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【追加】京都学派と出たなら、「近代の超克」なんだそうだ。私は、そういう「常識的」なことも何も知りません。だから調べました。
■京都学派「近代の超克」――雑誌『文学界』誌上座談会・文化総合会議シンポジウム「近代の超克」は、昭和17年初秋、「文学界」グループ、日本浪漫派、京都学派の三派から13人の知識人・文学者たちが集い、大東亜戦争の思想的意義をめぐって討論された。司会者の河上徹太郎は「日本人の血と不様(ぶざま)に体系づけてゐた西洋知性の相克」と総括している。政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克を意味する。2・26事件を起こした陸軍の皇道派・青年将校たちもそのように考えていました。マルクス主義との親和性と転向者多数、侵略戦争の「倫理」化、「日本」型ナショナリズムの哲学化の論理、いかにして天皇制国家秩序を歴史的・道義的に意義づけるか?『聖き統治者』の再発見、「大東亜共栄圏」の秩序原理、「歴史的世界形成」の主体としての日本民族と「国体」論、日本の明治以降の近代化は西欧化でもあったので、…排外的超国家主義的な右翼の運動、天皇主義を掲げ、大陸の侵略に民族の活路を見出す右翼、ヨーロッパ近代を日本原理によって乗り越えねばならない、「八紘一宇」「言論国防体制」「知的協力会議」、三島由紀夫の自決を生んだ耽美的古典主義
・・・のちに1963年『大東亜戦争肯定論』林房雄、1969年三島由紀夫vs東大全共闘、全共闘世代の「近代の超克論」(全共闘運動や三里塚の農民のための闘いと通底する???)【ギョエ〜!】、80年代の日本をも支配した「ポストモダン」の議論・・・そして現代の新自由主義やあの戦争賛美の教科書のような歴史観・・・へとつながる、などと書いてある。【ギエ〜!】
http://www.otsukishoten.co.jp/search/Detail.asp?ID=2978
http://homepage2.nifty.com/tizu/tennousei/tyoukoku@htm.htm
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4572001235/249-5001689-0313133
http://park5.wakwak.com/~asia/japan/choukoku_np.htm
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4786800309.html
http://www.koubunken.co.jp/0075/0063.html
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&q=%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%B6%85%E5%85%8B&meta=cr%3DcountryJP ほか、とても多数より。
【※これは、とても大変なことだ。根が深い「今」の問題だ。教科書問題や天皇制や反戦運動などとワンセットに知らなきゃならないことだ。映画『日本心中』でも指摘されていることとつながる。 http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/968.html 障害者運動にも関係してくる。一見、貧民救済とか倫理とか言ってるから。こんなのに毒される者も多いらしい。ムナクソ悪い。「日本・国」民というワクの中だけで見る、それも蟻・蜂のような社会としての天皇制を絶対視する!『聖き統治者』の再発見などと強い者への他力本願や、弱者救済のつもりになって自発的に使命感を持って集団志向性への服従と犠牲の精神。マルクス主義との親和性と転向者多数、ウゲ〜ッ。だから右も左も通底してしまう者もいるのか。これならゾルゲや尾崎秀実(ほつみ)のほうが、はるかにましだわ。今西進化論とも通じるわ。オーウェルの『1984』などが、元々はソ連批判が今じゃアメリカのネオコンや今の日本の精神的去勢などに当てはまるのと同じ。社会ダーウィニズムと社会ラマルキズムが根っ子は同じということ。優生思想…。怒りが必要だと言っても、こんな方向には行かないように要注意しなくっちゃ。こういうこと自体に怒ってるんだからね。なるほど、これで今、右寄りっぽいのが受けてしまうのか。確かに時代がよく似てる。参考にはなる。でも、こんなの読んでると胃が痛くなり、吐き気をもよおし、腹も下りそう…。でも、ちゃんと反論できるようにならなきゃいけないし、そもそも、こういうことがあったということを、ちゃんと知っておかなきゃ、優生思想との対決もできない。】
◇『京都学派と日本海軍―新史料「大島メモ」をめぐって』PHP新書 大橋良介(著)2001/12
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569619444/249-5001689-0313133
――高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、木村素衞、鈴木成高、宮崎一定、日高第四郎、下村寅太郎、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎、大島康正、等。田辺元や海軍調査課の高木惣吉大佐も時折出席。ゲストには湯川秀樹や柳田謙十郎、谷川哲三や大熊信行、等。昭和十七年(一九四二年)二月から二十年(一九四五年)七月にかけて、田辺元をはじめとする「京都学派」の哲学者たちは、海軍の一部、米内光政系の要請を受け、極秘に会合を重ねていた。当初、戦争回避を目指した会合が、なぜ、のちに軍部協力の指弾を受けるに至るのか。戦時において陸軍と海軍の内部抗争に巻き込まれ、戦後、東京裁判の視点によって抹殺された京都学派の「思想」と「行動」。その真の姿が六十年余りを経て発見された一次史料によって、初めて明らかにされる。当時の京大文学部副手の大島康正が残していたメモが「大島メモ」。
◇『京都学派の思想―種々の像と思想のポテンシャル』大橋良介(編集)人文書院 2004/02
◇《戦時下の文学》――戦線の拡大とともに「国民精神」の振興が政府によって主導され、「非常時」という認識が次第に浸透していった。そしてアジア太平洋戦争が、ある種の解放感をともなって受け止められたことは、多くの記録から窺い知られる。・・・河上徹太郎他『近代の超克』、保田與重郎『近代の終焉』、高坂正顕他『世界史的立場と日本』、田辺茂一編『能動精神パンフレット』、船山信一「近代の超克と科学精神」『科学思潮』第2巻第4号(科学思潮社 1943(昭18)年4月1日)、萩原朔太郎『日本への回帰』 などなど。・・・【※こりゃひでえ!】
http://www.ritsumei.ac.jp/www-lib/lib/j/exhibition/exhibition041101-j.htm
◇『大東亜戦争肯定論』林房雄(もとはマルクス主義者・転向作家)1963年9月号から65年6月号「中央公論」に発表したあと単行本に――「東亜百年戦争」。「自由主義史観研究会」「新しい歴史教科書をつくる会」、日本近代史のある種のアポリア。それに対抗する革新政治家や進歩派歴史学者の歴史認識の「紋切り型」。(『図書新聞』2001.11.10号)「栗原幸夫さんの批評のHP」の批判文より。 http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_5/hayashi.html
◇小倉利丸「『大東亜戦争肯定論』批判」『aala』第98号1995年
◇小倉利丸「現代のレビジョニストは『大東亜戦争肯定論』をどこまで超えたか」天野恵一編著『「自由主義史観」を解読する』社会評論社1997年
◇「栗原幸夫さん【元・ベ平連】の批評のHP」…伊藤晃『日本労働組合評議会の研究―1920年労働運動の光芒』社会評論社 (2001/12) の感想文。実際の大衆の日常生活における天皇制と闘うとはどういうことか。レーニンの階級意識外部注入論ではなくて、天皇制民族社会の中では、人々の自由とか民主主義とか、あるいは人権とか、そういうものに対する目覚めが、さまざまな階層、さまざまな職業、ジェンダー、エスニシティー、そういう違いの中で、さまざまな形での目覚めがあるんだ。それを一つにいきなり統合してしまうことはできないはずだ。であるとすれば、そういうさまざまな目覚めをどのように接合していくかということが、労働運動にとっての一番大きな課題だったんじゃないか、しかもそれだけが天皇制民族社会の中でのさまざまな目覚めを結集することのできる運動形態だったと、伊藤さんは一貫して述べておられます。…アナキスト系の自由連合論、サンジカリズム系統の労働運動…(『運動〈経験〉』6号、2002.夏) http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_4/ito.html
◇ほかに http://www.geocities.jp/minseikamigyo/gakushu18.html
◇『「近代の超克」論―昭和思想史への一視角』広松渉(著)1982朝日出版社 のち1989/11講談社学術文庫【※わーお、ブントだ。しかし、こりゃアカン。】
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061589008/ref=pd_sim_dp_4/249-5001689-0313133
◇荒岱介(2004.5.15) http://www.bund.org/editorial/20040515-2.htm 【※これもヤダわ。】
◇『近代の超克』花田清輝(アヴァンギャルドの仕掛人)、未来社1959年 http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_2/bungakushi/moralist.html (戦争中の「生き方」。革命のなかにあるピラミッド型の権力構造を温存させ強化する結果にしかならないと厳しく批判したのが埴谷雄高であった。)/『近代の超克』竹内好、筑摩書房(初出1959)1983 2002.10/沖野厚太郎「ベンヤミンと保田与重郎――映画『日本心中』をめぐる断想」―「文芸と批評」(文芸と批評の会) 2002年11月
★《無党派運動の思想》(3)天野恵一『無党派運動の思想――[共産主義と暴力]再考』を読んで――吉川勇一(市民の意見30の会・東京)〜alternative
autonomous lane No.16 1999.5.25 http://www.shonan.ne.jp/~kuri/aala/aala_16.html#Anchor345727
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【※手ポリオのたわごと】
…私にはむずかしすぎて、よくわからんが、戦争協力を隠し戦後は民主主義へ迎合するこんな京都学派の知識人などの言い訳なんぞ、信じない。天皇制にへばりつき、戦争に加担をしたのなら、途中からは敗戦の処理を進言しようとも、ちゃんと謝罪すべきはしてもらわなきゃいかんぞな。だいたい、弱者のためになると思い込んで使命感に燃えたとしても、アジアの被害者や日本の末端の弱者・障害者などの気持ちのところから見なアカン。それは過去だけでなく現代の身近にいるそういう人たちの問題として今に通じることだ。うわべの目先の対策ではなく、障害者などの気持ちを去勢せず、気兼ね・遠慮・顔色伺いなどせずとも、堂々と生きられる世の中にせなアカン。つまり、次のことと、関係あるはず。
★1970年7月7日 華青闘(華僑青年闘争委員会)が、新左翼批判。
東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の「盧溝橋33周年集会」で、華青闘が新左翼批判。
在日中国人・朝鮮人青年達が全共闘の集会の趣旨の69年入管体制粉砕闘争と65年日韓闘争を、
日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったとして大批判。ついでに日共六全協も。
しかし、当時の反対の柱はあくまで「日本は戦争に巻き込まれるな」だった。【※――今も】
http://konansoft.com/zenrin/html/huajingtou77.htm http://www.chunichi.co.jp/anpo/
一人の男が壇上から八千人の学生らに叫んだ。通名・猪八戒。
「われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。
われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。
実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。
われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。」
――これは、なんとなくわかる。これは、障害者問題やいろんな差別問題にも共通すること。金満里さんなら、もっとよくわかるはず。障害者で在日朝鮮人だから。昔の青い芝の人ならもっとわかるはず。障害者を非国民呼ばわりし見捨てて抹殺して、お国の繁栄だの、日本のアイデンティティーだの、西洋的な近代を「超えて克服」(超克)だの、東洋平和だの、世界平和だの、われら障害者が断じて認めません!。それから、優生思想を否定すること!。「超えて克服」などということが、そもそもいかがわしい。超えないし克服などしない。がんばらない、努力などしない、一生懸命にならない。勝ち負け、強い弱い、優劣、そういう基準で考えないやり方の世の中にすること。それにしても、現在の京都大学の「京都学派」に関するHPは、この「近代の超克」について、もっと取り上げなきゃだめでねえか。それも、「みずからの」「今」の問題として、ベンヤミンのいう「歴史を逆撫で(さかなで)する」方法でだ。安全圏の高見に身を置いてちゃ、「みずからの」「今」の問題ではない!「歴史を逆撫で(さかなで)する」方法ではない!歴史の隠蔽や偽造をするな。専門家の大先生どもよ。くそ学者。
「近代の超克」が、もひとつよくわからないが、私の知らない点を突っ付いて、いじめるなら、その前にまず、具体的に体を張った運動を、とっとと実践してきてからだ!私は少なくとも、二年間は外に出て、デモや集会や国会前での活動などをやりました。身体障害者が「身体的行動」を実践しているってのに、それもしないでは、
「言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか」。
現実の実態や過去からの細かな具体的な経緯をじっくりと身にしみるように知ること。そこには悔しさ・つらさ・暗さ・怨念などの、生きた人間の心の叫びが満ちている。そういうことを避けるな。高見の安全圏で冷ややかにシニカルに、自分より下だと思うような人をコケにする、いじめをするような物言いや、一見その反対に見える、明るく楽しくやりましょうなどと軽はずみの思いやりをしてくるような物言いは、とっとと、ただちに、今すぐに、やめてもらいたい!それらはすべて精神的去勢になってしまうのだ。怒りを持って運動に出かけろ!参加せよ!実践せよ!そうすると、いかに今の運動が腑抜けでイヤになるかがわかるはず。そのとき、怒りの必要性がわかる。怒ることと、暴力を使うこととは違う。この前、書いた通り。青い芝の会のやり方だ。ただし、「近代の超克」には要注意しましょう。ではでは。ルンルン♪ [手ポリオ・近藤和也]
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■(11)の補足
ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』の第七テーゼのところ。
『季刊・前夜』の集会で(集会だ。本じゃねえぜ。または、参加もせず、また聞きのどこかの記事から部分的なことだけ取り上げて、コケにするような、お遊び半分の物言いとは違う!「言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか」)、ベンヤミンのことを一番言ってた人は、高橋哲哉よりも、三宅晶子でした。ベンヤミン専門家。去年から「教科書ネット21」の代表の中の一人に、睴峻淑子(てるおかよしこ)さんに代わって、なった人だ。ヴァルター・ベンヤミンのことを、どんどん言ってほしい。睴峻淑子さんは福祉のほうで忙しくなったからだ。暉峻淑子(てるおかよしこ)著『豊かさとは何か』(岩波新書)などを出しています。最も痛ましい事件を「豊かさとはなにか」から紹介します(221〜222ページ)。
『1987年1月22日ガスも電話も料金未払いでとめられ、暖房も使えず、母子家庭の母親が3人の子どもを残して餓死した。札幌市白石区でのことである。・・・すでにガスもとめられ、市営住宅の家賃も滞納している本人が、体が悪い、といって生活保護の申請をしているのに、診療もすすめず、生活調査もせず、「若いから働けるでしょう」とか、9年前に別れた夫(ギャンブル癖のために別れた)から「扶養についての書類をもらってくるように」と言って、申請さえも受け付けなかったのである』
「東京節(パイノパイノパイ)」(1919年)→2004年版
♪ウチナンチュもアイヌもイヤサッサ
コリアンもヤマトンチュもアリアリラン
ショーガイシャもブラクミンもヘイヘイホー
ホームレスもヒキコモリもドッコイショ
右も左も 警戒中
平和なニッポン 命がけ
やおよろずの神様 狂い咲き
衛生論も 体面論も パイノパイノパイ
パリコト パナナで フライ フライ フライ
ラ〜メチャンタラ ギッチョンチョンで パイノパイノパ〜イ
パリコト パナナで フライ フライ フライ
作詞・添田さつき(添田唖蝉坊の息子) &「モノノケサミット」 &「手ポリオ」
元歌・アメリカ民謡『マーチング・スルー・ジョージア』
メロディーはここをクリック→ http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tokyobushi.html
解説はここ→ http://www.iconogrove.com/culture/ching-dong/cd_j.html#08