現在地 HOME > 掲示板 > 不安と不健康9 > 503.html ★阿修羅♪ |
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※これは、4〜5回分ぐらいを1回に詰め込んだから、長いです。♪「ジ・アンタッチャブルズ――ア・デシル・プロダクション」のスタイルで、レッツラ・ゴー!。
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【ハイライト・シーン・プロローグ】
<「さあ、走れ、走れ。足が動けるんだろ」>
《(4)危険を侵す権利(今までは、親や介助者に付き添われ、守られていた。)例えば、酒を飲んで酔っぱらったり、夜遊びをすることです。(5)間違える権利(今までは、間違えることは、馬鹿なことだと思ってしまって、だから自分は能力がないと思ってしまう。)行動し、その結果失敗したり、間違えをおかすことは誰しもあり得ることです。能力のあるなしとは関係ないことです。…イズ・ブロート・トゥー・ユー・バイ・ザ・CILコダイラ&コー・オペレーション&アザーズ。》
<“THE UNTOUCHABLES” A Desilu PRODUCTION>
<トゥナイ'ツ・エピソード“THE ANTIDOTE”(♯48[2−20]1961/3/9)(46)「歪んだ野望」
スターリング:ロバート・スタック・アズ・エリオット・ネス.
コー・スターリング:テリー・サバラス,アンド,ブルース・ゴードン.
ウィズ・スペシャル・ゲスト・スター:ジョーゼフ・ワイズマン.>
<ウィー'ル・バック・アフター・ザ・フォロウィング・ステーション・アイデンティフィケーション>
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★「心理主義の欺瞞に抗して」 2004/08/01 From:ベルナール
http://bbs12.otd.co.jp/yuji_story/bbs_plain
「心のノート」に見られるような心理主義的道徳論は、子供たちを政治や経済の問題
から目を反らせるために仕掛けられた罠です。いうまでもないことですが、人間の営
みは、試験管の中で行われているのではなく、人間のアイデンティティとは、凝固し
た実体ではなく、「社会的な諸関係の束」です。「心のノート」のような心理主義的
発想では、あらゆる人間の営みが、個々人の「良い/悪い」の問題に矮小化されてし
まい、社会矛盾と人間の「関係」がまったく扱えません。子供たちの批判的知性の育
成を阻害する「心のノート」は、ただちに廃止されるべきでしょう。「心のノート」
は、あらゆる社会矛盾を「自己責任」にすり替える巧妙な瞞着装置なのです。
(※もちろんこれは「子供たち」だけではない。むしろ「おとな」のほうこそ…。)
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THE UNTOUCHABLES ACT T
<1932年10月19日、首都ワシントンでは、大統領選挙を二十日後に控え、再選を目指すハーバート・フーバー、それに小児麻痺のハンディキャップに打ち勝ち、民主党の指名を獲得したフランクリン・ルーズベルトの間に激しい闘いが続けられていた。一方、シカゴでは、アル・カポネの後継者フランク・ニティーの子分ウォーリー・バルツァーが、新たに薬用アルコールを密造酒のウイスキーに加工するために、変成剤を取り除く化学者を探していた。彼らの動きを封じるのは、エリオット・ネス率いる、絶対に買収に応じない者という意味で呼ばれたアンタッチャブルの面々だった。>
(※フランクリン・デラノ・ルーズベルト http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ruzuberuto.htm 1882(明治15)年、ニューヨーク州ハイドパークの資産家の1人息子として生まれる。39歳の時、小児まひ(ポリオ)で下半身の自由を失う。松葉づえと車いすに頼って政界に復帰、この時50歳。ポリオはまれに大人でもかかることもある。当時は生ワクチンはなかった。)
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【障害者としての権利〜当然の権利〜CIL小平「介助サービス事業」マニュアル】
1980年前後から各地で始められていた障害者の自立生活運動は、2000年4月1日、自立生活センター・小平(CIL小平)等により、次のようなマニュアルが作られ、次々と実行に移されていった。そこには、前人未到のタブーに挑む障害者たちの不屈の闘志の面々がいた。ホェアー・ノー・マン・ハズ・ゴーン・ビフォー。 http://members.jcom.home.ne.jp/ppp6/kodaira/
■「自薦ヘルパー(パーソナルアシスタント制度)推進協会のテキストとして『CIL小平』と『介護保障協議会』で共同して書き下ろしたCILの介助サービスと施設や親元からの自立支援についての本」HPより(一部抜粋)
(「CIL小平の介助研修テキスト」)
http://members.jcom.home.ne.jp/ppp6/kodaira/manyuaru.htm
「介助サービス事業 マニュアル第1版」
第2節 介助サービス現場での実際
介助派遣を始める前の個別プログラム
1.障害者としての権利 〜当然の権利〜
(1)自分のやりたいことをはっきり言って、それを一番にする権利。
(今までは、親や施設職員の顔色を見て、自分のやりたいことを言えず引っ込めてしまう。)
例えば親や職員が忙しく働いていると、自分がテレビを見たり、音楽を聴きたいと言っても、「待ってて」「また後でね」と言われ、後まわしにされます。やって欲しい事の中身が特に重要なことではない限り、あとにあとにまわされ、悪いときにはそのまま忘れられてしまうこともあります。自ずと、頼むタイミングや親や施設職員の顔色を見ながら、お願いをするようになります。親も施設職員も色々な仕事や役割があるので、障害者の権利を満たしていくのは難しいといえます。しかし、介助が必要な障害者が、自分のやりたい事をはっきり言うことは、決して悪いことではなく、人として生きていく上で当然のことです。
(2)自分のやりたいことを人を使って実行し、それを自分のしたいことにする権利。
(今までは、迷惑をかけてはいけないと思い、人に頼めない。)
例えば(1)でも述べたように、一般社会では人に迷惑をかけてはいけないという考え方があります。しかし、障害者は自分のやりたいことを人に伝え、やってもらうことで自分のやりたいことが出きる現状があります。障害が重度であればあるほど人にお願いすることが多くなりますが、人にお願いをすることは、迷惑をかけることとはまったく別の問題です。
(3)能力のある、平等な人間として、尊重される権利。
(今までは、障害があると、自分の能力が低いものと思ってしまう。)
例えば、障害があるがゆえに仕事についていないと、まるで生産性が低い人間として扱われてしまうことがあります。その人の障害と人間の価値は関係ありません。
(4)危険を侵す権利。
(今までは、親や介助者に付き添われ、守られていた。)
例えば、酒を飲んで酔っぱらったり、夜遊びをすることです。
(5)間違える権利。
(今までは、間違えることは、馬鹿なことだと思ってしまって、だから自分は能力がないと思ってしまう。)
行動し、その結果失敗したり、間違えをおかすことは誰しもあり得ることです。能力のあるなしとは関係ないことです。
(6)自分だけの考えを持つ権利。
(今までは、親や周りの人に言われるままになっていた。賛成してもらえないと自分の考えがおかしいと思ってしまう。)
人間はすべて別々の人間なのですから、ひとりひとりの考え方が違うのは、当然のことです。
(7)思うとおりに「はい」「いいえ」を言う権利。
(今までは、人に気を使って自分の気持ちが言えない。)
例えば、人に嫌われたくないので、相手に合わせてしまう。介助者との関係においては指示する時のことを考えて、指示したことをやってもらえないことを恐れて、自分の気持ちを押さえてしまうことがあります。
(8)気持ちを変える権利。
(今までは、一度言ったことを取り消すと、何か言われると思い、取り消すことができない。)
(9)「わかりません」「できません」と言う権利。
(今までは、「わからない」「できない」と言うのは、能力がないことを言ってしまうことだと思ってしまう。)
(10)楽にする権利。体を気持ち良くする権利。
(今までは、疲れることやしんどいことでも、頑張らなくてはと無理をしてしまう。)
社会で認められたいために、努力を求められると、自分の力以上のことをし、つい無理をしてしまいます。
2.介助者との関係性 (以下略)
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[※CIL=Center for Independent Living] http://www.sh.rim.or.jp/~cilt/center.htm
◇『自立生活運動と障害文化―当事者からの福祉論』全国自立生活センター協議会(編集・発行) 2001/05 ¥3675
1960年代から21世紀に。青い芝の会、障害者解放運動、自立生活運動など、障害者運動を担った29人、15団体の記録。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4768434266/qid=1103303818/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-5001689-0313133
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【※手ポリオ・記…上にあと二つプラス…ただし、上の10項目を応用すれば、下の二つは、あえて書かなくても、本来なら、できるはず。】
(11)障害者が反戦運動・反優生思想運動をする権利。
(今までは、「非国民・ごくつぶし・かたわもの・役立たず・税金泥棒」などと言われ、政府に楯突くようなことは控えさせられてきた。)
戦争反対は障害者にとって当然のことであり、年金や福祉等を受けつつ、どんどん反戦運動、反政府運動に参加することは当然のことです。しかも、できるだけ社会へ直接はたらきかけ行動する運動。また、当然、ヘルパーさんも障害者の意志を尊重すること。うちの中でねたきりでもできる方法など、障害者ならではのさまざまな方法や視点も出てくる。そういう運動がやりにくい人ほどやるべきだ。そういうことがやりにくい立場にされていること自体が、世間の空気の体制問題なのだから。
(12)怒る権利。
(上とほぼ同様な理由で、人様に嫌われないように顔色を伺い肩身の狭い思いで、明るく愉快な、けなげな障害者を演じさせられて生きてきた。)
人間は喜怒哀楽があるのは当然である。喜(明るい)・哀(泣く、悲しむ、憂鬱・陰気・不機嫌になるぐらいまで)・楽(楽しい)は認められても、「怒」だけ否定されるのはおかしい。怒りにくい人ほど怒りがある。怒りを出せないことへの怒り。怒ると叩かれることへの怒り。だからそれを出せるようにするべきだ。怒りとはそういうものだ。安心して怒りを出せる人にはまったくわからない。安心して出す怒りなど、怒りではないのだから。怒れ、怒れ、いじめられても、バカにされても、たたきのめされても、強者に権力に怒りまくれ!たとえ、どんな世間の空気という圧力で屈服させられようとも、心の奥まで奴隷にはならん。
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【自立生活の一つの実例】
一方、北海道には、このような面々がいた。
■『こんな夜更けにバナナかよ』渡辺一史・著 北海道新聞社 2003/03 ¥1890
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894532476/qid%3D1103098609/249-5001689-0313133
北海道新聞HP http://www.aurora-net.or.jp/doshin/book/tachiyomi/konnayofukenibananakayo/index.html
〜札幌市内で在宅自立生活を人工呼吸器を着けながら送る筋ジス患者・鹿野靖明さんと、24時間体制で支える介助ボランティアとの交流や葛藤を描いたノンフィクション。…「わがままな」障害者である鹿野さんとそこに通う主婦や学生ボランティアたちの人生を丹念に聞き取った。…鹿野さんは、原稿完成直前の2002年8月、42歳で亡くなった。
[読者の声]より。
「きれいじゃないボランティアと被ボランティア」を書いてくれてありがとう。ボランティアの話はたいていきれいごとだけで腹が立つけど、これは違った。very good!―─旭川市 U.Sさん(男性・15歳)
[受賞の言葉]より。
…鹿野さんは、およそ「美談」とか「感動ドラマ」の似合わない障害者だった。やさしさも十分に持ち合わせてはいるが、我(が)が強く、ワガママいっぱいな人だった。そんな鹿野さんとつきあう中で、私は彼を愛(いと)おしく思うと同時に、心から憎たらしく思うことがたびたびあった。しかし、そうした心の揺れ動きを正直にたどることの中に、私にとっての「新しいノンフィクション」の芽が、芽生えていったように思う。…私としては、あれほど「自分の本」が出るのを楽しみにしていた鹿野さんの気持ちに報いたかったし、その死に際しては茫然(ぼうぜん)自失し、自らの力のなさを恥じた。そのことの心の整理は、今もってついてはいない。…
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【他に自立生活の実例&主張】の一部…いわゆる、比較的なるべく、きれいごとや、美談や、よくがんばったねや、共に生きましょうなどの、うわべの偽善ではないもの。そういう気兼ねをしたり遠慮したり無理に明るく清くしたりしなくちゃならないのって、本当の共生じゃないよ。明るく清くの強制だね。障害者は怒りたいときに怒れない。ところが、障害者じゃなくても、それは同じになっちまっている。怒ったらおしまいにされるようでは福祉も慈善もボランティアも思いやりもいたわりもそういうものは全部ウソということになる。偉い人やお世話になってる人などの怒りにくい人に対して怒りまくれることだけが、本物さ。怒ってろみれや。障害者なら、ヘルパーやお役人や事業者や、そして政府や権力に向けてだ。それを避けるインチキの福祉。そういうからくりを全て隠蔽し、押さえつけるための、道徳・礼儀・精神訓話のたぐい。それを推進する世間の空気。奴隷国家、ここに極まれり。
◇『当事者主権』岩波新書 新赤版(860) 中西正司,上野千鶴子(著)2004
http://www.j-il.jp/jil.files/katudou/toujisyasyukenn.htm
◇『障害者解放とは何か―障害者として生きることと解放運動』楠敏雄(著) 柘植書房新社 1982
◇『障害者の解放運動』津田道夫/木田一弘/山田英造/斉藤光正 三一書房 1977
◇『天上天下「病」者反撃!―地を這う「精神病」者運動』「病」者の本出版委員会(著) 社会評論社 1995
◇『口からうんちが出るように手術してください』小島直子(著) コモンズ 2000/05
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4906640303/qid%3D1103168135/249-5001689-0313133
◇『ハンディキャップ論』新書y 佐藤幹夫(著)2003
◇『ズバリ、「しょうがい」しゃ〜わが人生に悔いはなし』森修(著)解放出版社(「障害」者の解放をめざして、「優生保護法」を考える、野田事件にとりくんで、被差別の介護者に期待するもの、ほか)
◇『神への告発』箙 田鶴子(著)ちくま文庫 1987
(昭和18年から47年まで、主人公「私」の9歳から37歳まで、名門の家柄の次女(元東京帝国大学総長の曾孫)として生まれたが「脳性小児マヒ」。母が虚栄のため、人目に付くのを恐れて就学も許さなかった「私」に、積み木で字を教えてくれ、教科書まで揃えてくれたのは父であった。昭和18年、父の死。母は「私」を「化け物」呼ばわりして完全に親の役目を放棄している。戦争終結直後、母は「私」のお気に入りの女中1人を残して、姉と姉の婚約者の3人で旅行に出て5か月間家を留守にする。ここからが凄まじい。母たちの姿が見えなくなった途端、女中の態度が一変した。何を言っても取り合ってくれず、なおも頼むと髪を掴んで引き摺りまわされ、果ては家に寄り付かなくなった。何しろ「私」は衣服の着脱は無論、排泄も食事も何ひとつ一人ではできなかったのである。…つづきは→ http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n194/n194_044.htm 我々障害者の多くに見られる、身体障害というものにあまりにもこだわって、外界のこと一切をまず疑ってかからないではいられない用心ぶかさ…)さらに続刊『幼き物語』箙 田鶴子(著)晶文社 1992
◇『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』ジョセフ・P. シャピロ(著)現代書館 1999
◇『あなたは私の手になれますか―心地よいケアを受けるために』小山内美智子(著)1997
(介護される側が今まで遠慮して言えなかったような本音を赤裸々に語ります。小山内さんは1977年から札幌で「いちご会」という障害者自立のための組織を作って活動している重度の障害者。結婚、出産、離婚を経験し、障害者の性の問題について、ケアの問題について積極的に発言してきた著者。弱い立場だからいえない、だけど、弱い立場だからこそ言って変えていかなければならない、という小山内さんのギリギリの勇気。わがままって何? ほか)
などなど。
■『障害者の文学』中島虎彦(著)明石書店 1997 http://www.jscf.org/jscf/SYOHYOU/kanmatu.htm
「障害者の文学」大リスト http://www.jscf.org/jscf/SYOHYOU/kanmatu.htm
「障害者の文学」関係障害者名簿 http://www.jscf.org/jscf/SYOHYOU/kanmatu2.htm
――これらの人たちが、正面から反戦に取り組んでくれたら、どんなに頼もしいことか。ああ。
<ウィー'ル・ビー・バック・アフター・ジーズ・メッセージーズ>
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【1970年《全国「青い芝の会」綱領》『あゆみ』11号 1970/10/25】
一、自らが脳性マヒ者であることを自覚する(ポリオその他の障害者も賛助会員になれる)
一、強烈な自己主張を行う
一、愛と正義を否定する
一、われらは、健全者文明を否定する
一、安易な問題解決の路を選ばない
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/501.html
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<ナウ・バック・トゥー・ジ・アンタッチャブルズ>
THE UNTOUCHABLES ACT U
<1932年10月23日、ギャング・バルツァーがみつけたのは、小児麻痺で両足が不自由な松葉杖の化学者ラッセル・シールドだった。シールドは、ギャングのボスと対等のパートナーになり、大金を手に入れ、気に入らない者はギャングをアゴでこき使い殺させていった。「さあ、走れ、走れ。足が動けるんだろ」と横で声をかけながら…。そして、またシールドはナイトクラブ「モンマルトル」の、以前から気に入っていた歌手の女性に大金をちらつかせ求婚した。>
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【障害者と戦争:書籍など】の一部
―――ドシロートの超初心者の私がこの半年間ほどで調べたものです。今までまったく何一つも知りませんでした。パソコンも始めたばかりです。こういうことの専門家の人から見れば、他にもいっぱいあるでしょう。が、そういうことを言うのなら、どんどん、どこにでも、常に、誰に向けても、何よりも最優先に、すべてを出して、広く世間に知らせる活動をしなさい。絶版になっているなら復刊せよ。復刊ドットコムもある。さらに新しいものもどんどん出せばよい。イラクやアフガンや世界中の障害者とも連帯せよ。本だけでなく、ビデオやインターネットや集会や展示会や国会前やイベントや、他の反戦団体との共催や、全国各地それぞれに、あらゆるいろいろできるはず。障害者でもやれることはいっぱいあるはずだとドシロートでも言っているのに、そういうことを少しぐらいもやろうとしない。専門家や長い経験者や知識・教養・情報を持っているなら当たり前に命がけで全人生をかけて、全てを戦争反対に打ち込めよ。それが本当の福祉のためになる。戦争問題を避けて福祉増進はインチキだ。くそ役員やくそ教授やくそ議員どもめらがよお。ケッ。何十年もやっているくせに、いったい奴らは何をしているのか?この戦時下の日本なのに。しかもだな、私がやり出すと、ケチを付けて、けなして、やる気をなくさせ、そいつらは何もしないか、または、ごくせまい身内の中だけで、おとなしく、オギョーギよく、オリコウサンに、こむずかしいことを、私が言ったことの一部を黙って取り入れたりして、私には知らせず、またはあとから知らせて来て、何か少しだけやる程度。そういう奴らに対してだな、怒りまくることが、なんで悪いものかよ。なあ、おまえら、そう思わんかい?くそ専門家どもめらが。過去のことも語り伝えず、現代のことにも取り組まず、なんたるこった!そして、私はこういう直接に戦争に関するものだけでなく、むしろ、内なる優生思想、一見、平和に見える中における戦争構造を問題にしたいのに、そして、それには、うわべのきれいごとをぶち破らねばならないのに、これでは入り口から、全て閉ざされて、ドシロートが、たった一人で、それをぶち破るのは、とても不可能で、その上、誰も助けてくれず、何かを書けば、みんなから、いじめられ、否定され、けなされ、叩かれ、潰され、消される。これで、怒らないようなら、人間ではないと言いたくもなる。こうなったら、怒りと執念と怨念と意地とネチッコサとシツコサとイヤミとコダワリと恨み辛みとでやるしかないぜよ。明るく、さっぱりと、さわやかに、などこそが悪そのものだ。え?また誰かが妨害しくさる。いいかげんにしろや。ポスト・モダニストのプチブルおにいさんがたよ。さもしいさびしい人たちだ。おれもだけどな。ヒヒ。
☆第二次大戦と日本の障害者の戦争体験記
●『米食い虫、非国民とののしられながら―戦争を生き抜いた肢体障害者たちの証言―』発行/全国肢体障害者団体連絡協議会 2004年 発売中 http://www.asyura2.com/0406/war58/msg/656.html http://www.freeml.com/message/local-peace@freeml.com/0003169 ほか。
(※私こと、近藤和也も「あとがき」にちょっとだけ書いてます。私はこの本の宣伝を、おぼえたばかりのインターネットや、国会前での全労連の集会やいろんなところで紹介したり、この本のこと以外にも、いろんな行動をして、提案もしてきましたが、視覚障害者の会だけは多少仲間に入れてくれた。が、私は肢体障害者だから、そちらへ一番働きかけたのに、そっちではすべて無視されました。全てです。全部です。経験してみなさいな。何一つ認められない。やればやるほどきらわれる。何もしない人たちは好かれている。だから2年めに徐々に怒り始め、1年たったら、こういうことになった。いったい、なんだ?→この部分、下のACTWへつづく。)
●『もうひとつの太平洋戦争〜障害者の太平洋戦争を記録する会』代表・仁木悦子(ミステリー作家、障害者、胸椎カリエス、未就学、『猫は知っていた』ほか) 立風書房 1981年 在庫切れ
…30数人の大記録文集。序文・鶴見俊輔。青い芝の会の横田弘夫妻の昭和20年3月10日東京大空襲と4月15日京浜大空襲でかろうじて生き延びた体験談も載っている。だが、仁木悦子は「編集を終えて」で書いている。《…こうして証言できる人の背後には‘非国民・ごくつぶし’とののしられながら、疎開も断わられ、空襲の中、自分の体一つが思い通りにならず逃げ切れずに死んだ障害者、飢えて死んだ人、かろうじて生き残りながら今日なお、肩身せまく周囲に気がねし過去の体験を語ろうともしないまま社会の隅に生きている障害者たちが、どれくらいいるのであろうか。…》
―――下記の本の巻末には、たくさん参考文献が紹介されています。
●『信濃路はるか―光明養護学校の学童疎開』松本昌介 田研出版 1993/03(現在でも注文可) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4924339245/250-7216740-9482637
…『少國民新聞』「光明校を訪ねて(上・下)」1946年8月16・17日
●光明養護学校の当時の校長・松本保平先生遺稿集(1990)
●光明養護学校の佐藤彪也先生「畳の蟻」(1987)
●『信濃毎日新聞』の連載記事「あの山の向こうに〜養護学校疎開記1〜5」(1981)『信毎』は安田純平さんの元職場。
●『障害者と戦争――手記・証言集』清水寛(編著)1987年 新日本新書 在庫切れ
“足なえの子を持つ母は悲しかり だんじりの音 家に居て聞く” 森種子
昭和16年インドネシアから引き揚げ、まもなく夫は死亡。長男は脳性麻痺で寝たきり。「歩かれへん子、かたわの子」と軽蔑され、空襲警報の中、長男がひきつけを起こし、お医者様を駆けずり廻り、ようやく命が助かりました。親類の者から「あんな子、早う死んだらええのに、種子さんも楽でけんのに」と言われましたが、親としては、そんな気にはなれません。なんとしてでも、命をながらえさせたかったのです。岸和田のだんじりが好きで、乳母車に乗せて、脇道からそっと見せていました。そこへ若衆が二、三人来て「こんな所へ、こんな子つれて来るって、あるかい…」と、乳母車ごとつきとばされました。それ以後、だんじりは見に行きませんでした。太鼓の音が聞こえると「チキチンコンコ」とまねをして見に行きたがりました。(P.63〜72)――森さんは、小学校(国民学校)教師。だが、わが子には学校へ通わせられなかった。就学猶予措置。戦後、養護学校教師となる。
●『私たちは訴える「障害者と戦争」生活体験記録集』1982年 日本教職員組合発行(日教組)在庫切れ…戦争当時の障害者、障害児教育に携わった人々13篇の貴重な戦争体験記録。
●『いくつになったら歩けるの』花田春兆(著)1974年 ミネルバ書房 在庫切れ
●『ある盲学校教師の三十年』鈴木栄助 岩波新書・黄版51 1978年
●『光に向って咲け―斎藤百合の生涯』粟津キヨ 岩波新書・黄版342 1986年
…上記ふたつとも、戦時下の視力障害者の苦闘の証言。
●『あの夏の朝から:手と光を失って30年』両眼と両手を失った藤野高明 点字民報社 1978年
●『私説松沢病院史1879〜1980』岡田靖雄 1981年 岩崎学術出版社 在庫切れ…現在の梅が丘病院。戦時中の入院患者の大量餓死。約三百の遺体が病院敷地内の杉林に埋葬された。さらに東部軍司令部での誤爆計画。そして今、2002年度から、ここの院内学級に、あの戦争教科書が押し付けられている。隣は光明養護学校。
●『声なき虐殺』塚崎直樹 BOC出版部 1983…中宮病院で人体実験で殺されたという遺族の証言もあります。全国の精神病院はどこでも多かれ少なかれ同様の歴史をもっている。マラリア注射により入院患者を「処分」された。
●『さすらいの<未復員>』吉永春子 筑摩書房 1987…戦争中に発病して武蔵病院に入院させられ、そのまま未復員という扱いで戦後ずっと入院させられていた方たちのことを書いています。
●『「火」以後』渓さゆり 六法出版社 1994…武蔵家族会であった渓さゆりさんの歌集。詳細な注によりこの国の反保安処分闘争史にもなっています。
●『写真集 ドンが聞こえなかった人々』豆塚猛(著)文理閣 1991/5/1…長崎被爆ろうあ者。今なお原爆症に苦しみ、死の恐怖と闘っている人々がいる。
●『障害者が語る戦争』城陽ボランティア連絡協議会(編さん)「障害者の戦争を語る会」(編さん)在庫切れ
●『灰色のバスがやってきた―ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置』フランツ・ルツィウス(著)山下公子(翻訳)草思社 1991…「灰色のバス」に乗せられて行く先もわからぬ地へと強制移送され、そのほぼ全員が、二度と帰ってはこなかった。ドイツ本国と占領地のすべての障害者、その数は25万人といわれている。
●『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』現代書館 ヒュー・ギャラファー(著)【←自身ポリオの障害をもつ米国人の著作家】1996 長瀬修訳 422p. 3500円…自身ポリオの障害をもつ著者がドイツを訪れ、施設を見たり、人と会って話し、「ヒトラー時代だったらガス室送りだ」と嘲ける人・・・医者はなおすことが仕事であり、障害者はその失敗を示すこと。ギャラファーは言う。医者は「治療と成功を好む。自分が有能でないと見られるのは好まない。しかし、障害を持つ患者や慢性的な病人はそれこそ自分の無能の証明である。患者は医者が心理的に距離を置いているのを当然感じる。患者は孤立感を味わう。病院で過ごしたことがある障害者は誰でも経験している。医者から受けるやさしい軽蔑にはほとんど敵意に近いものすらある。」(p.353)―――※ああ、ようわかるわ、この気持ち。うまく文にしたものだ。ありがと。
●『障害者問題の窓から―戦争・歴史・福祉・美術etc.』河野勝行(著)「障害者問題の窓から」刊行委員会 1991
●季刊『障害者問題研究』目次総覧(全障研出版部)のページ http://www.nginet.or.jp/jsdh/index.html
◇No 36(1984年1月)<特集>戦争と障害者問題
・明治期における軍隊と障害者問題 : 徴兵制および陸軍懲治隊を中心に 清水寛 ・日本の植民地下における社会事業と障害者問題 慎英弘 ・戦争とハンセン病患者の生存と人権 大竹章 ・戦争と障害者の前近代史 : 鉄砲伝来を中心に 河野勝行 ・<報告>視覚障害者と戦争 岸博實 ・<研究ノート>戦争下における断種法,精神衛生関係法制と障害者 野村拓 ・・・などが満載! http://www.nii.ac.jp/sokuho/articles/ncid/AN10336694/19840100_36.html
◇No.63(1990年11月)<特集>天皇制と障害者の人権
・天皇制と差別 山口和孝 ・社会福祉研究における天皇制 小川政亮 ・天皇の軍隊と障害者:国家総力体制下の徴兵検査と陸軍教化隊 清水寛 ・川本宇之介の「デモクラシー」論と障害児教育 平田勝政 ・戦争の起源と障害者問題:""兵器""が現われ,障害者が消えた? 河野勝行 ・<書評>清水寛著『人間のいのちと権利』 安川寿之輔 ・・・など。 http://www.nii.ac.jp/sokuho/articles/ncid/AN10336694/19901100_63.html
◇Vol.24-4(1997年2月)<特集>戦後障害児教育50年
・<特集にあたって>日本国憲法・教育基本法の施行50周年と障害児教育 渡部昭男 ・近代日本における「特殊教育」概念の形成:学校教育法の「特殊教育」概念に関する歴史的検討 平田勝政 ・占領期教育改革と障害児教育対象概念の展開:学校教育法・児童福祉法の成立過程を中心に 高橋智 ・盲学校の戦後とともに 藤野高明 ・子どもと父母のねがいが学校を変えた 松本昌介 ・ダイオキシンによる人体への被害:文献的考察とベトナム現地調査 尾崎望 ・・・など。 http://www.nii.ac.jp/sokuho/articles/ncid/AN10413004/19970200_24%284%29.html
―――など、障害者 の戦争体験の本は、いくつか出ていますが品切れ・絶版が多いです。さっさと復刊しなさい。
●次の本の中にも障害者の戦時中の体験談が載っている。『セックス・ボランティア』河合香織(著)新潮社 2004/6/30…これは大マジメな本ですよ。タブーを破れ。日常性を破壊しろ。 http://www.shinchosha.co.jp/cgi-bin/jisaku3.cfm?ISBN=469001-5 竹田芳蔵さん(昭和7年生まれ、脳性麻痺)。竹田さんは学校には行っていない。家族と共に満州へ渡り、戦後、零下15度の中、日本へ引き揚げ、施設や病院を転々と入所。ついに精神病院へ入れられ、そこで出会った1人の看護婦さん。彼女はすぐ難病になり別の病院へ入院、そこへ14年に渡りお見舞いデートにかよう長い純愛関係を続けるが…。「♪赤坂の夜は更けて」(西田佐知子)1965 http://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-sengokayou/akasakanoyoha.htm
【ビデオ】
●NHK教育TV『あすの福祉』1993.7.22「信濃路はるか〜障害児の疎開記録」(30分番組)ビデオ録りました。当時の子供たちの記録フィルムが残っていた。それを見ながら約50年ぶりの同窓会。
(※だが当時、日本に唯一の肢体不自由児学校の光明国民学校へ入れた者は比較的軽度の障害児のごく一部だけだった。ほとんどは就学猶予で、学校へは行けず、家族が人目をはばかり外へ出させず、疎開も受け入れてもらえず、空襲で逃げることも出来ず、また、餓えて、死んでいったのだ。そういう人たちは証言も何もできないままなのだ。記録も写真ももしかしたら戸籍さえもない生きていた証しが何もなく見殺しにされていった「人間」だ。生きるに値しない命。在ってはならない者。叫べ!怒れ!怒りまくれ!な〜にが、わるいか!おとなしく黙っているのが、は〜るかにわるい!こ・ん・ち・く・し・ょ・う・!)
●ドキュメンタリー映画『聾唖者達の沖縄戦』2000年度制作/カラー・白黒/字幕付き/77分/演出・構成:千々岩恵子
ビデオ4000円+包装料送料500円=4500円 http://www.arsvi.com/0d/kei.htm
【インターネットのサイト】
●「光明学校と全国障害児学校の集団疎開」 http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub31.komeigakko.htm
そこには全国の盲学校・聾唖学校等の学童疎開も載っています。これは学童疎開全般のホームページ「全国疎開学童連絡協議会」 http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub1.htm の中にあります。
●学童疎開…B−29による大都市空襲が激しくなる最中の1944年6月に,児童の生命を守るために「学童疎開促進要綱」が閣議決定された。これにより東京ほか12の該当都市が指定され,翌月から縁故疎開を原則としながらも,それが不可能な場合には,学校ごとに国民学校初等科の児童を半強制的に近郊農村地帯へ集団疎開させたのである(1945年春には全国で約45万人を超える児童が疎開したが,障害者などは疎開の対象から外された)。http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nittyuusennsou.htm (※だから光明国民学校は校長先生たちが自力で全国行脚して疎開受け入れ先を探し回ったのだ。ようやく信濃に出発できたのが昭和20年5月15日、そして東京・山の手大空襲が昭和20年5月25日だった。世田谷梅が丘近辺も丸焼けになったのだった。)
●[戦争危機を予知するセンサー]戦後50年 戦争と障害者 第2部 シンポジウム『あのとき障害者は』http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n173/n173_038.htm
『ノーマライゼーション 障害者の福祉』1995年12月号
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n173/n173_mokuji.htm
・森川 浩 62歳(元テーラー)身障者。
「私は東京の光明養護学校にいました。日本でも初めての各種学校です。当時東京では毎晩のように艦載機がとんできて辺りはまっ赤な火の海でした。その頃都会の学校では学童疎開が行われていたのですが、どこも障害児は受入れてくれません。そんなとき軍人がきて校長に青酸カリを渡しました。それで校長は必死になって疎開先を捜し回りやっと長野のホテルに行きました。その10日後東京大空襲に遭い学校は全焼したそうです」
・西口カズエ 80歳(元三療師)視力障害。
「私は原爆のときは壁にへばりついて助かりました。母と一緒に死のうと、炎の中を逃げました。助けを求めましたが、みんな盲人なんかに目もくれません。それどころじゃなかったのです。…」
・滝口富美子 70歳(書家)身障者。
「私は当時、青森に住んでいて女学生でした。歩行困難で母に乳母車を押して貰い通学しました。空襲警報が鳴るたび必死で防空壕に入りました。あるとき一人遅れた私にグラマンが追いかけ機銃掃射をあびせてきたのです。そりや怖くて死んだかと思いました。幸に生命拾いしたけどすぐ近くの人が無惨に死んでいるのをみました」
・仲川文江 43歳(手話通訳)
「…その当時は手話は禁じられていました。ろう学校はあくまで口で話す口話教育でした。まちで手話をしてるとお巡りさんに叱られたそうです。それでも家庭では内緒で独自の手話をしていたようです。広島ろう学校の生徒さん達が吉田町に学童疎開をしたという事実があるのですが、どの公文書にも1字の記載もありません。他の普通校の学童疎開は載っているのに、国家に役立たない障害者は抹消され、歴史に存在しなかったことにしているのです。」
高橋偸さんが満州脱出中、足手まといになるからと知的障害者を軍人が銃殺したのが今も忘れられないという。こんな話が山ほどある。生命の尊厳どころじゃない。あの狂暴なパニックが再び勃発しないという保証はない。今後平和なくしては生きられないギリギリの障害者、アジアを含めた共通の弱者の立場からの平和―、戦争危機を予知するセンサー、強い拒否の発信が地球住民にとって如何に重要か、戦後50年はそれを教えてくれる。…(はらみちを・画家)
●終戦直後の不発弾の暴発で‘両眼を失明し、両手を切断した’藤野高明さん(元・大阪市立盲学校高等部社会科教諭/全日本視覚障害者協議会の先代第4代会長/手をつなごう全ての視覚障害者全国集会代表世話人/65歳)の「第1回オンキョー点字作文コンクール最優秀大朏(おおつき)賞」受賞文「平和への願い」 2003年10月3日 http://www.jp.onkyo.com/tenji/tenji_concour.htm
全文→ http://www.jp.onkyo.com/tenji/fijino_sakuhin.htm
…(本文より)《…私自身、この戦争が残した不発弾の暴発によって2歳下の弟を亡くし、自らも両眼の視力と両手を失った。それは敗戦の翌年1946年7月、小学2年生夏休みのことである。…》
…近藤和也は藤野先生に一度だけ同席しました。2003年11月24日全視協・国連報告会「平和を求める障害者交流集会のご案内」 http://www.freeml.com/message/local-peace@freeml.com/0002320
◇この文章は、オバハンこと督永忠子さん(アフガン難民を支える会)の日記のHPでも全文紹介されています。「2003.12.23.オバハンからの気まぐれ通信…凄い文章です。涙しました。転載許可をいただきましたので紹介します。…」 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nippagrp/tushin13.htm
「2004.1.8.渡邊弘俊:督永忠子さんの話を聞く会実行委員会…藤野氏のこの文章での想いを全世界に伝えよう。先ず、英訳しニューヨークタイムズへの掲載に動いた。さらに、オーストラリア・フランス・中国・スペイン・パキスターンへと翻訳に奔走しています。いまこそ、藤野氏の「平和への願い」を魂で感じてほしいと想います。」 http://www.h5.dion.ne.jp/~nbbe/oomori.htm#1.11 http://www.emaga.com/bn/?2003120078953003007855.7777
「日・パ旅行社」 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nippagrp/
アフガン難民を支える会 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nippagrp/afghan.htm
◇「わが人生にラジオあり」藤野高明先生のエッセイ入選作 ネットラジオ「ラジオNIKKEI」オン・デマンド放送中。https://ssl.radionikkei.jp/cftemplate/order_form.cfm?order_form_cd=164
●『障害者問題研究』1984年・第36号所収【報告】「視覚障害者と戦争」岸 博實(京都府立盲学校教諭)
http://www.wao.or.jp/user/kishi/shikaku%20sennsou.txt
…京都府立盲学校の初等部1年生が南京大虐殺が開始された1937年暮12月10日付で発行された点字文集「塔影第6号」に書いた次の一文。「…マイアサ、テウクワイ(朝会)デ、カウチャウ(校長)センセイニ、センソウノ オハナシヲ キキマス。ドウゾ、シナジンヲ タクサン コロシテ、ヨイヒトニ シテアゲテ クダサイ。…」45年余を経て、今、幼気な少年に「タクサン コロシテクダサイ」と言わせ、それに日もおかず応えてみせた時代が、「海峡封鎖」だの「浮沈空母」だのといったおぞましい言葉によって呼び戻されようとしている。本年1月9日、京都府立高等学校教職員組合障害児教育部は、「障害者と戦争を記録する会」を発足させた。…戦時体制は眼の重要性に着目して、トラホーム予防協会や視力保健連盟を組織し、1939年には、9月18日を「眼の記念日」と定めている。しかし、こうした失明防止事業のねらいはあくまでも優秀な兵器としての眼の確保にあった。「眼の記念日」にいたっては、失明防止より以上に天皇崇拝の徹底が制定の本旨であった。明治11年、天皇が新潟に行幸した際、「沿道に眼病者の多きをみそなはし、眼病の治療と予防に有難き御沙汰を賜はった」日の記念というのだから。…現在京都府盲人協会の副会長をしておられる秋本幸吉さんも時代の犠牲者のひとりである。…ふと軒下に…小指ほどの銅で出来た筒であった。「ようし、この筒はあのランプの火口にもってこいの代物だ」。三回目の金槌を錐の上に振り下ろした、その瞬間である。轟音が耳元で炸裂して、その代物は秋本少年から両眼と左手親指、人差し指をもぎとってしまったのである。…やはり軍国のもたらした惨劇というほかない。ここで自然に想起されるのは藤野高明さんである。小川で拾ったすてきな獲物=&s発弾によって両手、両眼と弟さんを強奪された藤野さんの体験と生きざまは手記等で詳述されているので割愛するが、ただ1つ指摘しておきたい。それは藤野さんのあの夏の朝≠ェ、1946年7月18日、すなわち敗戦から約1年を経過した夏の朝だったという事実である。日本軍国主義は歴史の法則にうちのめされ身を滅ぼしたのちになお、川底から蘇生し、少年に襲いかかったのである。…日本ライトハウスの創立者、岩橋武夫さんは「戦争は悲劇の父であり、また創造の母である」という言葉をよく口にしたという。戦争はまぎれもなく悲劇の父であった。だが、はたして障害者にとって真に創造の母でありえたか?…「ぼくらも療養所の白衣に戦盲<}ークはついていたけど、食事のおかずがないため、毎日のように地面をはって野草とりをさせられました。婦人会の慰問など一回もありません。退院のとき京都の家まで送ってくれた看護婦さんは『すみません、白衣を返してください』と、私が身につけていた白衣まで持ち帰ってしまいましたよ。」要するに戦盲保護≠ヘ、武器としての眼の復元を含めて、戦盲≠フ肉体から「国家社会ニ貢献セシムル」べき残存能力をしぼりだすこと、戦盲≠フ気迫を国民の士気昂揚に利用することをねらいとし、投資効果とてんびんにかけて行われる戦時国策の一環にほかならなかったのであろう。「皇国の興廃を決せんと闘ひつつある超非常時に安閑としては居られぬ、さうだ、やるんだ、私の胸には烈々と再起の血が滾った」などという戦盲≠フ叫びに軍部ファシストはほくそえんだにちがいない。…つぎに、村谷さんの話に登場した検校なみの杖≠ェ問題である。この杖の受給第一号は日露戦争の犠牲者柴内魁三であるという。…ひとつは、不当に視力を奪った侵略政策への怒りをそらし、しずめる役割。天皇の御仁慈≠フこもった杖である。畏れ多いいただき物である。はりめぐらされた世論操作の網と相乗して赤誠≠かきたてるには十分であった。もうひとつは、視覚障害者に差別をもちこむ働き。…しかし、結果的にもともとの℃糾o障害者と肉眼を捧げた$盲との間に画然とした境界がひかれたのである。「杖からして一般盲人とは別格」なのだから。…なお、日中戦争の時期戦盲¢ホ策が急ピッチに具体化される背景には、ヘレン・ケラーの1回めの来日(1937年)を端緒に展開された大キャンペーン・愛盲運動の盛り上がりがあったこともみのがせない。ちなみに、女史は、2回めの訪日(戦後)を終えたのちに、日本の視覚障害者の戦前戦中を「長年の間、天皇を中心とする国家の為に続いてきた自己否定」と評している。…もともとの℃糾o障害者は書いている。「福祉的な扱いを受けた覚えは何一つ無かったのであった。否、それどころか、私達はかえって邪魔者扱いされていたのであった。」戦災で失明した少女も書いている。「おばは、部屋の隅にうずくまっている私の首をつまみ、無理矢理に私を引っ張り出し、訪ねてきた人に、『うちには戦争で親を殺され、めくらになって帰ってきたやっかい者がいるのよ』と珍しいものでも見せびらかすように(略)。」自然、「『ごめんなさい』これは私の日常生活の武器である。(略)そんな事はめったにないが、電信柱にぶつかっても、荷車にぶつかっても、私はすぐに『ごめんなさい』とあやまる」といった処世術がまじめに唱えられることにもなった。…視覚障害者の戦争体験がもうひとつのシルエットをもつ。…報国第619号(日本盲人号)。これが、視覚障害者が海軍にさし出した艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦の番号と愛称である。1942年3月大阪歌舞伎座で挙行された命名式を記念する写真には献納代表者の挨拶状が添えられている。…航空あんま。これには軍への訪問奉仕と軍属としての勤務と2つのタイプがある。前者には、開業している三療家がマッサージ治療報国隊≠結成して出かけたり、盲学校の生徒が動員されて参加したりしている。後者については、海軍技療手≠ェ有名である。…産報あんま…慰問治療…音楽報国…盲目の少女たちがお琴や歌で白衣の勇士を慰めました…食糧増産…貯蓄、献金、国債消化…決戦下盲人の標語=u盲人も武器を作るぞ国債で、十万こぞって献金貯蓄」…疎開分散…疎開には「いざというときの足手まといになるから」という発想が含まれていた。その意味するところは重い。思想謀略戦・神経戦…盲人防空監視哨員「…磨ぎ澄まされた我らの耳、晴眼者に勝るとも劣らぬ聴覚、十万盲人はこの有力なる武器で本土を狙う敵機を一機も皇国の空に入れてはならない/忘れられがちな盲人にも斯うした御奉公の道のあることを記憶せよ。」鈴木栄助さん盲学校教師回想記「…グラマン戦闘機、B29爆撃機、などの機種別、高度別の音盤(当時は敵国語使用禁止のためレコードといわなかった)を聴取させられた。」…ちえおくれの人や肢体障害者の戦争が疎外≠ナ塗りこめられているのに対し、視覚障害者のそれは参加≠フ側面をもつ。…
●『北國新聞』2003年8月13日社会面「七尾で視覚障害者による防空監視 太平洋戦争直前、試験的に3人」
岸教諭の調査結果に基づいて石川県立盲学校が調べたところ、全国で初めて監視哨の任務に就いた三人は同校の卒業生で、聴覚が特に鋭かったため推薦したらしい。四一年十月、は「こばやし としお32(歳)」「おおみや つとむ27」「たかぎ かんじ23」と記されている。
2003年8月15日 本紙十三日付朝刊の報道を受けて、一緒に詰めていた同市府中町の八崎秀治さん(七四)が本社七尾支社に名乗り出た。同僚に「こばやし としお」さん、「たかぎ かんじ」さんがおり、目が不自由な二人も高さ約三メートルの監視塔への上り下りをしなければならなかったが、機敏に任務をこなし、障害を乗り越えて「銃後の守り」に当たるという誇りと自負が伝わってくるよ うだったという。 http://www.wao.or.jp/user/kishi/nanao0308.pdf
●『点字毎日』活字版244号 2002年12月12日 ルポ 最前線を行く 戦時下の視覚障害者 京都府盲の岸教諭 史料発掘に取り組む http://www.google.co.jp/search?q=cache:W5AR8H7XBXYJ:www.wao.or.jp/user/kishi/sennsou.rtf+%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%A8%E6%88%A6%E4%BA%89&hl=ja%20target=nw
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☆第二次大戦後〜現在
●『戦争と障害者―ベトナムからの証言』障害者問題双書 高野哲夫・藤本文朗 在庫切れ
●ベトナム反戦時代(1968年ごろ)、障害者の反戦運動の記録の載っている本『坂道人生、のんびりと』尾堀元英・著(光明養護学校・東洋大学卒・脳性まひの障害者、5人の子持ち、孫多数増加中。)東京肢障協発行(2001.11.5)。東京都北区王子の米軍基地キャンプ王子の野戦病院撤去運動。今、そこには東京都障害者スポーツセンターが建っている。戦争・軍事の施設を平和と福祉の施設に変えました。
●『声を聞かせて、ベト』グエン・ドク(著)PHP研究所 2001/02 ¥1155
ドク自身の言葉で初めて語られた奇跡の二十年。兄のベトは、かすかな反応は示すものの寝たきりの状態で、ベトナムツウヅウ病院でドクと同じ部屋で暮らしている。生き別れの実母との再会、分離手術、いじめ、初恋と別れ、孤児へのボランティア、エンジニアの仕事、そして、ドクが神様に祈ること…。本書の印税はすべてベトナムの障害をもつ子供たちのために使われます。
●『心はつながっている』グェン・ドク(著)幻冬舎 2001/02 ¥1050
米軍の散布した「枯れ葉剤」によって、腰から下がくっついている「結合双生児」として生まれてきた兄弟。分離手術を受け、いま平和を取り戻したベトナムで暮らしている「ドクちゃん」が綴る自伝。総ルビ編集。大きな活字で読みやすい。春休みに家族で読む本! グェン・ファン・ホン/訳
●『パレスチナ・ジェニンの人々は語る』土井敏邦(岩波ブックレット)2002/12 480円+悪税。
――ジェニンの車いす――
2002年4月6日ジェニン難民キャンプ、生まれつきの全身性麻痺で車いすの障害者の男性ジャマール・ファイードさん(37才)。まわりは瓦礫と狙撃兵の中、家族らが白旗を揚げて外のイスラエル兵に「家の中に障害者がいるから建物を潰すのなら少し待ってくれ」と話に出ていたとき、家族らを無視してイスラエル兵のニシームの運転する軍用ブルドーザーD9は突進し、建物ごと潰していった。重い言語障害で言葉がうまく話せない彼が、その死の直前に、‘はっきりと’しゃべったのを、外にいた母親が聞いた言葉は「ヤッラー(神様)、ヤッラー(神様)」だった。土井敏邦さんが行った時には、瓦礫の上に、ひん曲がった車いすだけが掲げられてあった。数ヵ月後、日本から車いすの人二名を含む朝日新聞の本多雅勝記者たちの人間の盾が行って来たそうです。
●『われらの悲しみを平和への一歩に〜9・11犠牲者家族の記録』ピースフル・トゥモロウズ著(岩波書店)梶原寿・訳
――ニューヨーク9・11の車いす――
その本のP.18―21に次のことが書いてある。…2001年9月11日ニューヨークのWTC、リタ・ラサールさんの弟エイブさんは、職場の同僚の、四肢麻痺の車いすの障害者の男性エド・ビエイアさんと共にエレベーターを待っていて犠牲者になりました。が、ブッシュがそれを英雄談として取り上げ、アフガニスタン攻撃の口実に利用した時、リタさんは「私の弟の名前を使って戦争をするな!」と抗議し「ピースフル・トゥモロウズ〜9・11犠牲者家族の会」ができました。http://www10.plala.or.jp/antiatom/html/j/j02wc/spchmsg/International%20Meeting/Session%202/01%20-%20Rita.htm
【※私なら、こう言います。「障害者の犠牲者の人のことを使って戦争をするな!」 戦争が最大の障害だ。とっととやめれ!ブッシュ、コイズミくそ野郎めら、お詫びしろ!死ね!だがや。そんなことは当たり前。それさえ冷笑したり、他人事(たにんごと)にして、知能指数の良い論評の言葉を羅列するだけで、具体的な直接行動を何もしないことが“賢い世渡り”のように振る舞うポストモダンのお行儀の良い紳士淑女の者にこそ、最も底知れぬ、限りなく、心の奥から、真剣に、大真面目に、怒りが込み上げるのだ。抑えようがない。そういう奴らが一番憎い、にくい、ニクイ。ものすごく心底むかつく。ブッシュやコイズミよりも憎い。】
――※「ピースフル・トゥモロウズ」と名付けた意味は、1967年のキング牧師のベトナム反戦演説の次の言葉から。「戦争は、平和な明日(Peaceful Tommorrow)をつくりだすことにおいて、稚拙な鑿(のみ)であると、声高にのべている点において、過去は預言者的である。」 http://www5b.biglobe.ne.jp/~ykchurch/bokusi_2004_0718.htm
――※益岡賢さんのページ http://homepage1.nifty.com/KASAI-CHAPPUIS/IchiroMASUOKAKen.htm
マーチン・ルーサー・キング牧師は、次のように語ったことがある:
「後世に残るこの世界最大の悲劇は、悪しき人の暴言や暴力ではなく、善意の人の沈黙と無関心だ。」
(益岡賢さんは、ムジャヒディーンとインタヴューしたNew Standard紙の特派員の記事「ムジャヒディーンとのインタビュー・政治学者の見解」を翻訳し、その前書きでも書いている。) http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/iraq0404k.html
将来の予定されている利益を先取りする「利子」を否定するイスラムの考え方が資本主義陣営にとって敵となるのは、自明なことと言える。共産ゲリラがイスラムテロ組織と改称されることになる。階級闘争であることの内実は変わっていないのに。米英侵略軍ならびに小判鮫国家たち(資本主義陣営)が「自由と民主主義」の名の下にイラクを解放するという言説の陵辱は、われら平和主義を標榜する者たちの、最も気をつけなければいけないことであろう。
――※「マーチン・ルーサー・キング牧師の言葉」 http://www.nozomi-op.co.jp/kajihara/kajiwara17.htm
『沈黙を破るべき時』“A Time To Break Silence”
(1967年4月4日、マーチン・ルーサー・キング牧師の言葉。ニューヨーク、リバーサイド教会)
(※暗殺されたのが1968年4月4日、39歳だから、ちょうどその1年前、38歳。ベトナム反戦、真っ只中。)
…「沈黙が裏切りであるときがやってきた」という言葉に、私は完全に同意するもの
である。…私が自分自身の沈黙を破って心の燃えるままに語るようになり、ベトナム
の破壊から手を引くように呼びかけ始めてからもう2年になるが、多くの人々がこの
ような私の歩みに疑問を投げかけてきた。なぜ、あなた(キング牧師)が戦争問題につ
いて語るのか?なぜ、あなたが反戦の声を和するのか?平和問題と黒人公民権問題と
は関係ないのだ、と彼らは言うのである。私にも彼らの心配の理由がわからないわけ
ではないが、それでも私は非常に悲しい気持ちになるのである。なぜならそのような
疑問を呈する人々は、本当は私を理解していない、つまり私の献身(commitment)とか
わたしの 召命(calling)の意味がわかっていないからである。…孤独を感じた。この
政府のために、そしてわが暴力の下で震えている何十万の人々のために、私は沈黙す
ることが出来ない。…また、「あなたは公民権運動の指導者ではないか」と言って平
和運動から私を遠ざけようとする人々に向かっては、このように答えようと思う。…
われわれはわれわれのビジョンを黒人のためにある一定の権利獲得にだけ留めずに、
これらかつての奴隷の子孫達が今も負っている拘束から完全に自由にならない限り、
アメリカは決して救われることはないであろうという次元までを、展望していたので
ある。…この国の健全さのために抗議(protest)と不同意(dissent)の道を歩まざるを
えないのである。…われわれは弱き者、声を発しえざる者、この国の仕業の犠牲者と
なっている者、そしてこの国が敵と呼んでいる者のために、語るべく召し出されてい
るのだ。…
〜梶原寿さんのページより。 http://www.nozomi-op.co.jp/kajihara/kajiwara17.htm
(※「黒人公民権問題(運動)」のところを「障害者問題(運動)」、「ベトナム」を「イラク」、「アメリカ」を「日本の平和憲法」とでも置き換えてみてください。)(ヘレン・ケラーが、福祉のことだけしていれば良いと、政治活動や社会主義運動に取り組んだ時に言われたのとよく似ています。)
※梶原寿…日本キリスト教団牧師/日本マーチン・ルーサー・キング研究会幹事/名古屋学院大学教授
――さらに、梶原寿さんのページより。 http://www.nozomi-op.co.jp/kajihara/kajiwara8.htm
…彼の目を当時五十数万の地上軍を大義なきベトナム戦争に投入していた祖国アメリカの「西欧的傲慢」に向けさせ、全国から人種、民族、宗教を起え出た貧者の代表三千人を集めて首都ワシントンに進み込む「貧者の行進」を計画させることへと促していった。これは実にラディカルで革命的な企画であった。その途上で彼は尊い命を落とすことになったのであるが、この時点でのキングにおいてこそ、私たちはジェイムズ・コーンと共に「キングのビジョンはすぺての人間を指摘する真に国際的なものであった」と言うことができるのである。今日私たちが継承すべきキング思想とは、このような真に国際的で普遍的な精神であって、それはとかく大国アメリカにのみ気を配ってアジアの民を軽視しがちな最近のこの国の状況にも警鐘となるであろう。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
●『これからの真宗しきたり全書』(四季社刊)第5章 差別 http://www.jade.dti.ne.jp/~otera/sabetu.htm
(性差別ジェンダー 差別法名 老病死の差別 死の差別・・・略)
部落差別
…アメリカ公民権運動の指導者であったキング牧師は、人種差別について「後世に残るこの世界最大の悲劇は、悪しき人の暴言や暴力ではなく、善意の人の沈黙と無関心だ。後世に恥ずべきは『暗闇の子』の言動ではなく、『光の子』の弱さと無気力である」と語っています。部落差別も同様に、自分は差別していないといった傍観者的立場や無関心が、差別を許す土壌を培っているのだとも言えます。差別は、心理的にも実態的にも、個人の人権や尊厳に対する暴力的な行為であり、人間存在そのものを否定する行為です。見て見ぬふりは許されない事象なのです。
障害者差別
障害者差別は、身体的・精神的な特徴と理由により、他の人々と平等な立場で社会生活に参加する機会が奪われ、あるいは制限され、その自由が束縛されている状態にあることをいいます。
「障害はその人の個性である」。そんな言葉をよく耳にしますが、まだまだ障害者と言えば、「〜できない人」であり、「負担・重荷になる人」であり、「かわいそうな人」といったマイナスのイメージがつきまといます。障害とは「〜できない人」ではなく、健常者中心の社会で「〜させない」社会があるということなのです。
「障害者に思いやりを」という言葉を聞いたことがあります。思いやりという言葉は、心地よい響きがありますが、「被差別部落の人に対する思いやり」とは使いません。使わないというよりも許されるはずがありません。「思いやり」の根底に「思いやるべき人」という差別の現状を追認する考え方が潜んでいるからです。また、「障害者の人たちだって頑張っているのに、私もしっかりしなくては」という発言も同様です。「障害がその人の個性」とは、背が高い人や低い人、男性や女性、顔の形の違いと同じ様に、「障害」も他人との単なる『違い』であり、その人の『個性』の一つという理解が大切です。
寺院と言えば階段や段差のある建築というイメージでしたが、東西本願寺を初め、徐々にですがバリア-フリー(建築設計において、段差や仕切りをなくすなど高齢者や障害者に配慮をすること)のお寺も増えつつあります。また大きな法要などでは手話通訳も試みられるようになりました。
障害者差別は、個人の尊厳への差別と共に、本堂に参拝できない等のみ教えに出遇うたの障壁を低くしていくことも課題です。朗読聖教の常備や法要や法話ビデオテープの宅配など、障害者への障壁を低くしていくことは、そのまま門信徒の老齢化が進む現実への対応でもあります。
社会運動への参加
…しかしその差別の体質がその時代の常識であっても、その常識ゆえに涙した人が無数にいたはずです。なぜその時代の濁りや人の悲しみが見えなかったのか。それは私自身が少数者ではなく多数者の側に立ち、弱者ではなく強者の側に立ち、被差別者ではなく、差別者の側に立ち、他者よりも優位であることの中に、自らの存在の証を見出すという差別体質を持っているからだと思います。その差別体質ゆえに他者の涙や苦しみに耳を傾けることを拒み続けてきたのです。念仏者の社会運動への参加は、苦しんでいる人の側に立つこと、それは自らの差別体質との決別することから始まるのです。
前章でキング牧師の言葉にふれました。1964年にノーベル平和賞を受賞し、その4年後39才で銃で撃たれ死亡した彼の生涯の中で最も有名は言葉があります。1963年8月28日,リンカーン記念堂前で黒人公民権運動の行進に参加した25万の人びとにむけて行なわれた“I have a dream.”(私には夢がある)の演説で語った言葉です。彼はその
時、歌うよう
に語ったと言います。
「私には夢がある。いつかジョージア州の赤い丘で以前の奴隷の子と、以前奴隷を所有していた者の子が兄弟のように同じテーブルにつくのを……」。「兄弟のように同じテーブルつく」。この当たり前のことが日常の出来事となる。その背景には、人種によって個人の尊厳が否定されない社会があります。差別をなくす運動は、あなたと私と社会が、個人の尊厳を尊重する価値観に目覚めていくことであり、実はそれは、私自身がすべての差別から解放されていくということなのです。
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【ビデオ】
●車いすの障害者の市議会議員ドナ・スプリング『バークレー 市民が作る町』マブイ・シネコープ 2002年9月制作・35分・5000円 http://homepage3.nifty.com/videopress/berkeley.html
http://homepage2.nifty.com/cine-mabui/sakusaku/4_3.htm http://homepage2.nifty.com/mekkie/peace/berkley.html
アメリカにもこのような町がある。あのバーバラ・リー議員の地元カリフォルニア州バークレー市。全米唯一のアフガン爆撃反対を決議した町。そこには、電動車いすの障害者の女性市議会議員ドナ・スプリングがいる。彼女がその決議の発案者のひとりだ。このビデオにしっかり登場する。左利きで電動車いすのジョイスティックを動かして市議会へご出勤。今もバークレー市のインターネットで市議会中継録画が見れる。2004年12月14日のに出ていた。 http://www.ci.berkeley.ca.us/citycouncil/agendaindex.htm いつでも世界中から見れる。ただし英語でしゃべってるので、オープン・キャプション字幕が出てもよくわからない。この町は1960年代から、ベトナム反戦運動、黒人公民権運動、ウーマン・リブ、ヒッピーなどのメッカの町。UCバークレーがある。他民族・多文化共生、参加型民主主義、CIL自立生活センターの元もこの町で1972年にできた。そこへ日本からも1980年代〜90年代に多くの障害者が留学し勉強して来た。“反戦と福祉の町バークレー”。しかし、その20年も前に、青い芝の会が独自にやっていたことのほうが、はるかに反優生思想・反利益主義的なコミューン作りと自立運動だった。マハラバ村…。アメリカ帰りはありがたがり、日本のは過激派扱いする…。…♪ボ〜クの隣のおばさんは〜、ア〜メリカ帰りのおばさんで〜…♪そうだよ、丸愛花かつを、栄養タップーリネッ♪。
【映画】
『アイ・ラブ・ピース』2003年 http://www.cinema-indies.co.jp/ilovepeace/
日本の耳の聞こえない女性がアフガニスタンの足をなくした子供たちに義足を作りに行く。聴覚障害者と肢体障害児との障害のワクと国のワクと言葉を越えた交流。日本での記者会見の偽善性なども風刺されている。現地大ロケーション。英語・パシュトゥーン語・日本語・日本手話・字幕・視覚障害者用副音声ガイド付き・点字同時解説機器連動試験などの、マルチリンガル・バリアフリー映画。東京の試写会や劇場公開時には、それらが付いてなくて、これを全盲の人と観に行ったら、手話のシーンはまったく音がないし、外国語のシーンや音楽だけのシーンやセリフの声のないシーンは多いしで、隣の席で説明するのはとても大変なのだった!両手ポリオでも少しは役に立ったかな?全盲の人に重たい荷物は持ってもらったり、缶のフタを開けてもらったり、いろいろ助けてもらいました。助け助けられ二人三脚でした。その全盲の人は盲学校の青年教師で、生徒を草津のハンセン病療養所へ連れて社会勉強に行ったり、広島の原水禁世界大会で視覚障害者の代表で演説したり、2003年アメリカの国連本部へ核兵器廃絶の点字の署名一万人分以上を届けて、リタ・ラサールさんとも会ってきて、ワシントンDCでの平和大行進にも参加してきた人でした。 http://www.antiatom.org/html/menu2/2003/20031031142353.html の1〜10に報告あり。
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(※1969年4月 梅ヶ丘病院(東京世田谷区)、国内最初の自閉症児病棟開設。院内学級も出来る。) http://homepage3.nifty.com/epoepo/nenpyou.htm
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☆そして現在の日本、あの光明養護学校のすぐ隣、梅が丘病院内の病弱児童が学ぶ分教室等に、2001年あの戦争賛美の教科書が東京都と愛媛県にだけ押し付けられ、今も使わせられている。
●『石原慎太郎の福祉改革を徹底解剖する』あけび書房(2002年)浅井春夫・編著、障都連事務局長・市橋博さん(光明養護学校・明治学院大学卒・脳性まひの障害者)も著者の一人。石原批判本は多数出ているが、これは障害者自身の書いたもの。今、障害者こそが声を上げ、日本や世界のあらゆる反戦運動と共に連帯し立ち上がるときです。二度と、米食い虫、非国民、生きる価値のない命などとののしられないために!安楽死や餓死や虐殺をされないために!怒りまくれ!
●『愛媛新聞』2001/8/21「採択の余波 えひめの教科書問題4 障害者の不安:「違うもの使わされる」たった5人にだけなぜ?」 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/zxvt29/rensai.htm
●『愛媛新聞』2002/07/28「障害者と戦争・教科書について考える緊急学習集会」長崎大の平田勝政助教授(障害児教育)が講演。「この教科書では、戦争中に障害者が受けた差別や人権侵害についても触れておらず、社会的弱者にとって不利な歴史を正当化している」と批判した。アピールでは、戦後の障害者の人権保障の根本原理である日本国憲法を軽視…などを挙げている。 http://hb8.seikyou.ne.jp/home/MINDAN-EHIME/kyoukasyomondai.html#2002072802
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<ナウ・バック・トゥー・ジ・アンタッチャブルズ>
THE UNTOUCHABLES ACT V
<1932年11月7日夜、大統領選挙を明日に控え、政府の諸官庁は全て執務を停止していた。しかし、連邦本部だけは二種類の変成剤を混ぜ合わせ、密造酒を造りにくくする作業を徹夜で続けていた。そのころ、ネスは次々と死体が上がる連続殺人事件と、変成剤を加工する科学者との関連を捜査していた。そしてシールドを突き止めるが、両足を引きずり杖で歩くのを見て、殺人犯との決め手を欠いた。二人の知恵比べが始まる。シールドは、ついに相棒のバルツァーも殺させて、フランク・ニティーと対等になる。ギャングたちは、足を引きずって歩くズルッズルッという音が近づいてくるだけでビクついた。暗黒街の帝王へと、のし上がったのだ。「私がいなけりゃ、一滴の酒も造れないだろ。フフフ…。」>
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【現在の反戦運動+反優生思想運動と障害者運動の実情】の一部 (今までのシリーズ中で取り上げたものは、ほぼ省略)
■反戦・反優生思想ネットワーク・神戸 http://awaeg_kobe.at.infoseek.co.jp/ http://www.arsvi.com/0n/awaenk.htm
■「障害者」反戦パーティに集まろう http://homepage1.nifty.com/takamitousou/sub055.html
■DPI(障害者インターナショナル・カナダ)ケイ・シュライナー(2003年3月)
「イラク戦争、障害者権利運動家達を立ち上がらせる」…この地球上に存在する五億の障害者は、絶対的な生命の尊厳の獲得を切に望んでいます。…2月の土曜日にロンドンでは、障害者が他の多くの参加者とともにイラク戦争反対のデモ行進を行った。カナダ障害者協議会(CCD)はカナダ一般市民に、今後開催されるあらゆる公の集会でイラク戦争の議題が出た場合は反戦の姿勢を共有するよう呼びかけた。
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/else/topics/iraq.htm
■「アメリカ合衆国大統領・ジョージ ブッシュ様」反戦「障害者の会」世話人・住田雅清
http://hccweb1.bai.ne.jp/sumida/fram70.html
■住田雅清って、どんな人? http://hccweb1.bai.ne.jp/sumida/fram10.html
劇団「態変」のエキストラとして、4回の公演に出る。映画「おそいひと」の主演男優として出演。完成予定:2004年2月。公開予定:11月ごろに、全国ロードショー。
■劇団態変・金満里「我ら表現者は戦争放棄・徹底非暴力の道を往く」反戦企画のページより(2003.3/29〜 )日々更新中〜 http://www.ne.jp/asahi/imaju/taihen/kim/hansen-01.html##1 http://www.asahi-net.or.jp/~tj2m-snjy/meta/antiwar/aw.html#aw4 ほか。
■立岩真也:「イラク戦争・イラク派兵 2004」 http://www.arsvi.com/0i/004001.htm
■河野秀忠さんプロフィール…1942年、大阪市生まれ。酒屋の店員、トレーラーの運転手など様々な仕事に就きながら反戦、部落、沖縄問題に取り組み、71年障害者の友人を得て障害者解放運動へ。79年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長として現在に至る。 http://www.azumino.cnet.ne.jp/human/chikuma/event0.html
■『ナチスドイツと聴覚障害者―断種と「安楽死」政策を検証する』中西喜久司(著)文理閣 2002/10/10 \2310
〜反戦・平和・人権と障害者問題について訴え、ネオ・ナチズムの台頭に警鐘を鳴らす。日本への反響、川本宇之介と藤井東洋男、「安楽死」と医学実験、自由の天地にあっても、ほか。 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4892594083.html
■「障害者の日」(12月9日)に思う〜死後、放置されたろうあ者 2001/12/15 名古屋
1981年に障害者福祉の増進を図るために障害者の権利宣言が行われ、その日を障害者の日としたのです。その後、95年に障害者基本法が公布された12月3日から障害者の日である12月9日までが、「障害者週間」となりました。…
http://www.jlp.net/letter/011215b.html
■『Wave』紙「イラク反戦と『障害者』運動について」 http://www.iris.dti.ne.jp/~globe/iraq.htm
■「聖戦」と「精神障害者」 http://popup.tok2.com/home2/nagano2/warandps.htm
■本間美智子(2001年8月17日毎日新聞への投稿)[みんなの広場]障害者と親は憤りを感じている=会社員・本間美智子(58) http://www.mainichi.co.jp/universalon/clipping/200108/095.html この人は他にもあちこちに障害者と反戦のことを書いておられる。
■世界社会フォーラム(WSF/インド・ムンバイ)に10万人:(2004/02/15) http://www.jimmin.com/doc/0017.htm …インドの、本来の「アンタッチャブル(不可触賎民)」…
…会場周辺で目を引いたのが、インド障害者ネットワークによるWSF糾弾デモだ。車椅子に乗ってデモに参加したアキール・ケレシさんは、「トイレがあっても段差があり、ほとんど利用できない。そんなことよりおかしいのは、あの壇上には障害者が一人もいないじゃないか!」と怒る。アキールケレシさんはコンピューターソフトの開発プログラマーだという。「障害者も社会フォーラム参加者の一部じゃないのか!われわれを排除するな!」と叫ぶ。こうした声に、組織委員会は、「次回のフォーラムに生かす」と応えているが、障害者グループの怒りは収まっていない。こうした軋轢や批判を含みながらも、あけっぴろげな議論の場が、世界社会フォーラムなのだ。「反帝国主義、反戦が焦点に」…
■「まよなかしんや・ウルマ通信」全精連沖縄大会 http://naha.cool.ne.jp/mayonakashinya/000927.html
■ピースウォークinとやま、富山YMCA http://www.fitweb.or.jp/~peace/
会場からの「障害者」の方からの発言――参加者の「障害者」から、「お手伝いなどで、『健常者』にたいして、声をかけれないような状況が生み出されている。他の国ではどうか」という発言にたいして、他の参加者(女性)から、「今の発言を重く受けとめる必要がある」と意見が述べられました。「戦争になると真っ先に殺されるのは障害者」と、障害者の方々は大変な危機感をもっておられます。30年代のナチス・ドイツにみられたように、これは単なる危機感ではなく歴史的な事実でもあります。現在進行形の戦時下において、「優性思想」や「障害者差別」とたたかうことがますます死活的に重要になってくること、参加者一同が認識を新たにしました。
■<文学にみる障害者像 39>井伏鱒二著『黒い雨』松本昌介(全国肢体障害者団体連絡協議会/元・光明養護学校教師)…「重松の怒り」…読んでいて、どうしてここで怒りを感じないのだろうか、疑問をもたないのだろうかと感じることがあります。…その当時の忠実な日本人、平均的な市民の目から見た原爆犠牲者たちの姿を冷静に客観的に描いているということで、この作品は優れているのです。当事者であれば、怒りや嘆きや悲しみが当然先行する、そして読者もそれを期待する、作者の訴えたい気持ちにも共感する、そういう文学作品の中で、この作品はやや異質です。… http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n216/216003.htm
■『WORLD PEACE NOW IN 愛知 PART7』報告(03年4月6日名古屋・栄の久屋広場)
…全国戦災障害者連絡会の杉山千佐子さんは「私自身も戦争により被害を被ったが国や政府は軍人ではなかったからという理由で何の補償もしない。その為に働けずに自殺した人もたくさんいます。何故、あの人たちは死ななければならなかったのか。そんな悩みを超えて今日まで闘ってきました」と語っていた。…戦争が終わるまで何度でも集会・デモを行うことが参加者全員の大きな拍手で確認された。…(愛知では、C−130の自衛隊小牧基地前での車いすデモの記事と写真も見たことがある。) http://www.ne.jp/asahi/nagoya/eco-action/hansen/iraku/4_6syukai/4_6syukai.html
■生意気・近藤和也が、出したものの、ほ〜んの一部。コンピューター・ウイルスと私の誤操作ののせいで2004年3月より前の記録が全部消えちまったから、よくわからん。
「高遠さん 今井くんに関する 読者メールです」2004-5-20 http://9017.teacup.com/haga_kazuki/bbs
「暴虐のアラシ●これへのレス」2004-05-11 http://www.creative.co.jp/top/main2018.html
『地球憲法第9条』書籍:復刊に協力を 2004/04/25 http://www.creative.co.jp/top/main1885.html
『地球憲法第9条』書籍:復刊に協力を 2004/04/24 http://www1.jca.apc.org/aml/200404/39271.html
【本の紹介】肢体障害者の戦争体験記 2004/05/05[地域から平和をML] http://www.freeml.com/message/2002costarica@freeml.com/0000267
【本の紹介】肢体障害者の戦争体験記 2004/05/05[2002コスタリカML] http://www.freeml.com/message/local-peace@freeml.com/0003169
【本の紹介】肢体障害者の戦争体験記 http://www.freeml.com/message/2002costarica@freeml.com/0000338
「障害者が自衛隊イラク派兵中止を求める国会前座り込み 2003年12月9日10日」
http://www.freeml.com/message/local-peace@freeml.com/0002431
「障害者と障害児学校の先生たちがイラク派兵阻止の街頭宣伝のご案内 2003年12月20日」 http://www.freeml.com/message/local-peace@freeml.com/0002507
ノーム・チョムスキーらの「イラク民衆による独立議会の国際的な呼びかけ」2004/04/16 http://www.freeml.com/message/local-peace@freeml.com/0003020
「平和をねがう障害者のつどい・千葉5・3」2004/04/03 http://www.freeml.com/message/local-peace@freeml.com/0002890
その他いろいろ…。このような戦争反対をやると、それも障害者なんかがやると、全国の、とても、とても、とっても、ものすごく善良な、おだやかな、いい人たちの全てから、嫌われ、叩かれ、いじめれ、運が良くても無視され避けられ排除されますから、みなさんも、もしも、やるんなら、よ〜く注意して覚悟の上でやってくださいね。今の日本はね、あっ、今だけじゃなく大昔から、戦争賛成しなくちゃいけないんだって。なぜかって言えばね、戦争こそが、人道支援で、公共の福祉で、新世界秩序の国際貢献で、国際経済競争に勝ち抜くには自前の軍事力を持ち自由に闊歩できるようにするのが普通の国のすることで、それが生活安定と文明の進化と愛と正義と平和のためだからというこだそうです。肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのも自衛隊さんのおかげです、だそうです。障害児は兄さんと学校に行けません。別のところへ収容します。それが世間のためですって。イラクや北朝鮮は悪い奴らの害虫ばかりだから、どんどん駆除するほど日本は景気もよくなって暮らしやすくなるってさ。人殺しをやるほど素晴らしいってよ。そういうふうにみんなが認めた多数決なんですから、なんて民主的なんでしょう。世間の空気から、はみ出さないようにしましょうねって言うことですね。自己責任って言われますからね。国民性とも言うらしいですね。嫌われないようにしましょうね。恐ろしい世の中です。アホクサ。やってられんわ。バカラシイ。手が動かなくなってきたよ。ポストポリオの症状が進んできた。ああ、きつい。でももう少し続けようっと。
■障害児教育『プロレタリア』375号(統合19号)2000.12.29 http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/375syougaiji.htm
…このかんの長期の障害児教育をめぐる運動と論争を振り返ってみると、日本共産党および全障研は、養護学校義務化をめぐって、障害者の「発達を保障する」ことこそが障害者問題解決のための最重要の任務であるという観点から、養護学校を中心とする障害児教育を更に充実せよ、と政府・文部省に迫ってきた。
それと、真っ向から対立した主張をしてきたのが、全障連に結集する障害者団体であった。障害児・者の置かれてきた、そして置かれている現実から出発するならば、養護学校の義務化は差別・選別の能力主義的教育の完成であり、障害児・者の隔離抹殺政策の一環であるという観点から、養護学校義務化阻止の旗印を掲げてたたかってきた。
養護学校ではなく、地域・校区の原学級での教育の保障を求めるという運動が、全障連を先頭とする反差別団体や教組などを中心に取り組まれ、この結果、一方で養護学校が存在しながら、他方では、地域・校区で教育を受ける障害児も存在するという状態が、全国各地でみられることとなった。
今回の文部省協力者会議における就学基準の見直しは、こうした地域・校区での教育を保障せよという声に押された結果であることは、否定できない。養護学校での隔離教育ではなく、地域・校区での原学級での教育を保障せよという運動の成果としてとらえることができるであろう。
ただ、問題は、日本が資本主義国家である以上、養護学校であれ普通学校であれ、支配階級は弱肉強食の競争主義の資本の論理を教育現場に持ち込もうという意図を捨てないのであり、障害児と健常児、親、教育労働者、地域の民主団体が「共に生きる」社会をめざして、能力主義教育を超える教育、共生教育の中身の充実の創造をすすめていく営みがなければ、真の意味の統合教育は存在しないということである。その営みがなければ、政府の意図どおり、差別教育の真っ只中に障害児を放置するだけ、という結果を招くことになるということである。
支配階級の本音が、障害児を隔離教育してより安価な労働力として育成し、また労働力と見なされない障害児は施設に送り込んだり、在宅生活を強いるというこれまでの原則は変えないまま、普通学校での能力主義教育に耐えることができると判断された障害児を、普通学校で受け入れていくというものであることは否定できないのである。
こうした、運動の成果とその地平での新たな課題に直面する障害児教育であるが、これを含め障害者解放運動全体について、大きくはどのような課題が問われているのかを若干提起してみたい。
日共と全障研は、日共の政治路線に沿って、現在の諸条件の中で子どもの発達を最大限保障し、民主教育を発展させ、民主的作業所の建設、民主的な施設改革、法制度の改正を行なう等の取り組みを通じ、障害者の労働する権利と所得を保障するという方針を持ち、またそのための組織(教師、親、学者、施設職員を中心とした諸団体)を有している。これに対し、養護学校義務化に反対してきた運動勢力は、明確な政治路線や共に前進する政党も有していないというのが実情である。
この運動勢力は、施設や在宅生活に耐えかねて地域で介護者をつけて自立生活を開始した障害者や、隔離教育に反対した親、部落解放同盟員、教師の有志、宗教者、反戦青年委員会や全共闘を経験した人たちなどによって、個々に、行政に対する糾弾行動や教育・生活・労働を含めた行政交渉などを行なってきた。困難な状況の中で、障害児・者を隔離、抹殺する政策を糾弾し、実力で障害者の生存権を確立する政策を求めてたたかってきた。
しかし、長期のたたかいを経て一定の成果と運動団体の地位の向上は見られるとはいえ、日本の根本的変革をめざす政治勢力との連帯性が弱く(それは障害者運動と政党運動のお互いの力量不足ということもあるが)、支配階級の融和主義的な運動抑制策を打破し、社会変革を担う全ての人々と手をたずさえて前進するという段階には、いまだ至っていない。個々ばらばらの闘いでは、敵に各個撃破されるだけであるし、また一定の譲歩と引き替えに、能力主義と差別政策の片棒を担がされる危険性があることも否定できない。
政府・文部省が日本帝国主義の労働力政策にもとずいて、資本に役立つための一部のエリートと圧倒的多数の安価な労働力を作りだす教育政策をおしすすめていることは周知であるが、障害者運動の側は、それと具体的に対決できる政策をいまだに作り出し切れていないと言える。また、科学的な障害者観、学力観の確立、「発達とは何か」という定義づけ、訓練・リハビリは障害者運動の中でどう位置付けられるのか、という理論的問題についてもいまだ明確な回答は与えられていないのである。
日本帝国主義の障害者抹殺政策を粉砕し、障害者の人権確立のための政策を実現する改良闘争の方針を整えるとともに、現在よりも数倍は障害者の人権が保障されることが予想される日本の社会主義的な変革に向けての、障害者運動と革命政党とによる綱領的政策の提案など、相互の共同の努力が求められていると考える。
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――いずれにしても、散発的な障害者反戦であるから、この際、養護学校問題や発達保障論の対立は差し置いてでも、まず反戦で大同団結・連帯共同せよ!。万国の障害者が国際反戦共同行動するように、盛り上げていかねばならないのだ。少なくとも、福祉と同じ次元で常に反戦・自衛隊派兵反対・憲法改悪反対等を、命をかけて、くだらぬメンツを捨てて、怒りを込めて、怒りまくって、真剣に、取り組むべきだ。そして根底には優生思想との対決が必要なのだ。優生思想との対決は全障研の方も書いているページがあった。もちろん、そう簡単には連帯できないだろうが、戦争反対の一点だけで少しずつでも、やってみようとしてみる方向になることぐらいの模索のかけらぐらいはしてみようともしないのか?他のことでは対立や無視をしてればよい。つまりだ、反戦デモや集会に先ず出てみる、または内の中からメッセージを送る、または、少しは興味を持つぐらいのことさえもほとんどしない。上からの支持のあることだけ。そんなことではダメだとなぜ思わないか?一刻の猶予もない。反戦をやらない福祉はマヤカシだ。お情け、お恵み、施し、慈善、お荷物、厄介者、迷惑者、邪魔者、のけ者、役立たず、福祉は贅沢、面倒かけるな、世話がかかる、ごくつぶし、非国民、無駄めし喰らい、三等人種、劣等種、生きるに値しない命・・・、あってはならない者・・・、人間ではない者・・・、安楽死、見殺し、放っておけば弱い者から勝手に野垂れ死んでゆく、虐殺するまでもない、自業自得、自己責任、死んで当然・生きてちゃ迷惑、生きているだけでありがたいと思え、それを怒るだの反戦だの反骨精神だのとんでもない、おとなしく従順にオリコウさんに明るく楽しく振る舞って世間様に感謝してお行儀よく道徳的に礼儀と節度を重んじて道理を通して理性的に清く正しく美しく愛と正義でラブ&ピースってケナゲにかわいがられ好かれ気に入られるように愛嬌振りまき八方美人で誰にも謙虚に頭をヘーコラ下げて慾ハナク決シテ瞋(いか)ラズイツモシヅカニワラツテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジヨウニ入レズニ・・・サウイフモノニワタシハナリタくない!まっぴらごめん!。今、この日本も、すでに戦時下の真っ只中、茶色の真っ昼間、戦時中!。怒りを出せなくさせられることが、その証拠!。どんなに平和に見えても弱者が強者に向かって怒ることができなければ、そこはすべて戦時中。実は、昔っからずっと、常に戦争構造の中で、戦時下だったのだ。怒る障害者は非国民???雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ“丈夫ナカラダ”ヲモチ・・・。ゲエーーー!!!ゲロはきそう、ウンコもれそう、ハラくだる、キくるう。
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<ナウ・バック・トゥー・ジ・アンタッチャブルズ>
THE UNTOUCHABLES ACT W
<1932年11月8日夜、ラジオでは開票速報が始まっていた。シールドは彼女に豪華なダイヤの婚約指輪を持って「モンマルトル」の歌手控え室に入って行った。しばらくしてその場に、エリット・ネス率いるアンタッチャブルの面々が飛び込んだ。シールドは逮捕される時「私は足が不自由なんだ。どうやったら人を殺せるんだ」と言ったが、動かぬ証拠を突きつけられ、アリバイも成立せず「私が他になんになれたと言うんだ!」と叫んだその時、ネスは当日の新聞を見せた。そこには「ルーズベルト、大統領に当選」の文字が大きく載っていた。>
(※ルーズベルトはニューディール政策を行ない、禁酒法も廃止したが、世界大恐慌からの不況の根本回復はならず、結局、日本軍の真珠湾奇襲を口実に第二次大戦に参戦、景気回復の打開策は戦争によることしかできなかった。そして、原爆開発促進政策を展開する。1945年2月4日からヤルタ会談に赴き、8日間の交渉を終え帰国した時には衰弱しきっていた。3月10日東京大空襲。そしてドイツ降伏の1カ月前、日本降伏の4カ月前の4月12日昼食前、ルーズベルトは突然、ひじ掛けいすから崩れ落ちた。4期目任期半ばでの(回想録や自伝を残す暇もなく)「脳いっ血」による急死であった。享年63歳。)
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【私のこと、など(近藤和也)】
私は両手不自由です。右手はある程度動きます。左手はまったく何もできません。パソコンは右足と右手を組み合わせて、キーボードではなく、画面に出る小さい「IMEパッド」というのをマウスで打ち込む。そのほうが動かす範囲が狭いし、一度に二つ・三つ押すのは一つずつでもやれるようなきのうもありがたいからからやりやすい。足とあわせるから、ペタッと座る場所でないと難しい。机の上では、やりにくい。幾分動く右手も少し寒いだけで、すぐに、かじかんでしまいます。それに最近ではポストポリオの症状らしきものも少し出始めました。見た目では手のひらぐらいしかわかりませんが、実際は腕から肩、胸のあたりまでの麻痺があり、裸になれば上半身は骨皮筋衛門です。両上肢です。つまり、手ポリオと言ってもそこまでの意味です。足ポリオの人が多い。手でも片手麻痺の人が多い。しかし、両手両足麻痺のポリオの人もある。みんないろいろ違いがある。脳性麻痺の人から言わせると、言語障害がないからよいではないかと言われる。脳性まひでも、みんないろいろ。ポリオは障害の部位はまったく力は入らない。そんなことより、人間の性格や気質の違いの穂ヴ大きい。ただし、手の障害は次のような、ナイーブなことやメンツのようなことに関係が多いと思う。それは、不自由・不便とは少し違う、心の問題である。
私は中学生ぐらいまで、ウンコは人様の世話を受けてきました。その後、工夫して何とか自力でできます。しかし冬は、きき腕の右手も完全にかじかんで動かなくなり、かなり危ない時もあります。暖房のきいた部屋の中なら大丈夫ですが、寒い外から入って来て小一時間ぐらいはうまく動かない。2004・3・20国際共同行動・世界同時反戦デーのデモ(午前の芝公園から午後の日比谷公園も通して参加)の寒い日、雨の中、かなりやばかった。オシッコも自力でできなくなります。しかし、障害者の間でもそういう話を避けるし、デモなどにもあまり出てこない。この日だけは役員の動員がかけられ多数参加したが彼らは午前のみ。毎度1・2日前に中央の事務局から電話がかけられて言われた通りにやっているのみ。ほとんどが20年以上も会員をしている人たちばかりなのに、イラク戦争も有事法制も普段は話さないし、話しても世間一般の程度以下。それでバックが共産党系の障害者の会なのだ。福祉のことも自分のうわべのことのみ。構造的な社会問題として考えない。そういうふうに考えてはいけないらしい。そういう意見を言っても意味がない。無視されるだけ。あ〜あ。排泄と反戦と考えることはタブーらしい。おかしい。私は両足は普通ですから、デモや集会や発言などはいくらでもできます。しかし、嘘か誠か、次のように言いましょう。あの日は、しょんべんも、クソも、垂れ流しで、歩いていた、とね。クソ・ションベンは、大雨が全部洗い流してくれたから、におわなかった?にもかかわらず、そのあとの夜の赤坂の居酒屋で、十人ぐらいの集まりにも参加し、私は“明るい笑顔”で、楽しく愉快に振る舞った…。長い一日。さて、本当はどうだったでしょうね???
その真相はどうだったにしても、反戦運動や福祉運動とは、それくらい当たり前でやるものだ。うわべのきれいごとでやるものではない。泥まみれ、糞まみれになっても、メンツも、命も、全てを、かけて、やるものだ。当然だ。二年半しか経験がなくてもそう思う。ところが誰も、障害者自体さえもが、誰一人として、そういう気構え・意気込みがない。ないだけではなく、気構え・意気込みを冷淡に冷笑し否定し、避け、馬鹿にする。だから、軍事と福祉の関係もつながらない。みんな身のまわりの目先のことだけがよければ多少福祉が削られても気にしない。そうして少しずつ「ゆでがえる状態」になり、やがてドッと切り捨てられる。ただ、表向きはそんなにわからないやり方で、何万人のイラク人が殺されても、ほとんど知らん顔をして日常生活を送っている人たちのように。また自身の頭に空襲が来たとしても、ただの被害者意識だけで、戦争構造と日常の自身の世間の空気や政治意識や社会問題の方向に考えない。考えている人もいるが具体的行動を起こさない。起こしてもラブ&ピースの、権力者にはちっとも痛くも痒くもなく、むしろ政治意識を消すことを後ろから応援している行為になり奴らは喜ぶ。いつもそうだ。昔も今も。
ウンコがそんなに大変ならば、常時、介助ヘルパーを付ければ良いなどと言うのは、障害の実態と、支援費制度の中身と、私の行動パターン(デモ、集会、その他)と性格と世間との齟齬などを知らない者の言うことだ。紙オムツを付ければ良いと言う人も実態を知らない。ああいうものは寝たきりか、それほど動かない場合なら良いが、歩きまわり人々の中に行くときは無茶だ。そもそもうまく取り替えができない。また、服を脱いだり着たりもたいへん時間がかかるし、おかしな格好でないとできない。工夫して日常生活のことは何とか一通りは自力で一人でできる。だから一人暮らしを20数年間やっている。やりぬいている。誰にも文句は言われたくない。そのほか、まだ肝心なことが二つ・三つ書いてないが、今回は、やめにする。いずれまた。
両手不自由は、見た目より大変だ。見た目は、車いすの人やその他いろいろの障害の方々の、いかにも障害者という人は、もっともっと、とても大変ですが、大変だとわかりやすい大変です。でも、たとえば両足障害だけで両手は普通に動く車いすのかたは、移動するバリア以外は、ほとんどのことが自力でできる人が多い。自動車の運転も手だけですぐできる。私の場合は、足だけで運転するタイプじゃないと無理だが、そういう車は20数年前からあるが、とても高価で(約3百万円)、操作も難しい。東京は電車・地下鉄・バス等が便利だから運転免許は持つ必要はない。そういう「ひがみ」のようなことも、普通にどんどん言えて、ありのままの気持ちを出せて、その時でも「憎悪」や「ひがみ」や「差別」と思われない世の中の空気にしたい。だいたい障害者の相談をするところが、制度や技術や施設や人に頼る術や、そんなことばかりで、心のことに踏み込まない。精神科の医者もまた、精神の中のことに触れない。何をするかと言うと落ち着く薬やよく眠れる薬をくれるだけ。それは精神科とは言えない。そういう医者どもは軽蔑するだけだ。だから行かない。本を読んでも、集会等に行ってもどこもかしこもそうだ。反政府・反権力などとひとこと言えば精神障害なんだと。言うなら穏やかに体制を乱さないように平静に…。私は今は「身体障害者」で「精神障害者」でもある。が、これらの「障害」という問題に真正面から向き合うところはどこにもない。みんな、うわべのきれいごとだけだ。ウンザリだ。そして、ひきこもりになり、3ヶ月になりました。
以上は、たとえ話として、私個人の例を出しました。もちろん、酸素ボンベを付けて命にかかわる障害の人から見れば些細などうでも良いことでしょう。私が言いたいことは反戦運動との関係とか、世間の空気の問題です。こういうことはいろんな差別に応用できると思う。その時、物を言えなくし、やる気をなくす言葉が、いわゆる「精神訓話」「お説教」「しつけ」「自粛・自己規制・世間体・道徳・修身・教育勅語・戦陣訓」に類する一連のことばや教えなのです。何も「憎悪の思想・激怒のあおり・暴力の扇動」ばかりを闇雲にやりたいのではありません。本音の恥ずかしいこと、弱みを握られること、自分を卑下しなければならなくなるようなこと(ウンコ垂れ流しとかね)、そういうことも、本音をさらけ出し、対等にしゃべれる世間の空気にしたいのです。泣き言を泣き言としてではなく、真実の心の叫びを伝えることとして、あきらめたり泣き寝入りなどをしない、劣等感やコンプレックスとはならないように、どんどん、どこでも、汚く、怒りを持って、しゃべるようにしたい。そのとき、礼儀・節度・道徳・道理・お行儀・まとも・上品・メンツ・ええかっこしい・品行方正・公序良俗・ジコチュー撲滅キャンペーン・ガマン・忍耐・努力・根性・克己奨励・近代の超克・明るい笑顔・元気・快活・天真爛漫・健全者・健康的な精神・健全な肉体・健康優良児・安心安全・治安を乱すな・秩序・規律・おとなしく・おだやかに・冷静に・粛々と・みんななかよく・東洋平和・五族協和・王道楽土・愛と正義・ラブ&ピースなどの「精神訓話」、一見、誰も否定できないきれいごと、とてもいい人、世間の空気、実は、体制維持の支配と服従を固定させ、おのずから好んで精神奴隷になって行くことに喜び満足する極楽トンボの思いやりといたわりと慈悲と慈愛に満ち溢れたかのような無感覚人間の群れ、といったこと、などなどが、まず、カベになるんです。うまく説明できません。ドシロートの未熟者・経験不足もいいとこです。だけど書きます。だから書きます。たとえ、どんなに立派なドートクだとしても、ドートクを強制するのはフドートク。まず、偉い奴らに向かって、こういう言葉を平気でどんどん言える世の中にしなきゃアカンわ。
http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/kakumeika.html
♪ああ千年の昔より カタワとゴクツブシの名によりて
生(なま)暖かき人間の 皮をはがれて内臓の
尊き魂うばわれて 暗いみじめな人生を
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◇「障害受容」の不快さ、不可解さについて(田島明子・作業療法士) http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/ronbun1.htm
「障害受容」という言葉が、その人に在る「障害」にまつわる感情、価値・意味づけをまったく尊重しておらず、しかも、支援する側の恣意が内在してしまっていることにある。対象化されたある現象としての「障害」と、その人が自らの身体に宿す感覚から生まれる「障害」は、同一のものではない。それは、それを有しない人にとっては測り知れないものとして、有する人に抜き差し難く在ってしまっている。にもかかわらず、この言葉は、そうした個別的で独特の経験を、正常や標準からの不足や欠落、回復や補いが期待されるものとしての「障害」に規格化してしまう。しかも「障害」を「受容」するということは、「障害」を有する人にしてみれば、そのように読み替えられた「障害」として、さらにそれを「受容」することを要請されることになる。つまりこの言葉は、「障害」にまつわる多様な言説を淘汰する力を内在していると同時に、否定的に価値付与された規格化された「障害」についての言説を再生産する力も内在しているのである。だから「支援する人」は、この言葉を用いることで、「支援される人」の「障害」を自己コントロールする力を奪い、力の優位性を増し、自己の正当化に成功する。
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★そして、もう一度――
「ベルナールさんの[YUJI*STORY けーじ板]への意見」より。
http://bbs12.otd.co.jp/yuji_story/bbs_plain?base=1831&range=1
…現在の日本社会を覆っているおそるべき非寛容とシニシズムは、新自由主義経済の
市場原理によって自己の経済的・社会的境位を脅かされている大衆の不安のあらわれ
であり、弱者への非寛容と権力への自発的隷属は、その不安の深さに比例して熱狂の
度を増します。…『心のノート』に見られるような心理主義的道徳論が教育の現場を
席巻しいるのは、巧妙に仕組まれた瞞着装置です。権力と社会的な諸関係が貫く
「場」である人間を心理主義的なまとまりととらえることは、社会的事象を方法論を
もって論理的にとらえる能力を阻害してしまいます。人間的営為のすべてが、まさに
道徳や心構えの問題に、つまりミクロ化された個人の「自己責任」との関連で語られ
てしまう欺瞞がここにあるわけです。小泉政権が世論をそこに誘導しようとした「自
己責任」なる語が、経済の領域から道徳の領域に移し替えられた言葉であることに注
意して下さい。…ココロ主義、道徳論、文化特殊論等によって、社会的矛盾や抗争性
を死角に置く欺瞞装置は、至る所に張り巡らされています。「みなさん、『思いや
り』を持つことは良いことですか?」という問いに、小学生よろしく「は〜い、良い
ことで〜す」と従順さを発揮し、政治的・経済的出来事を読み解くグリッドと方法論
を持たず、たやすく社会的操作の対象になってくる「愚民」を量産することは、保守
政権の盤石にとって、はなはだ都合が良いことなのです。
(…)は省略箇所。(全文は上記 Uniform Resource Locator)
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THE UNTOUCHABLES EPILOG
(※2人の足ポリオの男の物語でした。ラッセル・シールドは、おろかな悪人だと切り捨てるのは簡単ですが、彼の気持ちの折々の動きが痛いほどよくわかる。世間の目と自己の自尊心、そこに付け込む暗黒街の帝王たち。しかし、一方のルーズベルトが障害者の模範と言えるのか?自身は体が不自由でもまわりをあやつって、どっちが多く人を殺させたのか?またこのころ、ヘレン・ケラーは政治運動も恋愛も止められ、日本訪問を慈善事業と傷痍軍人慰問のような感じで利用されたり、チャップリンの映画にも出たりするが、ルーズベルト夫人へ戦争反対の手紙は送っている。どんな人間も、うわべの伝えられていることだけで紋切り型に判断はできない。そこには人間のドロドロした心のナマの生き様があるのだ。そんなことはみんなわかっているのに、そこを語るのを極端に避け、きれいごとか、ちからづくかでの解決をしようという者ばかりなのだ。私は嫌われいじめられながら、怒りまくって生意気な反戦・福祉活動を組織・団体に頼らずにひとりでしていくのだ。弱い側の立場になれとよく言われるが、弱い者を強くしたり、清く正しく美しくさせることではなく、ましてや世の中はこんなものと居直って世渡り上手にするのでもなく、そのドロドロの歪んだ捻じ曲がったひねた心の闇の世界へと突入し実感しそれが作り出している世間のタブーを変える行動を社会と政治と経済の権力と世間の空気に向かって反骨抵抗の怒りのこもった直接行動をしていくことだ。暗黒街の帝王も、表の帝王も、世間の空気をうまく操作し逆用する。世間も自ら率先しその方向へと進んでゆく。ドロドロを避けてはならない。人間はドロドロなのが当たり前。清く正しく美しい人間など、この世にたったのひとりたりともおりません。汚い醜い見苦しいことほど、それこそを、積極的に表に自ら出せなければならない。きれいなことを出す必要はまったくありません。それは出すだけで、きれいではない者をいじめ、おとしめ、否定し、汚いことを隠させることになるのだ。何度でも書く。愛と正義を否定せよ。怒りを否定するな。怒って怒って怒りまくれ!)
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1911年(明治44年)6月15日(木)、東京にて。
★「はてしなき議論の後」 石川啄木
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/takuboku02.html
われらの且つ読み、且つ議論を闘わすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。
われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。
此処にあつまれる者は皆青年なり、
常に世に新しきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。
ああ蝋燭はすでに三度も取り代えられ、
飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。
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――100年も前でもポストモダン???
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【♪エンディング・ミュージック】
♪◆◆聞け万国の障害者、汝の価値に目醒むべし◆◆(メーデー歌)
http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/kike.html
【作詞】大場勇 【作曲】栗林宇一 【障害者・替え歌】手ポリオ近藤
1.聞け万国の障害者 とどろきわたるメーデーの
車いすの足どりと 手話でつぐる鬨(とき)の声
2.汝の部署を放棄せよ 汝の価値に目醒むべし
全一生の休業は 社会の虚偽をうつものぞ
3.永き差別に悩みたる 障害ある民(たみ)決起せよ
今や廿四時間の 反戦運動来たりたり
4.起て障害者奮い起て 奪い去られし尊厳を
障害の手で取り返せ 彼らの力何物ぞ
5.われらが歩武の先頭に 掲げられたる赤旗を
守れメーデー障害者 守れメーデー障害者
万国の障害者よ、団結せよ! オーッ!
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これだとメーデーの日だけだから「メーデー」のところを、何かに変えるべし。
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<ジス・プログラム・ハズ・ビーン・プロデュースト・バイ・ザ・デジー・アーネス・アンド・ルシール・ボール・プロダクション,イン・アソシエイション・ウィズ・ABCテレビジョン・ネットワーク> http://timstvshowcase.com/untouch.html
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<プリーズ・スタンバイ,ステイ・テューン>
♪グッナイ・スウィート・ハート,ゾー・アイム・ノット・ビサイド・ユー・・・
http://www.niehs.nih.gov/kids/lyrics/goodnight.htm (1931)
(ザ・シティー・オン・ジ・エッジ・オブ・フォーレバー http://www.startrek.cz/dily.php3?y=28 )