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シリーズ・現代の優生思想との対決(11)日本社会と今西錦司の進化論の大東亜共栄圏
http://www.asyura2.com/0406/health9/msg/377.html
投稿者 手ポリオ 日時 2004 年 11 月 27 日 18:50:57:HcDLIonJaW4jM
 

──本文に入る前に少し・・・
【プレフィス】
障害者を、テレビや映画や本ではなくて、日常、直接深く接したことありますか?、障害者の本音を聞いたことありますか?、ポリオとか脳性まひのこと、わかりますか?、無意識的に優生思想のかたまりになっていませんか?、今の日本は、すでに銃後の戦時下なんです。

〜長崎ウエスレヤン大学「キリエ〜障害者の人権 第4章 身体障害」より〜
http://www.nwjc.ac.jp/~yamashiro/txt/txt/kirie/4.htm
■ある障害者は次のように問う。
「何故、障害者児は殺されなければならないのだろう。
 なぜ、障害者児は人里離れた施設で生涯を送らなければならないのだろう。
 何故、障害者児は街で生きてはいけないのだろう。
 なぜ、私が生きてはいけないのだろう。
 社会の人々は障害者児の存在がそれ程邪魔なのだろうか」
このような障害者の叫びにもかかわらず、一方では、「神さまどうか障害者が出ないように助けて下さい」と祈る牧師がいる。彼はこの祈りを祈ることによって、障害者をマイナスにのみ評価し、障害者の存在を否定している。…(中略)
…私達はこのようなテーマを追求するとき、なによりも障害を負って生まれてきた当事者また、その家族の言葉を第一のテキストにしなければらない。「障害者は邪魔だ、迷惑だ」と考えるこの世の価値観と闘わねばならない。また人間の共存こそ人それぞれに根源的であることをおしえている。(後略)
…(略)大江健三郎氏は、次のように答える。「障害児がいるということは、いろんなことを人間について教えてくれる大切な契機なのだ、そこに重要な意味がある。・・・・たとえば、人間が魂を洗うということをいいます。自分の精神を洗い清める、洗いなおすということの、その手がかりを障害児は、なす。」…「障害児がいることは、いろんなことを人間について教えてくれる大切な契機なのだ。そこに重要な意味がある。」…(※大江氏の息子さん大江光さんは知的障害者で音楽家)
河島幸夫著『戦争・ナチズム・教会』(新教出版社)…ナチに抵抗し、殺害から患者を守ることに成功したまれな例「施設ベーテル」。
――大江健三郎vs渡部昇一/ナチス「生きるに値しない生命」絶滅作戦と抵抗/障害者の人生と自己理解…ヘレンケラー/ほか。 

──以下、本文。(日本社会と今西錦司の進化論、自然主義的誤謬、進化論的倫理観を批判していける状況、小学校の道徳の指導要領、「日の丸」「君が代」、など)
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■『はじめての進化論』のHP http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/index.html の七章より。
1990年講談社発行『はじめての進化論』著者・河田雅圭 ¥663
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061489836/qid=1101326139/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-7647952-3686754
河田雅圭・・・東北大学大学院・生命科学研究科・生態システム生命科学専攻
http://meme.biology.tohoku.ac.jp/ECOLEVOL/ANIMECO/kawata/Welcome.html
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七章 社会の中の進化論
2―日本社会と今西進化論 http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/Page28.html
●今西錦司が残したマイナス
 …(略)今西進化論のマイナス面は一般にほとんど取り上げられていないので、本書では、今西進化論が進化理論としては通用しないこと、また今西の思想についても危険な面があること、さらに、今西の思想や進化論がなぜこれほどまで人気を得たのかという点について、述べていきたい。
●「調和」とは管理統制か?
 今西の考えのもとになっている概念は、「種社会」という概念である。これは、これまで本書で述べてきた「種」とは違って、今西の特異な概念である。…(略)今西の「調和的」というものは、…全体として調和を保つためには、種が個体を統制し、抑圧する機構が必ず必要になるというのである。…今西進化論はまた、競争を否定することから、「平和共存」という言葉で表されることがある。しかし今西理論によると、一見調和のとれた社会のようにみえるのは、種が個体に対して統制をかけて、管理しているからであるということに他ならない。…
●今西錦司にみられる京都学派の系譜
 …戦前に大東亜共栄圏を正当化し、太平洋戦争を美化した西田幾多郎、田辺元らの京都学派、また、類似した思想を主張した和辻哲郎の思想と今西の思想は同じ系譜に連なるものと思われる。…田辺によると、…「個人の自発的服従を強要」…今西の個体――種社会――種全体社会の関係と類似している。また和辻は『倫理学』の中で、全体は個人が存在することで成り立ち、逆に個人も全体の存在下で存在でき、しかも全体は個人より優位な立場にあるとする。これは今西の、種と個体の関係は二にして一つとしながらも、重要な現象の主導権は種が握っているという考えとよく似ている。…
 ところで、個体より種を重視する今西や西田の全体論哲学は、日本の独自の思想なのだろうか。西田自身も述べているように、彼らの生命観は当時、西洋で一種の流行となっていた全体論(ホーリズム)の思想と変わりなく、もともとは西洋思想から生まれたものといえるだろう。
 ところが、日本では、自然を全体的、調和的にとらえるのが東洋思想や日本独自の思想であり、ここの要素に力点をおく粒子論的な見方が西洋思想であるという見解がつくられていったのだ。
●「調和共存」が孕む全体主義の芽
 …西田ら京都学派の哲学は、明治以来の西欧化、合理主義、個人主義、自由主義などを克服するものとして登場し、日本独自の文化の優越性を強調したものであった。これは戦前の話であるが、戦後になっても様々な形で、欧米思想の流入に対する反発がみられる。
 その一つが、一九五○年代のマルクス主義者などのように、アメリカを帝国主義として批判し、日本の文化や民族の独自性を強調する動きである。もう一つは、一九七○年以降特に顕著になった、日本古来の文化に立ち戻ろうとする動きや、科学主義を見直していこうとする動きで、いわゆる「ポスト・モダン」思想につながるものである。
 このような風潮の中で、日本独自の優れた思想として、今西進化論がもてはやされるようになる。
つまりダーウィン進化論は個体主義、競争を選び、今西進化論は全体論と共存を選ぶというのである(実際はダーウィン進化論は競争も共存も説明している)。
 こうして、今西進化論が、日本独自の進化論で欧米の思想から生まれたダーウィン進化論を否定するという構図がつくられ、日本においては人気を得たものと思われる。慶応大学の岸由二は「今西進化論で最も目をひくのは、今西進化論が一貫してナショナリズムの構図の中で主張され、宣伝され、受け取られてきたことであろう。…日本独自の進化理論が、アングロサクソンの進化論と対決し、前進しつつある、その現場にいまわれわれは立ち会っているというナショナリスチックな臨場感が今西ファンを魅了したことも確実だろう」と指摘している(『進化論を愉しむ本』JICC出版局)。
 さらに、最近では日本が経済的に世界の強国になってきたことを背景に、国際社会の中で日本本来の「優れた」思想を広めることが重要である、という超国家主義的な主張さえ台頭するようになり、このような思想にも今西進化論は利用されるようになった。
 たとえば一九八五年、当時の中曽根首相の音頭取りで、国際日本文化センターというものが計画された(一九八七年に発足)際、中曽根は「外国からの思想を全部クリアーにしたうえで、日本のアイデンティティーというものはこれだ、というものをつくる」という趣旨を述べている。そして日本の独自性をもっている人々として、今西錦司、上山春平、梅原猛、梅棹忠夫らの名があげられたのである。
 彼らに比較的共通することは、共存、調和、協調的、和といった思想を、日本の独自思想として評価している点である。国際日本文化センターの所長である梅原は、あまり実証的な根拠もなく、「和」の思想が日本で生まれた最も優れた思想であるとしている。しかし、大東亜共栄圏が共存共栄という一見平和的なイメージで広められたのと同様に、今西進化論の「調和、共存」や梅原の「和」の思想の基盤は、調和とか共存とかいう言葉に隠された、「個体に対しての種(国家)の優位性」という全体主義の芽を孕んでいることは認識しておく必要があるのではないだろうか。(「日本の独自性」論や「日本のアイデンティティー」論は、国民を統制・規制するための日本のアイデンティティー=皇室・天皇」という思想とつながっていることについては、岩崎允胤編『文化の現在』―三省堂―にも指摘されている)
 以下に引用するのは、『人類の周辺』(筑摩書房)の中の今西の言葉である。
「いまは国家のすみわけ時代である。平和も人権も、国家の手中に握られている、といえないことはない。……要するに国家がコントロールできないかぎり、人類の一体化も、平和も、人権もお預けである。ひとびとはもはや宗教のためには血を流さないかもしれないが、国家のためだったらいまでも血を流さねばならないのではないか。それはひとびとのアイデンティティの濃さの問題である。世界人類にたいするアイデンティティよりも、国家にたいするアイデンティティの方が、はるかに濃いという現状認識から、遊離してはいけない」
●進化論は社会とどう関わっていくべきか
 生物の進化的な事実や理論から、人間社会の価値観やモラルを直結させるのは誤りである。しかし、我々人間の価値観が、生物学的な事実によって影響を受けざるを得ないのも確かである。米本昌平は、社会ダーウィニズムのような進化論的倫理が生じてきたのは、キリスト教的世界解釈に対する代案として生まれてきたもので、それは自然科学主義に結びついているという。ここで、自然科学主義というのは、唯物論、自由思想、合理主義などと呼ばれた哲学的な傾向をいう。さらに彼は、ナチズムの優生学などの政策もまた、非合理的なものではなく合理的な政策から生まれてきたことを強調している。
 このことは、科学の発展が必ずしも人間にとって好ましいものではないことを示しているだろう。しかし、科学に対する過度の不信感は逆に、盲目的な神秘主義や宗教、非合理主義を助長する結果にもなる。私はこのような神秘主義が復活するのは好ましいことではないと思う。歴史的にみても、一見論理的なようで実は誤った思想を批判してきたのは、神秘主義ではなく、論理的な思考に基づく思想であったことを忘れてはいけない。
 これまで特に進化論が悪用されてきたのは、進化論そのものが主な原因というよりは、十九世紀の終わりから二十世紀にかけて台頭してきた国家主義、人種主義という思想が根本的な原因である。我々は科学のもつ危険性を明確にすることはもちろん重要であるが、それを悪用しようとする思想の台頭をこそ批判すべきなのである。
 特に日本においては、人々の思想は、論理的な思考や科学的な思考あるいは合理主義などよりも、神秘主義、民族主義、国家主義などに傾きがちだ。そのため日本の国家主義は、人々に一方的な価値観を強制する傾向が強い。一九九一年から施行される小学校学習指導要領の道徳の項目には、「自然の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ」という文がある。自然に対する探求心ではなく、超越的な存在に畏敬の念を抱くことを子どもに教えることが、果たして適正な教育といえるだろうか。同じ道徳の指導要領には、「日の丸」や「君が代」を強制する項目が並ぶ。「超越的に存在に対する畏敬の念」という「神秘主義的」な教育が、ものごとを論理的に考える力を弱め、天皇や皇室に対して無条件の敬意を強制したり、国家の意図通りに働く人間を育てることにつながる可能性はないだろうか。
 科学的あるいは論理的な思考といわれるものが、必ずしも正しい事実や社会への指針を提供するとはかぎらない。それは、近年の科学批判の中でさんざんいわれてきていることである。しかし、生物や人間がどのように進化してきたのかを科学的に考えることは、個人個人がそれぞれの価値観を見つけるうえでの参考資料を提供することにはなるだろう。そのためには、人間がどう生きるべきかという選択と科学の成果を切り離すことが重要である。また、誤った進化論的倫理観や生物学的倫理観を論理的に批判していけるような状況をつくっておくことも、我々には与えられた重要な課題である。
 生物学的には「生きる意味」というものは存在しないが、人間個人個人にはそれぞれ異なる「生きる意味」が存在している。それは個人が生きていくという過程を通じてみずからが考えて見つけるものであり、他人から強制されるべきものではない。社会や国家の発展のために個人が存在しているのではない。多様な価値観をもつ個人が共に生活できるようにするために、国や社会は存在しているのである。
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――※順序が逆になりますが、いちおう七章の1も一部付けておきます。――
★「特に社会生物学などに従事している研究者は社会の動きに敏感に対応して発言していく必要があるだろう。」
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七章 社会の中の進化論
1―進化的倫理をめぐって http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/Page27.html
…(略)生物学上の事実や解釈をもとに人間の倫理観や道徳的価値観を導き出そうとすることを、「自然主義的誤謬」という。特に進化的概念や事実から導き出した倫理やモラルの規範を、進化論的倫理(エボリューショナリー・エシックス)という。本章ではこの進化論的倫理に関わる問題と、人間の倫理が進化的も説明できるかどうかの問題について考えてみよう。
●社会ダーウィニズムとは社会ラマルキズムである
…この社会ダーウィニズムと呼ばれる思想をよくみると、実際には進化とか自然選択説とはほとんど関係がないことがわかる。たとえば社会ダーウィニズムでは、進化は前進、進歩、あるいは「下等」から「高等」への変化とみなされるが、これは実はラマルキズムの発想である。実際、スペンサーはラマルキズムを高く評価し、獲得形質の遺伝の重要性を評価していたという。つまり、ダーウィンは、生物の種が分岐的に変化し、各生物がそれぞれ独自に環境に適応していくのが進化であると考えたのに対し、ラマルクは、下等から高等へと前進することを進化と考えていたので、「社会の進歩のために」進化論的倫理を用いるうえでは、ラマルキズムの方が有用だったのであろう。このような事情からイギリスの科学史家ボウラーは、『進化思想の歴史』(一九八四年)の中で「スペンサーの社会ダーウィニズムはむしろ社会ラマルキズムといえる」と指摘している。…十九世紀の終わりにスペンサーの思想が衰えると、国家間の闘争や人種間の闘争というナショナリズムに、「最適者生存」という言葉が使われるようになる。強い国家が弱い国を支配するとか、優秀な人種が他の人種を圧倒する、といった思想が主張されたのである。そこでは個人の競争という概念はなくなり、個人は国に奉仕するものとみなされ、進化理論としての自然選択説とは完全に異質なものになってしまった。このような社会ダーウィニズムの主張者として有名なのが、十九世紀後半のドイツの動物学者ヘッケルである。ヘッケルは、人間社会には国家間の競争が重要で、それによって強力な国家をつくることができると信じていたという。彼もまた、一般にはダーウィニストとみなされているにもかかわらず、「進化は内的発達や進歩」であるとするラマルキズムに近い考えの持ち主であった。
●優生学と「遺伝管理社会」の将来
ダーウィンの従兄弟であるゴルトンは、十九世紀後半、国が適者と不適者の比率を調節しなければ民族の退化の恐れがあると論じ、「優生学」と呼ばれる思想をつくりあげた。つまり、人為淘汰によって民族の前進進化を推進しようと提唱したのである。この思想を積極的に利用したのが、ナチス政権下のドイツである。…【※シリーズ(8)参照】… 
(×××→)木村資生の『生物進化を考える』(岩波新書)の第九章…。木村は以前から、集団遺伝学的に考えた優生学的な発想が人類の未来を考えるうえで必要である、という考えを述べてきた。…社会的協調性の遺伝的改善ということが、どれだけ危険な発想であるか。…日本では権威的なものとなった論説に対しては、不適切な面があっても批判しなくなるような風潮がある。実際に、『生物進化を考える』の書評の多くは、木村優生論について批判していない。もし、この「優生論」が、この種の問題を論議することがタブー視されている現状に対して、一種の問題提起として出されたのであれば、それに対する自由な批判が出されなければ、「問題提起の章」として意味がまったくなくなってしまうだろう。…
●人間社会生物学は疑似科学か?
…最近、社会ダーウィニズムの現代版といわれ批判されているのが、人間社会生物学である。【※ネオ・ダーウィニズム】動物行動学の研究が進むにつれ、これまで異常とみなされていたような行動、たとえば子殺し、兄弟殺し、レイプなどが、自然選択によって進化した行動として説明できるようになった。さらに、自分を犠牲にしても他人を助けるという利他行動や協力的な行動も、遺伝子の有利性や個体の有利性に働く自然選択によって進化したもの、と考えられるようになった。このような傾向の中で特に問題となったのが、アメリカの昆虫学者ウィルソンが一九七五年に『社会生物学』という大著の最後の章で、人間の行動も自然選択で説明しようとした試みである。アメリカではそれに刺激され、「行動学と社会生物学」という科学雑誌が発行され、人間行動の進化的な側面についての研究が進められ、「人間社会生物学」と呼ばれている。しかし人間の利他行動や社会行動までもを自然選択で説明しようとするウィルソンらの試みは、アメリカでは左派といわれる科学者や社会科学者、そしてほとんどの哲学者から厳しい批判的を受けたのである。第一の批判は、人間社会生物学者が好むと好まないとに関わらず、人間の行動の生物学的規定が、人間の価値に結びついてしまう点にあった。たとえば、遺伝的な差に対して自然選択が働くという主張は、黒人、ユダヤ人、下層階級の人々、そして女性といったグループの人には遺伝的な差が存在するという意味につながり、あらかじめその人の役割は遺伝子によって決定されているものとみなす「遺伝決定論」と結びつきやすく、人種差別や女性差別に悪用される危険性が高いというのである。二番目の批判は、人間社会生物学が科学たりうるかどうかに問題があるとするものである。これは、人間の行動をすべて適応的で自然選択が働いて進化したもの、という視点だけで立てた仮説は「お話」にしかならないという批判で、つまり、人間社会生物学は「疑似科学」であるというわけだ。…
●遺伝決定論と「平等」★
 …進化理論を利用する側は本来の理論を都合よく解釈して悪用する、というのがこれまでの風潮であった。その意味では、人間社会生物学が本来どういうものであるかは別として、悪用されやすい、という点は注意しておかなければならない。このことは社会生物学にかぎらず、どんな分野の科学理論においてもあてはまることである。特に社会生物学などに従事している研究者は社会の動きに敏感に対応して発言していく必要があるだろう。
ところで、「遺伝決定論」的な主張は特に、「社会は科学の法則によって進歩し、人間の本性は環境によって自由に改変でき、完全な社会をつくりあげられる」というマルキシズムのスローガンを信奉する研究者や、「人間個人個人の間には、生物学的な違いがない」ことを根拠に「平等」を主張する人々によって攻撃されることが多い。しかし、このスローガンや根拠は、実際に人間や生物の性質の間に遺伝的な差があるという、生物学的な事実をも否定しなければならなくなる。
その最も典型的な例が、ソビエト連邦でのルイセンコ事件である。ルイセンコは農学者あるいは遺伝学者としてソ連における権威的な立場にあって、獲得形質が遺伝するという立場を強く推進していた。そしてスターリンにとりいり、獲得形質の遺伝を否定するメンデル遺伝学などの学者を「ブルジョア的」といって追放したのである。前章の総合説の節でも触れたチェトヴェリコフなどのソ連の優れた遺伝学者は、ルイセンコによって追放され、そのためソ連における遺伝学はかなりの遅れをとったといわれる。
日本においても、一九五○〜一九六○年代には、ソ連での生物学の影響を受けた研究者が多く、左翼的な思想の影響で、獲得形質の遺伝を強調したり、ネオ・ダーウィニズムを否定する場合もあったようだ。
今後、DNAや遺伝子レベルでの研究が発展するにつれて、人間の性質の個人間の遺伝的な差が明らかになってくるであろう。その時には、生物学的現象と社会的価値や倫理、思想とを切り離し、自然主義的誤謬を犯さないことが、ますます重要になってくる。
「平等」とは、人間一人一人のもつ価値が同じであるということである。個人個人は生物的にはいろいろな面で違っている(遺伝子によって決定されているわけではない)ことを認識したうえで、その違いが人間としての価値の差にはつながらないことを理解することが、重要ではないだろうか。
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※日本進化学会 http://www.kuba.co.jp/shinka/
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【手ポリオ近藤和也・ポストスクリプト】――このソ連のルイセンコが、「全障研」の「発達保障論」のもとに関連していたのか。それについて調べていたら、さらに長くなってしまうので、次回(12)に続きます。(つづく)
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【リファレンス】
■日本的「和」――[…日本でも「和をもって尊しとなす」というのが、聖徳太子以来の日本流の「平和」である。「まあまあ、そんなに事を荒立てないで穏便にいきましょうや」しかしこの風潮は、常に弱い立場の人や少数者に寛容や我慢を要求し反発を押さえ込んできた。そのようにして作られる平穏さをどうして「平和」などと呼べようか。…(以下略)]〜「(見せかけの)平和ではなく」(2004.10.10の説教)〜長崎・佐世保教会から http://www.ne.jp/asahi/church/sasebo/youshi04'10_10.htm …「非戦のために〜反イラク戦争」のページもある。沖縄の辺野古で座り込みの平良夏芽牧師の友人の深澤奨牧師の教会。キリスト教会と言ってもいろいろあるが、さすがに“長崎”の“佐世保”だ! http://www.ne.jp/asahi/church/sasebo/

■京都学派――西田幾多郎、田辺元、和辻哲郎、今西錦司・・・
(京都大学大学院・文学研究科・日本哲学史研究室・2004)の大研究資料のサイト  http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/members/fujita/gakuha.html 
―――こりゃ、かなわん。親分、てえへんだあ。なんだかんだの明神下で〜♪八にもわかるように教えてやっておくんなせい。銭ならこの通り・・・。
◇『日本の哲学』第3号〜特集:生命(2002年12月)(昭和堂刊)主体と環境の生命論―西田幾多郎と今西錦司(野家啓一)/生命観の近代―進化論受容を中心に(鈴木貞美)/ほか、たくさん、いっぱい。♪一杯のコーヒーから〜、夢の花咲くこともある〜・・・♪
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/forum/nt.html
◇「近代の日本の哲学――「京都学派」を中心に」香港科学技術大学 林永強
http://www.rinku.org/~rin_koku/Kenkyusha2000/lam/kindainonihonnotetsugaku.htm
◇京都哲學會のサイトへ http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~skawazoe/kps/ 〜大正5年(1916年)に京都大学文学部の旧哲学科を母体として設立され、今日に至っている。京都大学文学部思想文化学系(旧哲学科)内。(これまでの講演会より…1993 内井惣七「進化と種の分岐 --ダーウィンとウォレスの違い--」)
―――大学ってえのは、こんなことをやってるんだ。おいら、ちょっとだけ行ったことあるけど、すぐやめたもんで、ようわからん。知識の閉鎖、知識の独裁、知識権力者、知識優生思想・・・。

■ベンヤミンは『歴史哲学テーゼ』の第七テーゼで、次のように述べている。
「…歴史主義の歴史叙述者はそもそも誰に感情移入しているのかを問うときである。答えは必定であって、彼は勝利者に感情移入しているのである。…地に伏す人々を踏みにじって歩いていく今日の勝利者の凱旋行進では、今日までの全ての勝利者が一緒に行進している。戦利品は、いつの時代もそうであったが、凱旋行進と一緒に引き回される。それが文化財と呼ばれるものである。…」
…敗者を踏みにじりその存在をなかったことにすることによって成りたつものであること、それゆえ、事件史を忠実に再現する営み自体が、直ちに「感情移入」によって勝利者に加担しその凱旋行進に参列することを意味するということ、この二点が問題なのである。…ベンヤミンは「歴史を逆撫でする」という態度を選びとる。…それは敗者の歴史であり、まさしく歴史を形成し語らせるのと同じ力によって、踏みにじられ、押さえつけられ、なかったことにされる過去である。…<杉村靖彦(京都大学大学院・文学研究科・宗教学専修・助教授)「証言から歴史へ−対話の臨界に立って」2003年2月18日> http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/dialog/act3_sughimura.html
―――ああー、東大の高橋哲哉も『季刊・前夜』で言ってたことだ。京大でも言ってるんだわ。ヴァルター・ベンヤミンは、言ってただけでなく命をかけて活動してた。こういう大学の大先生がたや学生さんがたは、今、戦時下の日本なのに、そういう活動をしないのか?大東亜共栄圏を正当化し、太平洋戦争を美化した西田幾多郎、田辺元らの道を繰り返すのか?いったい何を勉強なさっておられるんでしょうかねえ、親分。こんなのも載ってるけどね。なんのこっちゃ?きりがねえや・・・。
◇京都大学文学研究科21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」新たな対話的探求の論理の構築研究会 http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/
「シモーヌ・ヴェイユにおける善の欲望」ミクロス・ヴェトー教授(ポワティエ大学)講演会 2004年10月12日 京都大学時計台記念館、国際交流ホールI http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/dialog/act_veto.html 「善は罪のない状態ではなく、永遠の行為である」。

【アペンディックス】
■大江健三郎氏も加わっている著名人9人の「九条の会」のホームページ http://www.9-jo.jp/ で、大江氏は「九条の会発足記者会見」で「…自分に障害を持った子どもができれば憲法のことを思ったり教育基本法のことを考えます。そういうことで一生をやってきたと考えております。…」(2004.6.10.)と述べておられます。全文は、http://www.9-jo.jp/kaiken.html 。私たち障害者はこの角度から、今回の「九条の会」にも大いに参加していくべきだと思います。
大江健三郎氏の息子さん・大江光さんのことは、インターネットで引けばいくらでも出てきます。たとえば「生まれてすぐ手術をし、一命をとりとめましたが、発達の遅れが目立ちました。幼児期は、言語によるコミュニケーションはほとんど無く、クラシックや鳥の声などに反応したという、大江光さん。そんな純粋な彼の音楽は、シンプルであるからこそ、この上無いほど直接的に心に語りかけてきてくれます。」という文章など。CD多数発売中。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005EPBF/qid=1093969195/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-2276401-7280230

――[量子論と複雑系のパラダイム]H.Akiより。 http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/paradigm-web.htm ■非ダーウィニズム(?)ラマルキズム 1809年ラマルク「獲得形質」、1967年「細胞共生説」、1977年ノーベル化学賞イリア・プリゴジン「散逸構造論」(「ゆらぎ」)、ミーム・ラマルキズム・・・
■ダーウィニズム 1859年ダーウィン「種の起源」、ネオ・ダーウィニズム 1975年ウイルソン「社会生物学」、リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」…民族主義、性差別、帝国主義などを正当化する理論ととらえられた。・・・

・・・なんで、こんなこむずかしいのをやらなならん?これじゃ哲学・政治行政経済・生命論はもとより無生物・宇宙論まで行っちまう。マハラバ村ではこんなこともやったのかな?大仏空(おさらぎあきら)って、なにものだ?しかし、進化論や生物学それ自体を勉強するのではなく、自然主義的誤謬を犯さないこと!!人間の社会的価値観や倫理観に当てはめるな!ということのためです。それがいかに人間の政治への悪用や日常の社会に浸透しているのかを知って切り離すためだ。日常性の破壊・世間の価値観を変えるとはそういうことだ。しかし、そのページの人も中立と書いていて、ずるい。大学はタコツボ学問で、現実の今のナマの人間にかかわろうとしないし、過去の戦争責任問題を問おうとせず、単なる研究対象として分析・説明しているだけで、今、再び、教科書や日の丸君が代などで復活して危険な時代になってきているのに、何も運動しないのか?それらは、無言の戦争加担になっているのだ。運動・行動をその体をさらして現実に飛び込まなければ、その高い知能・知識など、何の価値もない!怒れ!この雰囲気は実は、反戦集会や講演会などでも、よく似ているのだ。粛々とお勉強スタイル。科学者や専門家・研究者らは、政治・権力にかかわりたくないと言うのなら、何もしないことではない。権力者に面と向かって「かかわりたくない!」と宣言し対決し斗う、そういうかかわり方をすることだ。そういうことが言えるような世の中にすることだ。すべて何もしない、言わない、さわらないで、お勉強だけをして、精神的去勢をすることが、良いことのように考えることが大間違い!かかわることが、かかわらなくできること。さあ、出て来い。直接かかわれよ、大専門家の大センセー様がたよ!怒れ!そして、みんなもネ。
 
■疑似科学 http://222.146.204.251/~mame/doc/pseudo/psthink1.html ほか多数。

■『さよならダーウィニズム―構造主義進化論講義 講談社選書メチエ』池田清彦(著) 1997/12 ¥1680
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062581205/qid%3D1101326857/249-7647952-3686754
・・・どう見ても弱そうな生き物がなぜ生きているのか。本書を読むと、実際、弱い立場にいる生物が、とうに絶滅してもいいはずなのに、ちっとも絶滅していない、という例外が数多く存在することに驚かされる。ある程度は弱肉強食でも、完璧にはそうではないのだ。生物の共存の体系、生物の進化の系譜には、もっと見えない複雑なルールのようなものが存在する...。そう考える人々を「構造主義的進化論者」と呼ぶらしい。【しかし、これもネオ・社会ラマルキズム。右も左も優生思想・・・『さよなら優生思想』ってのを出さなアカン!】
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【プレリミナリー・アナウンスメント】
シリーズ・現代の優生思想との対決(12)ソ連のルイセンコと日本の全障研
トロフィム・ルイセンコvsジョレス&ロイ・メドヴェージェフ
ルィセンコの学説が、誤りであることがほぼ明らかになったあとも、日本の学会の一部だけは熱狂的な支持を集め擁護し続けた。

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