「自由な人」)なわけです。水滸伝ではありませんが後に帰順して皇帝の手先
となって反革命の側にまわるという皮肉な結果になりますが。

前レスでも書きましたがこうした農民運動を思想的背景としたのかナロードニキ、後の
「人民の意志」党でその血を受け継いだのが社会革命党(エス、エル)といえます。
「ロシアマルクス主義の父」プレハーノフ(レーニンではない)は人民の意志党から分流して
くるのですが、ツァーリの官僚や自由主義者も含め知識人の多数はロシアの資本主義化は不可避
であり農村共同体の分解は必須であると考えた「近代主義者」であったわけで、ストルイピンも
長尾さんの言う様に単に政治的反革命だけでミールの解体を指向したわけではないと思います。
近代的(大)土地私有が農民を大地主と農業労働者に分解させ、一部は都市に流入して工場
労働者になっていくという「西欧化」であり、ロシアがクリミア戦争でボロ負けしてから
「大改革=近代化」がいわば悲願になっていく過程でおきたことに他ならないわけです。

当時の農民の識字率は25%程度で、ナロードニキやエスエルも実態はインテリゲンチァだった
わけで「結局農民は自分で自分自身をリプリゼントする政治勢力とはなりえない」という偏見、
蔑視が続いていったのだと思います。
しかし1905年のロシア農民組合大会には上記の村総会代表が代議員187名中105名を占めており
「土地の全人民の共同所有へ」を決議しています。ここでいう共同所有はボルシェビキのいう
「国有化」や「集団化」とは似て非なるものであることは間違いありません。

この辺の話はマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で触れているフランスの小農民
と重なる話ですが当のマルクス先生はロシアの女性革命家ベラ・ザースリッチに宛てた手紙のなかで
「ロシアはミール共同体を基盤としてそのまま共産主義にいけるんやないやろか」とか結構
腰が抜けるような事ポロっとを書いています。この一言がいわゆるマルクス主義者=近代主義者
を狼狽させ「アジア的生産様式」を巡る論争の種になるわけですが....


>ソビエトっていうのは、革命用語じゃないんですか?
ロシア語で「会議」の意ではなかったでしょうか?
ソヴィエトが初めて登場するのは1905年のいわゆる「血の日曜日」事件からです。あまりにも
有名な話ですが若干ふれると、当時の「官製御用組合」=ガポーン組合が「8時間労働、最低
賃金、言論、出版の自由」をスローガンに6万人の労働者が皇帝の肖像やイコンを掲げて皇帝への
「請願」行進を行ったのにたいして、軍隊がいきなり水平射撃をしたわけです。犠牲者は
96人(官報)とも2000人とも言われています。まるでどこかで聞いたような話だ。(笑)
「ガス抜き」のための請願だったはずですが、自分も危うく殺されかけて怒り狂ったガポーン
(指導者)はゼネスト指令を出すのですが、その時各工場ごとに組織されたのが労働者委員会=
ソヴィエトです。まぁ、革命の時に出来たのだから「革命用語」というのもありますが
「新たな意味が付与された」というのが正解だと思います。

ですから「ロシア革命を指導したボルシェビキ」というのは笑止千万の大嘘です。ついでに
言えばわが日本の玄洋社=黒龍会の明石大佐がレーニンに資金援助したりケマル・パシャの
反乱を後押ししてロシアの下腹部を脅かした「陰謀」の方がはるかに面白いですね。


>あと、鶴見のおじいさんが、後藤新平らしいのですが、
>「馬鹿の壁」の養老猛センセイは、最新刊で
>『すべてのフェミニストは、後藤新平に感謝すべきだ』
>なぜなら、水道水に塩素殺菌をすることで、女性の平均寿命が驚異的に延びたのだから。
>女性が死なんようになった。
すいません。養老孟司の本は一冊も読んでいないのと、どういう文脈か判らないのでコメント
は差し控えます。
とりあえず後藤新平という「御題」だけ頂戴して前の話と繋げます。後藤新平が明治31年に
台湾で実施した「土地調査事業」なるものが農村共同体による共同所有や「入会地」を洗い出し
記帳し、課税するという近代的土地所有制を推し進めるものであったわけです。台湾総督府の
記録によれば「多くの土地を発見し租税収入は三倍にも達した」とあるようです。
日韓併合後の朝鮮で同様な「土地調査事業」を推進したのが農政官僚であった柳田国男であり
農村共同体の崩壊により行き場を失った小農民が中国北東部や日本に流入していったわけで、
併合直後の1911年の在日朝鮮人(いわゆる「半島人」)が2500人弱であったものが1930年には
8万人強と30倍以上になっています。(『南島イデオロギーの発生 柳田国男と植民地主義』
 村井紀)

ロシア革命との関連で言えばシベリア出兵に伴う米価の暴騰が富山県の主婦が口火を切った
「米騒動」を招いた事へのカウンターとして1920年頃から台湾、朝鮮での米作の強制作付けを
推進し、こうした「内省米」を含めて自給率100%以上を達成するわけですが、それが上記の
朝鮮小農民の「流民化」や「過剰米」による国内農民の貧窮化につながっていく訳です。
芋をかついで戦争には行けませんからね、夕日に染まる稲穂を見ると血の色に見えると言ったら
言いすぎでしょうか(苦笑)

引用で上げ底ですがいい加減長くなったのでライヒの件は別投稿にします。
ちょっとだけ触れると別スレのV・E・フランケルはフロイトと対立したアドラーの弟子なので
フロイトに直接教えを乞うたことはありませんが文通を続け、フランケルの論文を初めて世に
出したのはフロイトです。『回想録』は期待して読んだのですがライヒについては一言の言及
もありませんでした。

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