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(回答先: 今度は寒いとき生まれてこい 投稿者 非常識人 日時 2004 年 11 月 08 日 23:38:00)
地球の温暖化現象の背景に、過剰な消費文明のありかたが問われますが、今の生活を個人レベルで捨てて、田舎で自給自足をしても、社会の体制が極端な資源依存社会である以上
、思想や哲学としての評価しか存在しない。
現在の社会に要求されているのは、京都議定書のような、地球環境の厳しい現状が理解できて、それでいて効果的な方法がない場合に実施される、ある意味での気休め療法である、環境問題を考える会のような方法しか人類は選択しようがないと考えます。
地球環境の改善に効果的な方法は唯一、資源を使わない、前近代的な社会が望ましいのです。
しかし貨幣経済をベースとした資本主義文明は、スピードと蓄積と過剰がシステムの基本であり、自由競争という、とてつもない原理によって、世界中の資源が毎年、数百年の使用量と同じレベルで消費されるわけで、そんな現実はつい数百年前には予定されていなかった事です。
私たちの世界は、ウイリアム・ブレイクの言うように悪魔の水車を回し始めたわけで、一度手にした時点で捨てることは不可能な選択をしたわけです。
どちらにしても、資源を収奪しつくすことが自由競争の勝利者への道であり、富を集中させ、多くの人間の労働力を集積して、運用する資源の質に応じた効率的な配分を行うための、きわめて狡猾な戦略システムを保持しているわけです。
20世紀の資本経済の成熟によって、多くの労働力は集中的なコントロールを必要とされ
効果的な運用は、価値連鎖というサプライチエーンによって連結され始めました。
つまるところ、一滴の労働力や資源も無駄にせず、使い切る方法が考案され、これらを
指数として運用管理する方法が編み出されました。
こうした方法を採用することで、21世紀の資源開発はより高回転に地球からの資源を引き出す事に成功しています。
これらの運用が地球の環境問題を踏まえて実施されているという、建前は資本の正当性に過ぎず、なんら構造的な問題を解決しているわけではないことを理解していただきたい。