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『霊感者スウェデンボルグ』にみる幻覚の心霊的解釈
2004年12月11日
「幻聴が聞こえたら」より
http://www.geocities.jp/ec71276/gennchou/
今回は、ウィルソン・ヴァン・デュセン[著]今村光一[訳]『霊感者スウェデンボルグ〜その心理学的・心霊学的研究〜』サンマーク出版、を教材として、幻覚を中心とした現象を見ていきたいと思います。
18世紀のスウェーデンに、哲学者のカントや国際的禅学者の鈴木大拙師らが賞賛・傾倒したエマニュエル・スウェンデンボルグという方がいました。彼は、アリストテレス、レオナルド・ダ・ヴィンチをしのぐ巨人と称されますが、若い頃は非常に実際的なことに興味を持っており、初期の科学上の論文だけで150稿以上が発表されています。その後、物資の世界から人間の体へ、そして心の世界、と外から中への興味の変遷をたどっていくのですが。
彼は、自分の夢や心の内部体験を意図的に記録しはじめるという方法によって、心霊的な世界に入って行きます。そして、その後の生涯をこの「もう一つの世界」と、それを支配する摂理の探求に捧げたのです。その著書を、精神科医であるウィルソン・ヴァン・デュセンが現代心理学的手法などを用いて解読・解説したものが本書にあたります。
著者の「幻覚の世界」との出会い
(本書より)霊との関わり合いは普通人間に理解されることはないが、ある種の精神病の中では意識されることがあるようだ。精神科医として精神病患者を16年間詳しく診てきたが、ある切っ掛けから患者の幻覚の正体を詳しくかつ正確に知ることが出来るようになった。
特に協力的だった一人の女性患者がいて、私は彼女の幻覚に出てくる人間と直接話してみることができることになった。そして私はそうしてみた、すると彼女は私の問いに対し、彼ら幻覚の人物たちの言葉ですぐに答えたのだった。わたしは幻覚の世界という、内なる世界の豊かさに戸惑わざるをえなかった。
この場合は、精神科医である著者が患者に話しかけ、幻覚に出てくる人間と対話したわけです。幻覚の人物は、解離性同一性障害(DID)における他人格であり、心霊的には霊魂であると解釈することができます。なお、霊能者は、患者にとりつく憑依霊を霊媒に憑依させるという方法により、対話をすることができます。
Ex: 解離性同一性障害(DID)
多重人格障害と呼ばれていたが、DSM-IVで解離性同一性障害という診断名が採用された。1980年代から米国を中心に研究が進み、報告例が急増した。近年の報告では、多数の人格の症状が見られる。人格の交代は突然起こり、言葉つきや態度まで変わる。幼い人格、敵対する人格など様々で、主人格は他の人格の記憶を持たないことが多い。従って、日常生活に記憶が欠落した時間を体験することになる。背景には、幼児期の虐待がある。例えば、性的虐待を受けている自分を他の場所から眺めるような体験を解離と呼ぶが、このような働きが、どう障害の成り立ちに関連していると考えられている。(朝日現代用語・知恵蔵2004より)
自分と幻覚との区別
私は、自分自身の考えと、頭の中で話されている言葉や彼らの目だけに見えている者とが区別できるような患者を探しはじめた。重症の患者の場合は、自分自身と幻覚を区別できない者が多い。自我が自分の外部のものとオーバー・ラップしてしまって区別する境界がはっきりしないためである。
幻覚と現実が区別できないということは、私の体験でいうところの、幻聴が聞こえだして道ですれ違う通行人が自分に対して悪口を言っているように感じ始めた場面において、@本当に悪口を言われていると感じる、Aそれがタイミングの良い幻聴であり通行人と無関係であると気づく、の@の状態であると考えることができます。私の場合はAでしたが、その幻覚の声がとても攻撃的であったために、非常に病的な状態であったと感じています。
頭の内部から、ただ音楽(幻聴)が聞こえる、声が聞こえる、そういう状態は統合失調症ではないそうです。しかし、脳内に何らかの変化が起き、幻覚の世界(霊の世界)とつながってしまっている状態なのではないのでしょうか。それに対して、本当は違うのに、人に悪口を言われていると信じてしまうような場合は、統合失調症である可能性が高いとのことです。見極めは、それが幻覚(幻聴)であると認識できるかどうか。そして、被害的なニュアンスがあるかどうかも関係してくるとのことです。私の場合は、幻覚と認識することができましたが、非常に被害的なニュアンスの強いものでした。
幻覚の世界は一つか
別の患者がそれぞれ別に報告するものの場合では、今の点でびっくりするような同一の性質を持っていた。精神分裂病患者、アルコール依存症患者、脳に外傷を負った患者、老人性痴呆症患者にはいくらかの違いはあったにせよ、その違いよりは似ている点の方がはるかに目立った。
私が最初の頃にすでに強く印象づけられたのは、患者たちが話してくれる内容がどれもあまりによく似ているということだった。患者同士はお互いのことを知っていないのにそうなるのだった。また、聖書の中でもいくらかは憑依のことにふれられているが、それとの類似も私には印象的であった。つまり、患者たちは、人間が昔から体験してきたのと全く同じような体験をしているのだといってよさそうなのだ。
多くの患者に共通していることは、彼らが自分たちにはもう一つの世界、あるいはもう一つの別世界の人間と接触を持っているのだと感じていることだった。そしてどの患者もこれら幻覚の中の人物たちを生きた人間と考えていた。全員が幻覚といういい方には抵抗し、否定した。
体験が似ているということは、幻覚の世界、つまり「私が現在生きているこの世界」とは別の世界があり、何らかの原因によりその世界とつながってしまった人は、皆その同じ世界を見てくるからだ、と考えることができます。そして、その世界と接点をもった多くの患者は、その世界の人物を生きた人間であると感じたということは、つまり、個性を持った人がそこにいたのだ、と考えることができます。
私も、今まで読んできた著書の中で表現される霊的世界には似たものが多く、また、私の体験と似た体験をされた方も数多くいらっしゃることに驚くとともに、やはり一つの「霊的世界」があり、その世界につながった人々は、別の角度から同じ世界を見てくるのではないかと感じています。
患者を騙す幻覚
ほとんどの患者の場合、幻覚は突然やってくるのだった。ある女性患者は、庭で仕事をしているときに姿の見えない男が話しかけてきた。ある男の患者はバスに乗っていたときに大きな物音と人の声が突如聞こえてきたという。みなこれに面食らって驚き、こういう初めての体験にちゃんと対処することができないのだった。
彼らが語る体験は、彼らの幻想や頭の中の考えなどには似ていなくて、目に見える場合には完全に現実のものとして見えるのだった。
例えば一人の患者はある夜、空軍当局の役人たちに起こされた体験をこんな風に話している。役人は彼をお国のために働かせるためにやって来たのだという。彼は起きて服を着はじめたが、そのとき、役人たちが付けているバッジが変なのに気づいた。すると役人だった顔が変わった。それで患者は役人だと思っていたものが、"謎の奴ら"だということがわかり、そのうちの一人の顔を殴りつけてやった。だが、患者は壁を叩いて自分の手にけがをした。彼はバッジがおかしいのに気づくまで、それは現実のことと区別できなかったといっている。ほとんどの患者は、自分が体験しているものがほかの人には体験されていないことを知っているので、自分の体験を他人に話さない。しかし、彼らは周囲の誰もが気づかない声によって、何年にもわたってばかにされたり、おどされたり、攻撃されて苦しんでいる。
幻覚の人物が目に見えており話をすることもできるということは、患者が幻視・幻聴の両方を体験しているということになります。そして、それを幻覚だと認識できていないということは、現実世界と幻覚の世界の区別ができないということになります。私の場合は、受験勉強中にドアを叩かれるという現象があり、それが人間のしたことか、幻覚の世界の人物がしたことなのか、区別することができませんでした。なお、麻薬の常用によって幻覚体験をする者も多くいるようです。
低次元の声による攻撃
患者との対話で、私は声に高低二種類の性格があることを知った。低次元の声はバーで酔っぱらって騒いでいる酒癖の悪い酔っぱらいみたいで、他人をからかい、いたぶったりして喜んでいるものである。彼らはみだらなことをいい、患者にはおまえはそんなことを考えていると言って非難したりする。彼らは人間の意識の弱点を見つけ、あきもせずそこをつつく。たとえばある男の患者は、三年間にわたって、もう返した10セントの借金のことで声にいじめられた。声は患者をそれとわかる名前で呼び、みだらな行為を指示したり死をもっておどしたりし、患者の記憶や考えの中にあることにかこつけたりして患者に本当だと思わせたりする。
たとえば明日の朝にはある災難をしでかしてやると自慢したり、新聞に載っているある事件は自分がやったのだと自慢してみせたりする。声はばかばかしいこと、たとえば手を上げていつまでもそのままにしていろと命令し、そうしていれば今度は何をばかなことをしているのだとからかい、しなければしないといっておどす、という具合である。
もっとも耐えられないのは、いつも数十の声に耳元で大声で叫ばれ続けているケースで、こうなると患者は狂乱状態になり鎮静剤を与えなければならなくなる。
彼らはどうしても患者の人格を破壊しないではおかないというしつこさをもっている。彼らは患者のプライバシーのすみずみにまで進入し、その弱さや信念に働きかけ、恐ろしい力を自分はもっているのだとおどし、うそをつき、約束をしたりして患者の意志を打ち砕いていく。声の質も変えたり、使い分けたりして患者を混乱させ、誰がしゃべっているのかわからなくする。その声が患者が知っている誰かだとわかったりすると、彼らはそれを完全にまねて使ったりする。
低次元の声による攻撃は私も経験したのですが、医学的には、この状態がひどい場合に統合失調症と解釈されることが多いようです。そして、この幻覚の声は心霊的には憑依霊・低級霊と解釈されています。つまりレベルが低く良くない類の霊魂だということです。解釈はともかく、何らかの原因により自分を守る術を知らぬまま、このような声と関わり合いになってしまうと、私のように大変な目にあってしまうことは間違いありません。
苦しめられることによる精算
私は、高い次元の声が、低次元の連中の狙いはその人間の弱点を洗いざらい本人に見せてやることなのだというのを聞いたことがある。彼はこれをまことに巧みに、かつ辛抱強くやり抜くのだ。もっと悪いことには、彼は患者たちに約束したり、いかにも親切そうな調子の助言を与えたりすることがあるが、これもみな、実は患者の弱点を暴くいたずらなのだ。
低次元な声(低級霊・憑依霊)との関わりが、本人にとってプラスになる場合もある、と私は考えています。
私の場合は、その声から逃れたい思い一生懸命に解決を探ったということ、そして、今まで低俗なことばかり考えてきたが、それでは低次元の霊に感応してしまうので、少しずつでも高潔な人間になっていこうと考えたことです。つまり、自分の心境、つまり、心持ちが低いこと、無知・無教養であることが声に悩まされる原因の一つだと気づくことにより、もっと高潔な、そして教養のある人間になろうと努力するようになった、ということです。
そして、このような霊による攻撃により、自分のしてきたことを否応なしに精算させられている場合もあるのではないか、と現在の私は考えています。私の場合も、今まで生きてきた中でしてしまった過ち、生まれる前にしてしまった過ち、の精算をさせられたのではないかと感じているということです。
生まれてきてから「これは不公平じゃないか。この世の中は不公平だらけだ。」と感じることがあります。しかし、魂は生まれる前からずっと続いているし現在の人生が終わった後も続く、と考えてみると、全部ひっくるめて考えてみると、案外不公平なことはないのかもしれません。しかし、現在、実際に幻覚に苦しまれている方々には、到底受け入れられない考え方かもしれませんが。
低次元の声となるための条件
低次元の連中の使う言葉や彼らの考えの幅はびっくりするくらいせまい。ごく少数の考えだけがいつまでも繰り返し語られるのだ。ある女性患者が声を聞いていた人物と私が話したときのこと、この人物はエンジニアだというのだが、彼は患者にできるような簡単な足し算やかけ算すらできないのであった。
低次元の声たちは、論理的な思考などまるでできないように見える。ある遠い都市にいる、という声などでも、彼らは患者がその都市について知っている以上は何もいえない。
彼ら低次元の者たちは、患者の心のうちのいちばん低いレベルのところに閉じこめられているもののように思われる。そして、彼ら個人の世界をもっているとか、高い次元の思考や体験を持っていることをうかがわせる証拠は何も示せない。低次元の者たちはみな、宗教的に不信か反宗教的かである。
幻覚の人物が、かなりしばしば「自分はキリストだ」といい張ることがある。しかし、自慢たらたらだったり、口論を吹っかける調子の話し方の場合がほとんどなので、たいてい低次元の連中だということがばれてしまう。
宗教的に不信心・反宗教的であることが、低次元の声(憑依霊・低級霊)となることの条件のようです。ということは、信仰心がなかったり反宗教的である人、つまり、本当に信仰心がある人にはできないことをしているような人は、死後に高い境地の霊の恩恵を受けることができずに、低次元な世界にとどまり続け低級霊となる、というルートを辿ると考えることができます。これは信仰心が薄いといわれる日本に住んでいる自分としては、非常に気になるところです。
また、幻聴の声の言葉や考えの幅は狭く、大人物を装うという特徴を持ってします。このことから、低次元の声は、生きている人間を苦しめる・罪の精算をさせるために誂えられた、霊的な道具のような役割を果たしていると考えることもできます。
幻聴の聞こえ方
天使や霊が人間と話をするときには、その声は人間と人間とが話しているみたいにはっきりと聞こえる。しかし、それは自分のわきにいる人間と話しているのではなくて自分自身と話しているみたいなのだ。これは天使や霊の話はまずはじめに人間の考えの中に流れ込み、彼の聴覚器官には内側から達し、耳にはそれが内側から聞こえるためである。
これは、聴覚器官の外から声が届くのではなく、脳の内側からテレパシーのように声が届くということです。私の体験のように、それははっきりと聞こえます。そして、脳内からの声と実際に人から話しかけられ聞こえる外からの声との間には差異があり、その差異に気づき区別することができれば幻聴と肉声を区別することができる、ということになります。
境界の取り払われ方
霊と人間の間の境界がどのようにして取り払われてしまうのかは、はっきりしない。スウェデンボルグ自身の場合は、精神の集中とかトランス状態に陥るとかいったやり方を自分からやっていたのだった。彼は、そうして得た体験を主からの特別な恵みだと考えていた。彼はこんな体験の中で、ほかの人々と同様に悪い霊に苦しめられる一方で、その害からも守られていた。
私の場合は、気功を主な原因として霊と人間の間の境界が取り払われたようです。腹部に気持ちを集中しないといけないところを、おでこに集中して気功をしまったことが多々ありました。だから、結局、自分で招いた出来事であったともいえます。なお、他にも荒行をされたりと、様々な方法により境界は取り除かれるようです。
社会的活動・慈善行為の効果
精神病患者などを観察した結果からいえるのは、役に立つ社会的活動、慈善行為などをすることは分裂病を防ぐのにかなり効果がありそうだということである。
スウェデンボルグは悪い霊は良心も破壊しようとするといっているが、彼らは常に高い価値に逆らおうとするものらしい。彼らが、読書とか宗教的行為を妨害しようとするのもその一例である。
慈善行為などは分裂症を防ぐのに効果がありそうだ、というのは、その行為が患者の心境・心持ちを高くすることに役立っているからなのではないでしょうか。優しい心、他者への思いやり、読書、信仰(カルト宗教は違います)、というものは精神的な安定に役立つように感じます。
霊の声に対する対処法
霊が人間に向かって話し始めたら、人間は彼らのいうことは信じないようにしないといけない。彼らは何でもいうが、彼らはみな勝手に作り上げたことばかりいううそつきだからだ。彼らは天国について話し、そこがどんなところかなどしゃべりまくるが、それはうそばかりで、しもかもったいぶっていかにも重々しく話したりするので、人間の方は度肝を抜かれてしまうほどである。……彼らはでっち上げが大好きで、ちょっとでも話のとっかかりを与えるとそれについてああだ、こうだと自分の意見をあたかもよく知っているのごとくにしゃべりまくって、やむことがなくなる。しかも、あるときはああいうといった具合で、もし人間が耳を傾けたり、それを信じたりでもすれば、彼はしつこく迫り、だまして、とんでもない方向へ人間を誘惑していっていってしまう。(『霊界日記』1622)
多くの患者はいまのような事には気づいてはいる。しかし、それでも声に信をおいたり、声にとらわれたりし続けるのだ。
私も、霊能者の先生に「低級霊の声に耳を傾けてはいけない。」と教えられました。しかし、私の場合は、あまりにも霊と深くつながってしまったのか、無視してもいつまでも幻聴が聞こえてきます。このような状態が続いたので、私は考え方を変え、この霊を教育してしまおうと考えました。声が聞こえても無視して、読書に没頭したのです。様々な分野の本を読みましたが、幻聴の苦しみがひどかった時期には、特に心霊的な本を多く読みました。そして、この霊に聞かせてあげるように読んだのを憶えています。しかし、この方法は、一般的には良くないやり方であったかもしれません。
憑依霊の野望
多くの声は、自分は世界を我がものにできるのだとか、もうそうしているのだとかいったことをいう。こういう大ぼらには、スウェンデンボルグもまた気づいていた。(『霊界日記』4476)。私は低次元の声に、あんたの本当の狙いは何なのだ、と尋ねてみたことがある。すると彼は言下に「闘い、しぼり取り、世界を征服することだ」と答えたものである。彼は患者に奇妙な行動を支持したり強制したりする。そしてその命令に従って行動すると、こんどは「おまえは変なことをした」といって非難する。
仮に肉体を持っていても、低俗な嫌がらせ等でメンバーを増やし、いじめの原理で管理・支配する、そして世界征服などを本気に考えている、そのような組織はあるようです。そのような組織に所属し熱心に活動している方々は、生きながらにして憑依霊のような人生を送ってはいないでしょうか。少なくとも、高い境地に至る本当の信仰心とは無縁だということに気づくことです。そうすれば、新しい世界が拓けてきます。
悪事は悪い霊の仕業か
人間は自分では虚偽や悪事をするものではない。それは人間と一緒にいる悪い霊の仕業で、彼らは同時にそれを人間が自分自身でしているのだと思い込ませる。これが彼らの悪意の正体で、更にひどい場合には彼らはいっそう人間をけしかけ、しかもそうさせたり、信じ込ませておいたうえに、そのことに関して人間を集め、非難するのだ。これは私には多くの経験によってはっきりと断言できる。(『天国の秘儀』761)
このことから、人が憑依霊に憑かれている状態は、解離性同一性障害の状態に近いのだと考えることができます。解離性同一性障害では他の人格に、時々肉体を乗っ取られて、その人格にそった行動を取られるわけです。そして、元の人格が肉体に戻った際、「私はこんなことはしていない。」と驚き、問題になるわけです。その他の人格の一人が、非常に心境の低い人格であったケースが、統合失調症と解釈されるケースなのではないのでしょうか。解離性同一性障害においては、多くの場合、主たる人格の心配をしてくれる人格もいます。しかし、もう人間(主人格)を苦しめることだけに没頭している人格があれば、それは憑依霊のような存在だと考えることができるわけです。
ex: 「サムの息子」事件
1970年代にアメリカで発生した連続殺人事件。その犯人David Berkowitzは、異常な「幻聴」を事件前に聞いていた事が知られています。
信仰心のない低次元の霊
もし声が患者の心の奥底のある無意識の世界からやってくるものだとするならば、声が奇妙なほどに反宗教的だった、逆に信心深かったりす理由は私にはわからない。そればかりか、低次元の声は少しでも宗教のことをいうと、もっとも口汚くそれに反撃するのである。スウェデンボルグも、彼らは死後の世の否定にはもっとも熱心で、神や宗教的行為には猛烈に反対すると書いている(『天国の秘儀』)。
反宗教的であったり、信仰心がないと、無くなった後に世界があるということがわからないわけです。そうすると、高い霊の霊的な助け船に気づくことなく、憑依霊になってしまうのではないでしょうか。
自分の人格を持つ他人格たち
もう一つ奇妙に思われる現象は、彼らがどこか患者自身の体験や範囲に縛り付けられ、その中にだけ閉じこめられてしまっているように思われることで、これもスウェデンボルグは指摘している(『天国の秘儀』796)。低次元の声は高次元の者のように論理立てたり、抽象的な考えをもったりすることができない。また、彼らは患者自身の記憶の範囲からは外に出られないように見える。たとえば、声は患者を攻撃するにしても、それは患者が思い出せることの範囲でしかできない。そして患者のしたよくない行為を攻撃材料にすることにいちばん熱心なのだスウェデンボルグも、あるクラスの霊は人間の記憶に縛りつけられているといった(『天国と地獄』292,298)。
これは、患者の記憶の範囲にだけ縛りつけられ、理論的な思考や抽象的な思考ができず、したがって極端に同じ事ばかりをくり返すという、彼らの特徴を性格に指摘したものであろう。
低次元の霊は、人間の記憶の中に侵入してくると自分の記憶は失ってしまう。彼らの個人的な記憶は死とともに失われ、もっと内部的な記憶だけが残る。ただ、彼らは自分が憑依などをさせてくれた人間とは別の人間だということには気がつき、それ故に別人だと主張し、それを相手の人間に信じさせようとする。だが、彼らが自分の個人的記憶を失ってしまうのは、患者の記憶を借用してしまうために起こる現象のようだ。
これは、憑依霊は肉体を失い、他の肉体に間借りし出すことにより、自分の記憶を失っているということですが、にも関わらず「俺は違うぞ。俺は俺だ。」と、自分の人格を主張して主人格である患者を苦しめるということです。私の場合も、私と意志を通じることがわかった幻聴の声は、激しく自己主張してきました。それに激しい頭痛が伴ったものでかなり大変だったのですが、そのような幻聴の声は、解離性同一性障害における他人格の中でも特にルールをわきまえていない、無法者だということがいえます。解離性同一性障害における他の人格は、主たる自分の人格が傷つき・弱っているときに表面化し肉体を操るケースが非常に多いのです。そして、肉体を持っていないだけで、人間に様々な性格の人間がいるように、様々な個性を持った他人格がいるのです。
肉体を持ちながらにして、憑依霊のように生きるということ
一人の女性患者は自分に憑依した男の霊との性交について話していたが、それは普通の性交よりも快楽が強く、より深いものだといっていた。スウェデンボルグは、愛着や感情の中に入り込んでくる者は肉体のどこにでも同様に入ってくることを明らかにした。そして、このような微妙で気づかれない形の憑依は、単に声で話すといったものより強力で、影響を受けた精神病患者の気持ちを深刻に変えてしまうといっている(『霊界日記』5981)。
インターネット上に、「たのしい体○離脱」というホームページがあります。そして、そこの管理人は体外離脱する方法を見つけたそうで、その体験などを書いて掲載しています。しかし、彼は「非常に危険なことをしている。」というのが、私の率直な感想です。この管理人は、体外離脱をした上で、女性を襲いレイプして楽しんでいるのです。彼は、体外離脱した上でのセックスは実際のものより気持ちがいいと書いています。そして、「幻覚」だから問題がない、とも書いています。しかし、本書における女性患者も、憑依霊との性交は普通の性交よりも快楽が強く、気持ちがいいと書いているのです。
これは、どういうことなのでしょうか。快楽が強いのは、片方、あるいは両方の人格が、相手の感情の中にまで入り込んでいるからだと考えることができます。つまり、彼は「幻覚」の女性を襲ったのではなく、肉体を持たない女性の霊、あるいは生きた女性をレイプした、危険性があるということです。この管理人の行為は、まさに「肉体を持った憑依霊」であるがごとく低俗な行為なのではないでしょうか。こういった行為の被害にあった女性がいたとして、何ら法的に対処することができない現状に、現代社会が霊的な現象を否定して成り立っていることからくる弊害を感じます。多くないことを信じたいですが、そういうケースもあり得るということです。
ex: 「たのしい体外○脱」の項目「★★最大の楽しみ★★ 」より
「体外離脱が幻覚なら何をしてもいいんだ!」と考えた私が次にしたことは、「幻覚」の女性を襲って無理矢理エッチすることだった。 現実世界では人権やモラルを考えれば絶対してはならない行為だが、「幻覚」の中なら誰からも非難されることはない。私は体外離脱をするたびに、道路を歩いている女性や、知らない家の中の女性を襲い始めた。 「幻覚」といえども襲われた女性は激しく暴れて抵抗する。その際、殴られたり蹴られたりする感覚もあるし(痛くはない)、手でブラウスを引き裂く感覚や、ショーツを降ろす時のゴムの伸びる感覚まである。そして女性たちは一様に恐怖と屈辱と侮蔑のまなざしを私に投げつけるのである。 ところで、私が女性を襲うのは、現実では絶対にできない行為が楽しいということもあったが、最も大きな理由は別にあった。じつは体外離脱中のSEXは、現実のSEXなどカスに思えるほど気持ちがいいのである。
高い次元の霊の存在
スウェデンボルグのいい方では、人間を助けにやってくる霊は天使と呼ばれている。彼らは内なる心の中にいて言葉をもって考えることはせず、すべてのものを一つに総合する普遍的の中で考えるのだ、と彼はいう(『天国の秘儀』5614)。
天使のしゃべる言葉は知恵に満ちている。なぜなら、彼らの内なる考えから発しているものだからだ。彼らの内なる考えは知恵で、内なる感情は愛情である。そして愛情と知恵が一つになって言葉になっている。だかれ彼らの言葉は知恵に満ち、彼らは一語をもって人間が数千語を持っていい表せるようなことを表現できる。
一人の患者はまっ白で輝くような衣服をまとって力強い姿で現れる一人の高い次元の霊のことを語っている。この人物は患者の魂に直接話しかけ、彼が陥っている地獄から救い出してくれようとしたという。スウェデンボルグは、天使から流れ出るものは人を静かに善に導くものであり、人間の自由は尊重してくれると書いている(『天国の秘儀』6205)。
私は一人の患者に、高い次元の幻覚にびっくりしていないでそれともっと仲良くなれ、と促したことがあった。そして患者がそうしてみたところ、高い次元の幻覚は患者に入り込んできて、数ヶ月にわたって患者を殺すとおどし続けていた悪い幻覚は現れなくなったという例がある。
高い次元の霊の存在と、これは非常に興味深い例なのですが、高い次元の幻覚と仲良くなったところ悪い幻覚が現れなくなった、という例のことがふれられています。このことから、高い次元の幻覚(高級霊)が、低く悪い幻覚(憑依霊・低級霊)を患者から追い出してしまった、と解釈することができます。そして、スウェデンボルグは、「悪い霊にはいい霊の姿は見えないが、いい霊には悪い霊のことは見える。」と書くことにより、低い次元の霊より、高い次元の霊の方が優れていることを示しています。
高い次元の霊ですが、私がすぐに想像するのはシルバー・バーチです。私はスタン・バラード[著]『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A―崇高な存在との対話』という本を読んだのですが、シルバー・バーチとは、霊媒のモーリス・バーバネルの口を使って、1920年頃から60年間にわたり霊的教訓を語り続けた古代霊の仮の名だそうです。彼は紀元前3000年ほど前に生きていた方だそうですが、霊媒を通して語られるその話の内容はとても威厳のあるものであり、非常に感銘を受けるとともに、しかられているような気分にもなりました。非常に勉強になる良書であると感じています。
地獄のしきたり
彼自身の気持ち、つまり自分の自由な選択によって地獄にやってくる霊は、そこにやってきたときにはきわめて温かく迎えられる。だから彼は友達のところへきたような気がする。しかし、それは一時のことで、その間に彼は自分の才覚や抜け目なさをテストされるような目にあう。この後ではいろいろな策略を身につけたり、酷薄さや狂暴さを加えていく。これによって彼は内面的にも地獄に招じ入れられ、より深く地獄に入っていくことになる。なぜなら、内面から、より地獄的になり、より深く地獄の住人になるにつれ、霊はいよいよ強く悪意の霊になっていくものだからだ。この後彼は仲間の霊たちにいじめ抜かれるが、それは彼が奴隷として屈服するまで続けられるほどである。
しかし、反逆はつねに続けられるので、どの霊も自分が一番の権力の座につこうと争い、ほかの霊に対する敵意で燃えている。だからいつも闘争が続き、屈服していた者が逃げ出してこんどはほかの霊と組んで相手を屈服させようとしたりして、入れ替わり立ち替わり闘争がくりひろげられる。口では従っても本当は屈服しない者は拷問的にいじめられたりするといったシーンも続き、こんなことがいつまでも続く。こんな闘争や苦役が地獄の姿であり、これが地獄の火と呼ばれている。(『天国と地獄』547)
ここには、憑依霊になるような低級な霊の世界、地獄の世界が描写されています。これらの霊は、統合失調症などの幻覚の原因となるものだと考えることができます。そして、地獄の世界にもルールがあり、そこにきた霊は騙され、いじめられ、より悪質なものになっていくことがわかります。地獄の世界の霊は、つねに権力の座を得ようと争っているようです。
私はこの文章を読み、現実の世界でもこのような世界に身を置いている人々が居るように感じました。そのような人々は、生きながらにして身も心も地獄の霊のように闘争を繰り広げているのではないでしょうか。
そして、私はあるとき、目が醒める直前の夢現(ゆめうつつ)の精神状態の時に、ある場所に連れて行かれたことがあります。そこでは、人々が殺し合いをしていました。特に何もないところで、6〜7人が集まり、それぞれグループを作り棍棒のようなもので相手をたたき殺そうとしているのです。そのような集団が二つも三つもありました。人々の目には生気が無く、表情は蒼白で、闘争を繰り広げています。そして、死人が出ると何人かで抱え上げ、どこかに運んでいました。そこには、同じように殺された者が集められており、死者の山のようになっています。しかし、本当は死んでいないと、その時に私は直感しました。その死者たちも、やがて復活して、また殺し合いに加わるのです。あ、亡者が私の存在に気づいた。怖い。そう感じた時に、目が覚めました。
こういう、半永久的に殺し合いをしている世界に行きたい人がいるのでしょうか。少なくとも、私は遠慮します。
それでは、今回は以上の内容で筆を置かせていただきます。