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少子化・高齢化の日本
出産・育児このついてまわる問題
http://www.bund.org/culture/20050305-1.htm
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出産しない女は、女に非ずか
池田暁子
出産しない女は、女に非ずオニババだ
『オニババ化する女たち』(三砂ちづる著・光文社新書)という本がある。「少子化現象は、月経や出産など、女性であることを喜びと感じなくさせた産業社会の問題である。女性の身体性を取り戻すこと。〜それが出来た90歳以上の日本女性は経血すらコントロールすることができた」等と書かれている本だ。
自分はその日、生理痛にうめきながら仕事から帰ってきたところだったので、月経を「女性としての喜び」とか思える人なんていないのでは、こんなコラムを書く人は絶対男に違いないと思った。
著者の三砂ちづる氏は、疫学の専門家として海外で国際協力活動に携わってきた。それまで出産は病院で、かつ帝王切開がほとんどだったブラジルで、自然分娩を目指した助産師育成プロジェクトに参加。国立公衆衛生院を経て、現在津田塾大教授。ブラジルでの仕事が、女性にとっての出産体験の改善を目指した仕事だったようだ。本人も2児の母。彼女は「出産体験」こそ人間として・女として至高の体験であると、これでもかという位書いている。出産・育児にそれほど価値を感じてこなかった自分にとっては、なかなか挑発的な本だ。
本の趣旨は以下のようなものである。――出産は至高の体験であり、この経験によって女性は心身ともしっかりと生きていけるようになる。であるからして、昨今の「負け犬」などもってのほかである。それをオニババというのだ。次の世代を作る以上のやるべきことなどあるはずはない。仕事で忙しいなど金銭的な価値、低レベルなことに惑わされてはいけない。ともかく出産を目的に結婚しなさい。相手にはあまりこだわってはいけない。早婚がよいのだ。
出産しない女性は、三砂氏によるとオニババになる。既婚でも子ナシ(しかも当分予定ナシ)の私も当然オニババ。いわゆる「負け犬」(30代〜・未婚もしくは離婚・子ナシ)は、その「勝ち・負け」の大きなポイントを今現在、結婚しているかしていないかにおくようだが、当然ながら立派なオニババである。
三砂氏のこの昔懐かしい、明快な主張に対しては、私はイエスとは言い難い。さまざまな理由で子供を持たない・持てない女性が多い今、彼女らをオニババとしてばっさり切り捨てる論理には納得がいかない。これだけ一元的な価値をとうとうと述べられる精神世界の持ち主は、もはや宗教者の域に達しているのではと思わざるを得ない。
「子育て教」は少子化の進行と共に現れた
ベストセラー『負け犬の遠吠え』(酒井順子著・講談社)によれば、世間には「負け犬」(30代・未婚・子ナシ)に向かって「子供がいて本当によかったって思うの。あなたも、絶対に産んだ方がいいと思うわ!」などと臆面もなく言ってのける「子育て教」の伝道者達が存在する。三砂氏もさしずめこの分類に入ると思う。この本では、「子育ての宗教化は、少子化と共に進行していった現象」とみる。「少子化とは、『子を生したい』という気分がすべての日本人の中で薄まった、という現象ではありません。『子を生したい』という気分になれない人々が増加するのに比例して、『子を生したい』と思い実行する人々の気持に、正義感が加わってきた、という現象でもあるのです。結果、子産み・子育ては『普通の行為』ではなく、『讃えられるべき善行』となった」
つまり出産・育児に踏み切る女性が相対的に減った為に、マイノリティとなった出産経験者のなかには、「自分たちは、皆がしたがらないことを進んでする、正しい民なのだ」と思う人が出てきていると酒井氏は主張している。これには納得しちゃう。
少子化を食い止めなければ、日本の将来は危うい?
では、世に「子育て教」という新手の新興宗教を生み出しているところの、「少子化問題」とはどんな問題なのか。厚生労働省(「少子化対策基本方針」)によると、急激な少子化は、「労働力人口の減少」「高齢者比率の上昇」「市場規模の縮小」「現役世代の負担の増大」を通じ、それらは「経済成長へのマイナス効果」「地域社会の活力の低下」「子供の健全な成長への悪影響」など、日本の社会経済に対して重大な影響を及ぼすことが懸念される為、対策をとる必要があるという。
厚生労働省の言っていることは、大きくは経済的に沈滞化していくことが危機であり、故に対策が必要ということだ。若い人が減ると「市場規模の縮小」「労働力人口の減少」となり、「経済成長へのマイナス効果」が出る。それは確かだろう。だが、これから経済成長が必要、もしくは日本で可能と思う人がどれだけいるだろうか?日本には50基以上の原子力発電所があり、私の世代が生きている間に半数以上のものが、引退の時期を迎える。私の甥・姪が九州電力・川内原発の20キロ圏内に住んでいるが、彼らが安心してその土地に住み続けられるようにすること、専業でコメ作りをしているこの子たちの父親が、安全なコメを作り続けられるようにすること、具体的には例えばそうしたことが、日本の将来を確かなものにしていくのだと私などは思ってしまう。とにかく人口を増やせばいいということではないだろう。更なる経済成長を求め、資源浪費を続け、環境破壊を進行させることは、自分たちにとっての破局を速めることにしかならないのは、今や自明のはずだ。
いろいろな人と対話することが、「人生の質」を高めていく
経済成長を求めずに人生の質を求めていく。では、女性が人生の質を高めるにはどうすればよいのだろうか。三砂氏の言うように「至高体験」だという出産をすればいいのだろうか。ブラジルでの助産師育成プロジェクトの実際を書いた部分は、確かにリアリティも妥当性もあるように思える。女性の出産体験の改善を目指して奮闘した三砂氏の経験は、意義深いものだったろうと思う。
だが、だからといって出産経験だけをどんなに価値化して訴えてみても、それが女性のquality of life を高めることに繋がるのだろうか。私にははなはだ疑問である。とくに出産を価値にして話をしたいがために、全体として「産みたくても産めない人」への配慮に欠けるのはいただけない。不妊の原因が、はっきりとはわからない人が多いらしいとした上で、「自分の身体性と向き合っているかどうか」が重要で、不妊の原因もそこにあるのではなどと書いている。つまりは原因のわからない不妊は、女性の心がけが悪いからだと言っていることになる。
いま、金銭的にも、また通院などの労力を割いてでも不妊治療をして子供が欲しいと思う人に対して、「本人の心がけ」というどうにもしようのない、答えにもなっていないことを、専門家と目される立場の人間がすべきではないと思う。何年にもわたって治療を継続する人が多い不妊治療のさなかにあって、どうしたらいいかわからない、暗中模索を続ける女性に対して、何の参考にもなりはしない。逆に責め立てているようだ。
『負け犬〜』では、著者は自分は結婚もしてないし、子供もいないが、人生の質で考えれば、十分充足した人生を送っているという。「身体性と向き合おう」といっているほうは、実際には自分と立場の違う他者とはあまり対話的でなく、「私は私よ」と言ってるほうが、立場の違う相手との対話も想定している。読み比べるとそれがよくわかる。
女性の人生の質など誰にも決められることではない。本人と周囲の人々との間で、何をよしとするかに因る。いつかは死ぬ身である以上、次世代に何を残せるかはひとつの課題だろうなとは思うが、女にとってはそれは子どもだけだとは私は思っていない。
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母親は3歳まで育児に専念するべきか
高野 悟
3歳児神話とは、「子どもは3歳までは、常時家庭において母親の手で育てないと、子どものその後の成長に悪影響を及ぼす」というものである。最近、乳幼児期の母子関係の重要性を指摘する立場から、この「3歳児神話」が息を吹き返している。背景にはいじめや非行の凶悪化、ひきこもりの増加など、最近の子どもの成長過程に正常とはいえない歪みを示す現象が増加していることがある。本当のところはどうなのだろうか。
たとえば3歳までにネイティブの英語に触れさせないと、発音をはじめネイティブのようには話せないなどといわれる。この3歳といわれる時期はどこから生まれてきたのだろうか。3歳児神話は、欧米における母子研究などの影響を受け、いわゆる「母性」役割が強調される中で、育児書などでも強調され、1960年代に広まった。そして、「母親は子育てに専念するもの、すべきもの、少なくとも、せめて3歳ぐらいまでは母親は自らの手で子どもを育てることに専念すべきである」という主張になる。その影響力は絶大で、1992(平成4年)に行われた調査結果においても、
9割近い既婚女性が「少なくとも子供が小さいうちは、母親は仕事をもたず家にいるのが望ましい」という考えに賛成している。
しかし、母親と子どもの過度の密着はむしろ弊害を生んでいるとの指摘もある。欧米の研究でも、母子関係のみの強調は見直され、父親やその他の育児者などの役割にも目が向けられている。それでか1998年度厚生白書では、「3歳児神話には、少なくとも合理的な根拠は認められない」と結論している。
臨界期はあるのか
臨界期という言葉は、ノーベル医学・生理学賞を受賞したコンラート・ローレンツの「刷り込み」理論からきている。「刷り込み」理論とは、ガンの雛が生まれて最初に見た動く物を母親だと思ってついて歩くという習性のことで、雛のふ化後の一定期間にしか起こらない。この一定期間が臨界期に該当する。この理論になぞらえて、3歳児神話で3歳までにネイティブの英語に触れさせたり絶対音感を養わないと、英語や音楽がものにはならないというのである。これは最近の脳科学の研究から見るとどうなのであろうか?
この臨界期の説明によく引用される実例がある。『狼に育てられた子―カマラとアマラの養育日記』(シング著)の主人公達である。二人の姉妹はカマラが8歳、アマラが1歳半まで狼に育てられた。人間がその子供を育てなかったらどうなるのか、といった実験は倫理的に行えない。それで稀少な例として、臨界期の話にはこの話がよく引き合いに出される。
アマラは発見から1年後亡くなったが、カマラは17歳まで生きた。そのカマラもシング牧師夫妻の献身的な養育にもかかわらず、ほとんど言葉を話せず「3、4歳の幼児なみ」であったそうだ。この極端な例から、やはり臨界期こそ重要だという結論になるのか? ここが研究者によっても見解の分かれる所である。
遺伝的に同じラットの子供を二つのグループに分け、一方は餌や水だけの環境に対して、もう一方はさらに広い場所とさまざまな玩具を備えた環境におくと、脳の発達にはっきりとした違いが出るという実験がある。脳の発達とは、神経細胞の数、そしてその結合部であるシナプスによって、神経回路のネットワークが作られることをいう。神経細胞あたりのシナプスの数が、生後2ヶ月から増えだし、生後8ヶ月頃をピークにその後はどんどん消えて、3歳頃には大人と同じ数に減る。このシナプスの「過形成」と「刈り込み」は、脳の中枢神経に何らかのダメージが発生した場合、予備の役目をするためだといわれている。このシナプスの数が最大になる乳幼児期に、たくさんの刺激を与えて脳のネットワーク作りをするとよいと主張する研究者がいるわけである。
しかし過度な刺激を与えすぎると、逆にシナプスの刈り込みに支障を来し、システムのバランスが崩れてしまう。つまりただ一方的に、赤ちゃんに良いとされる刺激を外部から与えればいいというものでもないのだ。現在では、この時期を逃したら手遅れというイメージを和らげるため、「感受性期」「敏感期」という言葉も用いられている。
アメリカの認知心理学者ガードナーは「われわれの知性は一つではなく、多数の並列した知性からなっている」という多重知性理論を提唱している。そこでは知性は大きく8つの知性に分類される。言語・絵画・空間・論理・音楽・身体運動・社会といった知性と、さらにそれらを統括する自我が別格な地位にあるという。こうした知性が、最近の分析機器の発達で、脳のどの部分に存在するのかもわかってきた。
しかし、自我が担うような想像や思考といった高次脳機能の臨界期については、まだ未解明の状態だというのが実状のようだ。
早幼児期脳障害
ただし、重大な犯罪非行を犯した人の脳を精密に調べてみると、それだけでは病気といえないが明らかに正常ともいえない、潜在的な異常所見が発見されることが多いということまでは分かっているようだ。その異常所見は、その人がまだ胎児であった時期から乳幼児期の間に発生しているという。遺伝そのものによるのでもなく、後天的な環境やしつけの過誤によるものでもない、脳の障害が原因で重大な犯罪が起きてしまうというのである。これは何によっておきるのか。
ここで思い起こしてもらいたいのは、環境ホルモン(内分泌攪乱物質)である。所沢でのダイオキシン問題や、「沈黙の春」(レイチェル・カーソン)・「メス化する自然」(デボラ・キャドバリー)・「奪ばわれし未来」(シーア・コルボーン)で有名になった。当時はダイオキシンによる母乳の汚染が問題になったが、胎児も含めた早幼児期(胎児から2歳頃まで)脳障害の原因にもなる物質として指摘されているのだ。
こうした物質によって、早幼児期脳障害(微細脳障害)が起きている可能性が高いというのである。すべてをその一因に帰してしまうことは危険だが、さまざまな犯罪統計の結果や、教育現場でのADHDの状況、脳波やMRIの研究から、環境ホルモン等の脳への影響が、重大殺人事件などの原因の大きな位置を占めていることまでは確かなことのようなのだ。これは育児ではどうともならないことだろう。
今や乳幼児に限らず、老人をも含めた育脳ブームである。しかしまだ自分意思表明を十分にできない乳幼児に対する過度な刺激(教育)は、ADHDの原因になるのではないかという仮説もある。まだまだ人間にとって脳は神秘の泉なのである。
自分の行ったわが子への教育やしつけが妥当だったのかどうか、検証することは難しい。あるいは自分が親から受けた教育を検証して、わが子にあたるというのも難しい。結局、子育てが母親一人に託されている現状を改めて、男女が共に(あるいはその親も含めて)子育てに携われる体制を社会全体で作ることが、求められているのではないだろうか。
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(2005年3月5日発行 『SENKI』 1171号5面から)
http://www.bund.org/culture/20050305-1.htm