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参照スレ
それは初耳。仲悪いのはやはり近親憎悪だったのか。(本文なし)
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/296.html
アフターバーナーさん バルタンです。
当時の状況を知る資料としてとりあえず手元にある『革命的な、あまりに革命的な』(すが秀美)の一部を引用
したうえで、補足、批判などをするつもりです。
(以下引用)
「ブンド=全学連は『赤い太陽族』(または赤いカミナリ族)と蔑称されたところからも
知られるように、石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」(1955)以来の都市型大衆文化
を潜在的な背景にしていた。事実、石原慎太郎をはじめとして大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、
寺山修司、浅利慶太(永六輔、黛敏郎、福田善之らも含む:バルタン注)といった当時ほとんどが
二十代の作家、詩人、劇作家らは「若い日本の会」にでんしゅう蝟集(いしゅう)して六十年安保
を闘うことになる。その個々の会員の思惑が以下に統一性を欠き、これまで述べてきたブンドの
思想的文脈とはほとんど無関係のように見えようとも、そうなのである。そして、それは六十八年
革命へと継承される側面も内包していた。一例を挙げれば「若い日本の会」の近傍にあり、六十八
年のサブカルチャー的背景を代表することになる寺山修司は六十年に、浅利慶太の劇団四季のため
に戯曲「血は立ったまま眠っている」を石原は「狼は生きろ豚は死ね」を書き下ろしている。
言うまでもなく、その大衆社会状況はスターリン主義的リゴリズムからの離反を促がす素地に他
ならなかった。
−−中略−−わずかに六十年安保時の「文化的雰囲気」を伝えるのは当時最も年少の学生指導者で
あり、大衆的なアジテーターであったと伝えられる西部邁が回想するところの『六十年安保−−センチ
メンタルジャーニー』の方であろう。今や保守思想を標榜する西部がそこで韜晦しつつ描いているのは
、当時の二重に「自由な」学生コミュニュストたちの、ニヒリズムとラディカリズの奇妙な共存ぶりに
ほかならない。かかる雰囲気は石原慎太郎と踵を接するようにして登場した大江健三郎が『われらの時代』
(1959)その他で描いた、当時のジェネレーションの気分とも通底する、あの小ブルジョワたちの急進的
な自由である。」
(引用終わり)
まず、すが先生の資料には抜けが多い(笑)永六輔、黛敏郎、福田善之のほか芥川也寸志、村松剛
はもちろん、福田恒存、清水幾太郎らを除いては語れないはず。すが先生のいう「都市型大衆文化」
が立ち上がってくる中で彼らは総じて「文化人」と呼ばれたわけです。あと「文化的雰囲気」
「サブカル」と言いながら西部を持ってくることはないでしょうということ。私は上記の永六輔の
エッセーや小林信彦の小説『夢の砦』や『喜劇人たち』などのレポート?で垣間見せる小林自身の姿
から当時の「空気」を察した部分が大きいから。たしか草月会館で行われた「若い日本の会」の集会
が騒然として「書を捨ててデモに出よう」という雰囲気になったとき、あの植木等が朗々とした美声
で「赤とんぼ」を歌ってその場がおさまったとか。だから、すが先生の括り方には違和感ありますが、
私は木村愛二氏のようにその時代に生きていたわけじゃなし、詮索は差し控えます。
問題は60年安保後の「ポストフェスティバル」からいわゆる「保守論壇」あるいは「サンケイ文化人」
が鬼っ子として誕生してくることです。それまでは「老人」と「若者」という仕切りしかなかった。
安保ブンドの「転向組」西部邁、青木昌彦、香山健一らをはじめ江藤、石原、村松、浅利、黛らですね
。小物だけど鶴見の「思想の科学」にいた上坂冬子とか。どういうターニングポイントがあったのか
いまひとつ判らないわけです。小熊先生の「ある知識人の肖像 清水幾太郎」はヒントにはなりますが。