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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu80.htm
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集団自殺した人たちも、西武の堤義明氏も、ダイエーの
中内功氏も、心の中の無限の豊かさに気がつかない人だ。
2004年10月14日 木曜日
◆34歳女性、書き込みで仲間募る=「練炭、睡眠薬、車」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041014-00000638-jij-soci
埼玉県皆野町の7人集団自殺で、東京都文京区の女性(34)が今月6日、インターネットの自殺系サイトへの書き込みで「練炭、睡眠薬、車」などと計画を公表し、仲間を募集していたことが14日、知人の話で分かった。
女性はサイトの掲示板に「男女問わずグループで実行したい」と記入。「前に練炭で失敗したので今度は確実に」と、今月上旬に東京都奥多摩町で女性3人と起こした自殺未遂に触れたとみられる記載もあった。
知人によると、女性はインディーズ系のロックバンドのメンバーとして活動したこともあった。自ら自殺についてのサイトを運営し、2001年5月まで内容を更新。「生きるべき理由が見つからない」「世界がすっかり崩壊したらちょっと愉快」などと記していた。また、「楽しくないのに生きている意味があるの」などと何度も自殺願望を口にしていた。
女性はこの知人に対し、1回目の自殺未遂前、「4日に新宿に集合する」と集団自殺の計画を伝えた。知人は警察に通報したが、場所などが分からず阻止できなかった。
(時事通信) - 10月14日9時0分更新
◆癒すこと、癒されること―心と運命と大地を幸せにする方法 加納真士(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4054006299.html
◆「多数決の原理」というフィールド なわふみひと
http://webclub.kcom.ne.jp/mc/kuroki/bookstand-healing.html
●価値観のフィールドは、いわばその人の感じてきた歴史観であり、人生観である。では、価値はいったいどこからきたのか? それは、「多数決の原理」という、数の多い意見が正しいとされる間違った思いこみからである。
多数決の原理は民主主義によって支えられてきた。民主主義は、ひとつの理想的な政治システムかもしれないが、それは理性と知性が兼ね備えられて初めて完成するシステムなのだ。ガリレオのように真実を告げても、判断する権力者や大衆の目が開けてなければ、多数決の原理は真理を抹殺してしまう。少数意見を駆逐する民主主義は完全ではない。
日本のマスコミは、コマーシャリズム(商業主義)の上に成り立っているために、多数決の原理を優先しやすい。購買者の最大公約数を意識した記事が多すぎるように思う。人々は、真実のもの、真によいものを求めている。だが、情報が多すぎて、どれが本物なのかを判断できない。そのために、広告宣伝の多いものが「よいもの」と思わせられてしまうのだ。価値観のフィールドはそういう中で生まれてくる。
◆「自我」のフィールド
「自我」こそは、もっとも気づきにくいフィールドである。
ある講演会で主婦の方からこんな質問を受けた。
「望み通りに子どもは希望の学校に入学できました。夫も出世をし、家も建てることができました。それは、長い間、私の望んでいたことでした。でも、ある日、自分は幸せではなかったと気がついたのです。これは、どうしてでしょうか?」
それは、魂の喜びに沿って生きていなかった自分に気がついたからである。よく、人は自分の希望通りになったら自分は幸せになれると思っている。だが、そう思うのは、「どの自分」なのだろう? 人は、自分だと思い込んでいる“自我”によって、幸せというものを判断していることが多い。自我とは世間の価値観の中で育ててきた人格のひとつにすぎない。だから、自我の範囲で喜びを得ても、魂の望む本当の幸せにはつながらないことがある。
「幸せになるために」は、ヒーリングの目的である。だが、人に、この道が正しいと言うことはできない。「あなたはこうすべきだ」とか、「自分はこうしてきて幸せだったから、あなたも同じようにすれば幸せになれる」と言っても、人によって価値観は違うからだ。
自分の生まれてきた目的や魂の目的に添わない限り、本当の意味での幸せは得られない。人には、それぞれに生まれてきた目的がある。ただひとつ、すべての人に言える共通した目的は、自分の中にある愛を表現するために生まれてきたということである。自分のできる形で世の中に愛を表現していくことだ。そうすれば、どんな生活をしていようと、どんな境遇にあろうと、心からの満足が得られる。だだ、愛の表現も「自我」を通すと自己顕示欲にすり替わってしまう。
◆感謝の心とヒーリング
●「貧者の一灯」という言葉を聞いたことがあると思う。仏教の説話で、説法を聞きにきた人が、聖者のために油で明かりを灯すのだが、昔は油が高価だったために、お金持ちはいくらでも明かりを灯すことができたが、貧しい人は食べるものを節約しなければ油を買って明かりを灯すことはできなかった。それでも感謝を奉仕という形で表そうとした気持ちが一灯になった。心のこもった一灯と、形だけの一灯は、明かりとしては同じでも価値が違うということを諭したものである。
●仏典の「貧者の一灯」の本当に意味は、自分の何かを犠牲にすることを奨めたものではない。人が自分の中に、汲んでも汲みきれない無限の愛があることに気づき、それを引き出すきっかけを創るということである。犠牲には苦しみが伴うが、愛には感謝を伴う喜びがある。
『聖書』に「裕福なる者が天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」とあるのは、お金持ちのように財力のあり余った人は慢心しやすく、何も持たない自分の中に無限供給があることに気づきにくいという意味である。自分でも貧しいのに、病気なのに、苦しいのに、それでも他人のために何かをしてあげたいと思った瞬間に、その人の中の無限の扉は開く。
お釈迦様が洪水の後に、弟子たちに「被害に遭った人の家に托鉢に行きなさい」と言う説話がある。弟子たちは困惑して、今日は托鉢に行っても米はおろか一粒の麦もないでしょうと答える。すると、お釈迦様は「おまえたちはいったい何を学んできたのか。裕福な人に施しをしてもらうことを托鉢だと思ってきたのではないか。一番苦しい状況のときに、それでも人は自分の中に無限の力があるのだという自覚を引き出すのが托鉢ではないのか」と諭したという。
◆闇の見分け方
●闇の意識の特徴は、低次元の物質的レベルに人を固執させようとすることである。お金や地位、名誉、財産などを求めさせる欲の心を操るのだ。人間を物理的な限界に縛りつけておきたいからである。
反対に、光の意識は人を物質や経済の奴隷から解放する。人間がそれらの主人であることを自覚させるのである。富や名誉があっても幸せではない人がいるのはなぜか、ということに目を向けさせる。
だが、闇はいつも光に化けたがる。巧妙に「平和」や「魂の進化」という言葉を唱える。(中略)
しかし、見分け方はとても簡単である。「争う心のあるところに高い意識はない」という宇宙の法則があるからだ。もし、あなたを誰かと争わせようとしたり、親や兄弟、その他、親しい人との間に不調和を作らせようと言葉巧みに誘ったり、人を区別し、排除させたりするような言動が見えたなら、それは光をまねた巧妙な闇の意識である。
また、あなたの中の孤独から生まれたコンプレックスを刺激するように、「あなたこそ特別な人です。他のレベルの低い人のために祈ってあげてください」と言ったり、共通の敵を生み出して団結を誘ったら、それも闇の意識なのだ。
◆闇の正体
●闇から身と心を守るには、闇の正体を知ることだ。闇の正体は、人間の「恐れ」「嫉妬」「憎しみ」「人と比べる心」を生み出した「欲の気」の集合体である。(中略)
そして、闇には実体がない。大切なことなので、繰り返したいと思う。「闇には、実体がない」――それを忘れないでほしい。闇や悪は、存在はするが「実在」ではない。砂漠に現れる蜃気楼のようなものだ。そのことを知られるのが、彼らにとっては一番恐ろしい。
しかし、人の「恐れ」が闇に力を与えると、闇が物理的に働くこともある。(中略)
それこそが向こうの手である。暴力を生活の手段にしている人たちと同じように、自分の存在を恐れさせたいのが闇である。(中略)
逆に言うと、恐れない者には闇は何もできない。闇には、物理界に働きかけられる能力が、自分からはひとつもないのだ。闇に力を貸すのは、肉体を持って物質的にも霊的にも関わっている「人間」である私たちだということを心に留めてほしい。
◆自らの中に師を持とう! それが光の選択の第一歩である
●この地球にいま生きている人たちは、それぞれに特別な使命をもって生まれてきたことを知ってほしい。ところが、その使命を忘れて自分を無力な存在だと錯覚してしまっている人たちは、不安になると自分を導いてくれる存在を求めたがる。そして、自分の行動や疑問を断定的に指示し、解決してくれる人に依存してしまう。時には、その人の助言があなたを楽にしてくれるだろう。
だが、人に依存し続けると、自分のレーゾンデートル(存在意義)の喪失と使命の放棄につながる。すべては、あなたという「自分」への自己過小評価のせいである。
どうか、自らの中に「師匠=マスター」を持ってほしい。人間は皆、内側に高い意識を持っている。師の意識は、常に自らを高い次元の波動帯に高めようとする。「愛」の本当の意味を学ばせ、魂が進化する方向に人を望んで導くのである。
●お釈迦様も「他を拠り所とせず、自らを拠り所としなさい」と説いている。それは、人の自主性と内なる光を大切にする言葉であると同時に、他の人を盲目的に崇拝する危険性を教えてくれる。本当にすぐれた指導者なら、自分を拝むことよりも、人々が自らの意志で直接天とつながることを何よりも喜ぶに違いない。
●人が自分の中に師を持ったとき、自分を含めた世界がすべてある意志の下に「生かされている」ことが理解できるようになる。そのとき、隣り合う人の中にも、自分の中の師と同じ尊い姿を見るのだ。内側に師を持つと、本当の謙虚さを持つようになり、自然に頭を下げられるようになる。
(私のコメント)
最近になってネットが媒体になった若い人の集団自殺がたて続けに起きている。テレビのワイドショーを見ていたら、主犯格の34歳の若い主婦は「生きていても楽しくないから死にたい」と洩らしていたそうだ。昨日は日本の社会風土からその原因を考えてみましたが、今日は人間の心の中から考えてみたいと思います。
集団自殺した34歳の若い主婦は離婚問題で悩んでいた。他の若い6人も就職問題などそれぞれ理由はあったらしい。しかし自殺の動機としては不可解であり、そんなことで自殺していたら皆自殺しなければならなくなる。ましてや「楽しい事がひとつもないから自殺したい」とは、なんと甘ったれた言葉だろう。残された二人の子供に対する責任感が感じられない。
集団自殺した7人に共通して言えることは、戦後教育の個人主義が行き着くところまで行ってしまって、自分さえ良ければ他の人の事までかまっていられないとする生き方だ。そうでなければ「楽しい事がなければ死んでいしまいたい」などと言えるはずがない。自分を育ててくれた両親や、これから育てなければならない子供のことなど考えられないほど追い詰められていたのだろう。
戦後の学校教育は倫理や道徳などは戦前の教育の弊害として退けられて、個人主義の名の下に利己的な人間を育ててきたようだ。学級においても何でも多数決が民主主義として教え込まれた。それでは愚かなものが多数なら愚かな者の決定に引きずられてしまう。青少年の性的な退廃もみんながやっていることだから私もやると言った馬鹿な事が横行している。
学校の教師達も生徒たちの競争意識を煽りたてて、嫉妬や憎しみや恐怖で子供たちの心を蝕んでいるのだ。もちろん競争意識も大切であり、弱肉強食の世界を生きてゆくには強い心も育んでいかなければ生きては行けないだろう。しかしそれだけでは落ちこぼれる子供がどうしても出てくる。それに対する宗教的倫理的な心のケアが今の教師達には出来ないのだ。
また生存競争に勝ち抜いた人にとっても、経済的な成功が幸せを必ずしももたらさない事は誰もがよく言うことですが、西武鉄道グループの堤義明氏の生き様を見ていると、彼に欠けてしまっているのは自分の心の貧しさに気がつかないことだ。人に後ろ指を差されながら経済的な権勢を誇っても、堤義明氏のの心は癒されないだろう。
全て順調に希望がかなった主婦の場合の失望感はなぜなのか。「生きていても楽しい事が一つもないから死にたい」と言って自殺した主婦とたいして変わりがないことに気がつくだろう。自分は何のために生まれて生きたのか考えることなく生存競争に勝ち抜き勝利者の栄冠を勝ち得ても、魂の喜びに沿って生きてこなければ、決して幸福にはなれないのだ。
キリスト教や仏教が説いている事は、富める者が驕った心で慢心しやすくて、心の無限の豊かさに気がつかずに生きてしまうことを戒めている。ダイエーの中内オーナーも西武の堤義明オーナーも企業が大きくなればオーナー経営の呪縛にとりつかれて時代に流されてしまった。零細企業ならいざ知らず、自分の子孫に大企業の経営を継がせるのは煩悩がなせる業だろう。