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一橋大学大学院商学研究科教授
関 満博 = 文
text by Mitsuhiro Seki
せき・みつひろ●1948年、富山県生まれ。成城大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修了。専修大学商学部助教授を経て、98年より一橋大学に勤務。経済学博士。
著書に『地域産業の未来』『現場主義の知的生産法』『世界の工場/中国華南と日本企業』などがある。
尾黒ケンジ = 図版作成
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改革・開放後の
「第一世代」が登場
中国は、この20年、天安門事件(1989年)、アジア経済危機(97年)などの谷はあったが、ほぼ持続的な経済発展を実現してきた。その担い手に注目して、80年代は「郷鎮企業の時代」、90年代は「外資企業の時代」と言われ、さらに、21世紀初頭は「民営企業の時代」が予見される。
中国「民営企業」を見る視点には、伝統の国有企業の「民営化」をめぐる流れと、もう一つ、郷鎮企業や農民個人企業からの流れに着目するものがある。特に、後者に関しては、80年代後半を彩った江蘇省南部に特徴的に成立した「蘇南モデル郷鎮企業」や、浙江省温州市で大量発生した農民個人による「温州モデル郷鎮企業」が広く知られる。
また、90年代に入ってから、中国の科学技術政策の積極的な推進の中から、大学発ベンチャー企業も大量に登場し、民営企業の議論に新たな要素を付け加えている。この点は、本誌(2003年2月3日号)でも紹介したことがある。
しかし、南の華南地区に最近急増している民営中小企業の事情はあまり知られていない。
広東省広州市のやや郊外の農村の古びた4〜5階建ての2階に、広東網訊科技有限公司が所在していた。カードキーを展開するベンチャー企業との紹介であった。薄暗い階段を上ると、事務所と組立工場があった。地元の村公司からフロアを賃借していた。事務所の奥で待ち受けていたのは張強氏。67年生まれの今年37歳であった。生まれたときは文化大革命の真っ只中。経済改革、対外開放に入った78年末は小学校5〜6年生。天安門事件の89年は大学4年生。少年から青年にかけての多感な時代に、中国は劇的に変わった。
広州市生まれの張氏は、長じて地元の大学の工業企業経営管理学科を卒業する。当時は大学卒業生は自由に職業を選択することはできず、就職先は国有企業に配分された。だが、張氏は市場経済の強まりを見越して、1年で退職。23歳のときに個人営業を開始。80年代末から90年代の初めは「作れば、売れた」時代であった。まさに、改革・開放後の「第一世代」といってよさそうだ。
90年代中頃からは、資産家に出資してもらい、キー(鍵)関係の営業をしていたが、オーナーと意見が合わず、自分でやることを決意。2000年4月のことであった。現在では、広州の本社は従業員40人、本社、営業部門に加え、設計開発、組立部門を抱えている。開発部門には博士、修士もいる。そのほかに、四川省の成都にも同業の別会社(40人)を保有している。原材料の調達と内陸市場を狙っていた。
インターネットを駆使し
台湾系企業に就職する大卒
網訊科技が視野に入れている市場は、五ツ星クラスのホテルのルームキーである。この領域は日本や欧米、台湾の企業も参入する激戦区だ。一般的には日本製が優れているが、価格は高い。そのため、中国の五ツ星クラスのホテルの多くは欧米製を採用している。高級品市場であることから、品質重視だが、激戦ゆえ価格も重要な要素となる。必死にコストダウンに努めている。
張氏の口からは「30代の社長は、当たり前。自分は年長のほう」という言葉が出てきた。そうしたことは、最近の中国を歩いていると痛切に感じられる。大学卒業後のかなり早い時期から、市場経済化を意識し、苛烈に生きてきた。当初は、飲食業、物品販売業などをしながら、ようやく事業らしい部門に落ち着いてきた。すでに、現在では、先進国のベンチャー企業の雰囲気を身につけてきた。おそらく、網訊科技も、もう一段の発展を実現すれば、次の段階としてハイテク・パークの小ぎれいなオフィスに移転していくのだろう。その前段として、華南の大都市広州の農村地帯に建設された簡易な工業ビルがインキュベータの役割を演じているのであった。
もう一つ、中国で最近よく見るスタイルは、地方から大都市に働きにきた若い人材が、その後、独立するためのシーズを手にし、そして、資産家に資金提供を仰ぐというものである。手元資金に乏しく、銀行融資、ベンチャー・キャピタルの投融資を受けられない若者は、オーナーになりうる資産家を探している。
他方、市場経済化の中で短期間で大きな資産を形成する人が増えているが、そうした人々は、新たな投資機会として、有能な若者が持ち込む投資案件に応えていくのだ。
広州郊外の広州恒利達電路有限公司で応対に出てきた汪毅忠氏(74年生まれ)の名刺には「技術部経理、工程師」とあった。「アレ! 社長ではないのか」と思ったが、意外な展開になった。
汪氏は内陸の四川省の出身。成都大学で機械工学とコンピュータを学んだ。卒業後、就職に際し、成都の「人材市場」のインターネットで各地の企業を検索、広東省東莞市にある台湾系企業に入社する。今の中国ではこれが普通だ。
入社した汪氏の仕事は技術部門の管理職であった。その会社の主力はフレキシブル回路板であったが、それに近い分野として、汪氏自身「タッチパネル」に注目していた。この点を幹部に進言しても受け入れてもらえなかった。そのため、汪氏は27歳のときに、自分で独立することを考える。
ただし、タッチパネルの製造となると、それなりの設備が必要になる。汪氏にはそれだけの資金はなかった。その頃、ある人物の紹介を受ける。食事に呼ばれ、「思い」のたけを伝えると、その場で出資してくれることが決まった。その人は90年代に大学院(化学)を修了し、化学薬品(メッキ、半田等)のアルバイト的な販売から始め、資金を蓄え、その後、工場経営で大きな成功を収めていた。いわば改革、開放後の「第一世代」だ。
「知恵のある人」に
投資する資産家
その人は当初、汪氏が構想する事業に600万元(約9000万円)を投入してくれた。その後、さらに設備投資の必要が生じるが、そのときは、オーナーが友人二人を連れてきた。結局、現在は、その3人で約300万ドルの出資となった。現在の中国では資産家が増え、このような展開になっていくのだ。
この間、技術サイドの中心である汪氏は事実上の工場長ということになり、工場の責任者として働いている。汪氏が持ち込んだ事業が、個人資産家の資金の投入により、それなりの事業になってきた。
日本では、このようなケースは稀だが、現在の中国ではよく聞かれる。出資していない汪氏には配当はないが、利益に対する成果配分がボーナスの形で組み込まれている。利益の大きさにもよるが、その10〜20%程度とされる。事業が順調にいく限り、かなりの額になる。近いうちに、汪氏は資金を蓄積し、さらに新たな事業に踏み込んでいくことは間違いない。
広東省の珠江デルタでは、80年代中頃から香港系企業が大量に進出し、さらに90年を前後する頃からは台湾系企業が大量に進出してきた。むしろ、80年代中頃から90年代中頃までにかけては、発展の牽引車は外資企業、特に、香港、台湾系企業であった。
以上のような条件の下で、珠江デルタでは、ようやく、この数年、外資企業の発展に刺激された個人が、独立的に新たな中小企業を興し始めている。外資企業が手本になり、中国の事情を受け止めながら、健全な新たな民営中小企業が生まれつつある。そうした中小企業の経営者は30代前半が多く、「学歴が高く、頭が良く、エネルギーがあり、技術も資金もある」。彼らは中国民営企業の「第二世代」ということができる。先の「第一世代」ががむしゃらに起業してきたのとは対照的に、この「第二世代」は、実にスマートにコトを運んでいる。
成熟感に苛まれている私たちは、こうした若くてエネルギーに溢れた中国の民営中小企業から、大きな刺激を受けていくことが必要だ。私たち日本の企業が中国に進出し始めてそろそろ20年。
ここにきて、中国に生きのよい民営中小企業が大量に登場してきた。彼らを見ていると、しなびた日本の経営者では太刀打ちできそうもないことが痛感される。日本の経営者も若返り、彼らのエネルギーのシャワーを浴びながら、大きく変わらねばならない時代が到来しているのではないか。