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「米国・市場原理主義」に翻弄された90年代の意義(伊丹敬之)
http://www.asyura2.com/0406/hasan36/msg/339.html
投稿者 愚民党 日時 2004 年 8 月 20 日 07:56:21:ogcGl0q1DMbpk
 




「米国・市場原理主義」に
翻弄された90年代の意義

http://www.president.co.jp/pre/20040830/004.html

アメリカ一国覇権が確立し資本主義が勝利宣言をした1990年代、
バブル崩壊が日本の金融システムを揺るがした。
いわゆる「失われた10年」において、日本経済は耐えに耐え、
年平均1.9%で成長し続け、失業率も5%台前半で踏みとどまった。
はたして、この数字は「アメリカ市場原理主義」の恩恵なのだろうか。
筆者の答えは「ノー」だ。日本企業がこの潮流に抵抗したとみる。

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一橋大学大学院商学研究科教授
伊丹敬之 = 文
text by Hiroyuki Itami
いたみ・ひろゆき●1945年、愛知県生まれ。一橋大学商学部卒業、カーネギーメロン大学経営大学院Ph.D。73年より一橋大学商学部に勤務。75年から83年にかけて、2度スタンフォード大学ビジネススクール客員准教授。
著書に『場のマネジメント』『経営の未来を見誤るな :デジタル人本主義への道』などがある。


尾黒ケンジ = 図版作成

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日本を苦境に立たせた
二つの「本質的構造」

 長い低迷の時代が、やっと終わりつつある。トンネルの出口が見えてきた。
 デジタル家電をリード役にやっと動き出した消費が、猛暑も手伝って好調を維持し続けている。一方、金融の世界では、UFJグループが三菱東京グループと経営統合することが本決まりになった。日本金融システムの信頼回復にいよいよメドがついた。消費と金融の二つの面を中心に、2004年の日本経済はやっと本格的回復の兆しを見せ始めたのである。

 この稿では、失われた10年と呼ばれた日本の1990年代が長い歴史の中で一体どのような意味を持つのか、そしてその停滞からなぜ日本は回復できたのか、その構造的原因を考えてみよう。

 歴史は、飛ばない。ある年に起きたことの前兆となるべき出来事が、その前に起きる。04年が日本経済の久しぶりの本格回復の年だとすれば、その前年、03年に起きたことの意味は大きかった。

 03年3月、イラク戦争が起きた。5月には大きな戦闘行動の終結が宣言されたものの、肝心の開戦の理由であったはずの大量破壊兵器は発見されなかった。アメリカの世界的信頼は失墜したと思うべきであろう。

 日本では、03年5月に、りそな銀行への公的資金の注入が行われた。日本の金融システムの安定性の回復に政府が本腰を入れることを内外に宣言した事件だったといっていい。その延長線上に、UFJ銀行への金融当局のきわめて強い態度があり、それが三菱東京との経営統合へとUFJを追い込んでいった。

 03年に起きた二つの事件は、日本の90年代の苦境を招いた二つの本質的構造が、日本にとって好転したことを象徴するものであった。

 その二つの本質的構造とは、冷戦構造の破綻が生み出したアメリカの一国覇権の構造であり、バブルの崩壊の結果として生まれた日本の金融システムの巨大な不安定性という構造である。その構造の日本にとっての好転とは、アメリカ一国覇権のかげりであり、日本の金融システムの安定性の回復である。

 時計の針はさかのぼって91年に、こうした二つの本質的構造を生み出した二つの事件が起きている。この年、ソ連邦が崩壊し、冷戦構造は完全に終わった。そして同じ年、日本では地価が下落を始め、日本経済のバブルが破裂した。

 こうして、アメリカ一国覇権と資本主義の勝利という90年代、バブル崩壊による銀行の不良債権問題が日本の金融システムを揺るがす90年代、その10年が始まったのである。

アメリカと日本のどちらがいい国なのか

 アメリカ型資本主義の勝利は、それとはかなりタイプのちがう市場経済であった日本の経済システム、経営のあり方への懐疑の眼差しを生んだ。市場原理主義的な発言が幅を利かすようになったのである。そのうえ、ソ連邦の脅威がなくなったおかげで、対ソ連の備えとしての意義がアメリカ側にとって大きかった日本に対して、アメリカは強い態度に出られるようになった。日本の国家安全保障の将来に大きな不透明性が生まれ、アメリカ依存の姿勢を当分は取らざるをえないことが明白になってしまった。つまり、日本経済の運営、日本企業の経営、経済外交、どの面でも日本が弱気の立場になるような国際情勢になってしまったのである。

 その同じときに、日本国内ではバブルの破裂によって金融システムの不安が大きく経済を変調させていた。カネの流れが正常にいかないと経済とはこれほどまでに大きな影響を受けるのか、といういい歴史的証拠を日本は世界の経済史に対して提供することになってしまった。

 そのショックの大きさを考えると、90年代の日本はよく持ちこたえた、というべきであろう。たしかに、経済失政があった。企業の動きの鈍さもあった。

 これほど低迷せずに済んだはず、という思いを多くの人が持つのは、無理もない。
 しかし、バブルの崩壊で、株価がピークの4分の1になり、地価も全国平均で半分以下、ところによっては5分の1になった。その結果、バブルの崩壊後わずか4年間で日本全体で1100兆円のキャピタルロス(資産価値の下落)があった。日本のGDPのほぼ2年分が失われたのである。

 これだけ巨大なロスをしかるべき規模の経済が経験したのは歴史上、1929年の大恐慌の後のアメリカ経済以外にないという。それほどの大ショックであった。それでも、90年代の日本は年平均1.9%で成長し続け、失業率も5%台前半で踏みとどまった。大恐慌の後のアメリカは、29年からの4年間でGDPは半分近くに落ち込み、失業率は25%にもなってしまった。

 たしかに、バブルに踊った企業は大きな苦境に立たされた。資産家たちも、株価と地価の値下がりで巨大な損失を被った。しかし、平均的なサラリーマンの現金給与総額は90年代を通して増え続け、物価上昇を差し引いた実質収入は10年で一割以上増えたのである。失業も増えたが、就業者数全体は増え続けた。海外旅行者の数も、90年代に50%近く増えた。

 一方で企業の利益は減ったのだが、それは売り上げ減の状況で働く人々への人件費支払いを維持・向上させた結果として、人件費を差し引いた後の利益が減ったのである。経済が好調だといわれるアメリカでは、企業の利益は増えているが働く人々の実質賃金はじつは90年代の10年間で、わずかだが減ってしまっている。いったい、どちらがいい国なのか。

 企業経営の基本的な考え方の部分でも、日本は踏みとどまった、と私には見える。マスコミの表層流だけを読んでいると、日本の経営が大きく変化した印象を持つかもしれない。しかし、経営の現場の深層流では、これまでの日本型経営のよさの原理をなんとかして維持できないかと模索し続けた企業も多かった。

 その一つの例を挙げれば、企業が生み出す付加価値からの従業員への分配(つまり人件費)の比重が、企業の付加価値が低迷した90年代にかなり高まった。株主への分配率はあまり変化がなかった。

 そして、もっとも日本企業が苦しくなった90年代後半には、内部留保率を下げたり過去からの内部留保を取り崩したりして従業員への分配を優先した傾向がかなり出てきた。まさに、株主よりも従業員を究極的には優先する企業行動が分配に表れたのである。株主重視というかけ声とは裏腹の行動が、現実には取られていた。

 それはたしかに、現象としては人件費の上げすぎであり、利益を圧迫しすぎた。その訂正はあるべきだが、しかし、その背後の考え方はそれなりに評価されるべきであろう。

「修正資本主義」を超える「第三の道」

 つまり、市場原理主義へのアメリカ主導の流れに日本の企業の現場は90年代に抵抗したのである。そして、バブルの崩壊で金持ちが損をしたが、企業の従業員中心的な考え方のおかげで平均的な人々の生活は保たれた。いわば、バブル時代に二極化を始めた富の分配を再びより平等的な姿に戻すような再配分が、90年代に起きたのである。

 こうした日本のがんばりは、長く戦後世界の潮流であった修正資本主義の流れを日本が維持し続けようとした、と後世言われる可能性がかなりある。

 経済史家カール・ポラニーによれば、20世紀の前半は、19世紀にイギリスを中心に形成された自己調整的な市場経済社会がファシズムと社会主義によって取って代わられた半世紀であった。経済が本来は社会全体のシステムのうちの一部であるはずなのに「自己調整的市場経済」という考え方の下では、その経済が社会そのものを隷属させるようになってしまう。その、いわばねじれが、社会全体に耐えられないストレス(たとえば多くの貧しい人々を生み、彼らに経済変動の犠牲が集中する)を生み出したために、自己調整的市場経済は最終的に破綻した。その破綻の苦しみが人々を別な社会システムの選択、つまりファシズムや社会主義の選択へと駆り立てた。1910年代から30年代のことである。

 しかし、ファシズムは長続きしなかった。一方で社会主義は、その一種の理想性から戦後の世界のインテリたちの思潮となり、いくつかの修正資本主義の試みをヨーロッパや日本で生み出した。

 その結果、世界全体は50年代、60年代と繁栄した。ただ、そうした修正資本主義的な試みはほとんどつねに、政府の役割を大きくするものであった。

 その結果、70年代に近づくと、自己調整的な市場へのアンチテーゼとしての「適切な政府の役割」がオーバーランするほどに、政府の過大な存在が次第に顕在化しつつあった。

 80年代に入ると、イギリスのサッチャー、アメリカのレーガンが指導者となり、小さい政府、市場に任せる経済を、スローガンに掲げ始める。いわば、戦後に行われた市場社会の「修正」をもとへ戻す作業を始めたのである。そうした市場原理主義的哲学が世界の流行となり始めたのである。

 この流れは、90年代に入るとますます加速した。ソ連邦の崩壊は二つの意味で、80年代の流れを正当化してしまったように見えた。一つは、市場経済原理の正しさの正当化。第二は、冷戦にアメリカが勝ったというアメリカの覇権の正当化。さらに市場社会修正版の二大国であったドイツと日本がそれぞれの理由で90年代に経済的に低迷したことも、「戦後の修正の否定」という反転の正当化に貢献してしまったのであろう。ドイツは90年の東西統合のコストの重みで、日本は91年のバブル崩壊のキャピタルロスの大きさの重みで、それぞれに長期的な低迷に入っていったのである。

 しかし、市場社会修正版からの反転を世界が始めたわずか10数年後の90年代の終わりからすでに、新しい流れが生まれてきたようである。市場原理主義の行き着く先の容赦ないグローバリゼーションへの世界的な反発である。イラク戦争に対する世界的な反発は、その象徴であろう。歴史の流れが早くも再反転しそうである。もちろん、社会主義の復活ではない。第三の道の模索である。

 日本の90年代は、大きく見れば修正資本主義の枠の中での模索の10年、と位置づけられる可能性がある。国内の悲観主義と金融システムの不安定性から解放された日本がさらに力強く第三の道を模索することは、世界史的にも意義のあることである。



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