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(回答先: 親中国の朝日新聞が「南京大虐殺」を独り歩きさせた ヤングジャンプの「反日漫画家」本宮ひろ志を許すな! 投稿者 TORA 日時 2004 年 10 月 07 日 19:55:53)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/kouryaku.htm
・南京攻略途上の状況
堀越文雄(第13師団山田支隊歩兵第65連隊)陣中日記
[10月6日]
帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこあり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。
[11月9日]
捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人、子供ひとり、これも突かれたり。
[11月16日]
午後六時ごろ一部落を見つけて泊す。高橋少尉殿と藤井上等兵と自分と三人して徴発せし鴨と鶏、全部で八羽をもって夕食うまし。外に豚一匹は油とサトー、塩とでいため、中食の副食物にす。
[11月20日]
昨夜までの頑強なりし敵も今は退脚し、ところどころに敗残兵の残れるあり。とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを斬る。まったく作法どおりの斬れ工合なり。刀少しく刃こぼれせり。惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながらおどろかれる心の落ちつきなり、西徐野に一泊す。
敵はほとんど退脚す、残れるものは使役に服せしめ、又は銃殺、斬首等をなす。いかりの心わかず、心きおうことなし。血潮を見ても心平生を失うことなし。これすなわち戦場心理ならんか。
[11月22日]
鶏の徴発に出かける。クリークをとおる支那人の舟を全部とめて片っぱしよりしらべそれにのり対岸にいたり、チャンクウ(中国酒)一壷を得てかえる。にわとり凡そ十羽もあるべし。中食うまし。
(『南京事件を記録した皇軍兵士たち』、笠原『南京事件』p.98-99)
牧原信夫(第16師団歩兵第19旅団歩兵第20連隊上等兵)陣中日記
[11月22日]
道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可愛想である。
橋の付近には五、六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。
[11月26日]
午前(午後の誤り)四時、第二大隊は喚声をあげ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家をやかれ、逃げるに道なく、失心状態で右往左往しているのもまったく可愛想だがしかたがない。午後六時、完全に占領する。七時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討がおこなわれた。自分たちが休憩している場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、あと三名は捕らえた。兵隊たちは早速二名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。
八時半、宿舎に就く。三小隊はさっそく豚を殺していた。全くすばやくやるのにはおそれ入った。
[11月27日]
支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。支那人二名を連れて十一時、出発す…鉄道線路上を前進す。休憩中に五、六軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり、気持ちがせいせいした。
[11月28日]
午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。…自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。
部落の十二、三家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海である。老人が二、三人いて可愛想だったが、命令だから仕方ない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ五、六名を射殺する。意気揚々とあがる。
[11月29日]
武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、全く浮足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない。
[12月1日]
途中の部落を全部掃討し、また舟にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけて部落を焼き払って前進する。呂城の部落に入ったおりすぐに徴発に一家屋に入ったところ三名の義勇兵らしきものを発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。
…
[12月5日]
午前八時、準備万端終わり、同部落を出発する。出発する時はもはや全村火の海である。
南京に近いのだろう。一軒家に乾しいもが目についた。吾先にとまたたくまに取り尽くした。
(『南京事件 京都師団関係資料集』、笠原『南京事件』p.87-89)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/horyo.htm
中国軍捕虜の大量虐殺
南京防衛軍に対する投降勧告文 (大日本陸軍総司令官松井石根名、12月8日、航空機から投下)
日軍は抵抗者にたいしてはきわめて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊にたいしては寛大をもってし、これを犯さず
丁集団(第10軍)命令 (丁集作命甲号外) 12月13日午前8時30分
一、集団は南京城内の敵を殲滅せんとす
一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、
これがため要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す
『南京戦史資料集』
(笠原『南京事件』p.143)
中島今朝吾中将(第16師団長) 日記 (12月13日)
一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江両塞より逃て来るものありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることとなしたる(れ)ども、千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、之が一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので
部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ
十三日夕はトラックの大活躍を要したり乍併(しかしながら)戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大平門(太平門)に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三○○其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る
一、此七八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ処(箇処)に誘きて処理する予定なり
『南京戦史資料集』
(笠原『南京事件』p.154-155)
『増刊歴史と人物』「南京攻略戦中島台十六師団長日記」
(内田『「戦後補償」を考える』p.34)
児玉義雄氏(第十六師団歩兵第三十八連隊副官)の証言
連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。
参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。 激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。
『証言による<南京戦史>(5)』
(内田『「戦後補償」を考える』p.35-36)
佐々木到一少将(第16師団 歩兵第30旅団(佐々木支隊)長) 私記 (12月13日)
この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。(中略)
午後二時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。
その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。
白米はもはや一粒もなし、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。
「佐々木到一少将私記」
(笠原『南京事件』p.153-154)
第16師団歩兵第30旅団命令 (旅団長 佐々木到一少将、12月14日)
[各隊は担当区域を]掃蕩し支那兵を撃滅すべし。各隊は師団の指示あるまで俘虜を受けつくるを許さず
『南京戦史資料集』
(笠原『南京事件』p.154)
第114師団歩兵第127旅団歩兵第66連隊第1大隊 戦闘詳報
[12月12日午後7時ころ] 最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
[12日夜] 捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二○名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。
[13日午後2時] 連隊長より左の命令を受く。
旅団命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
[13日夕方] 各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。(中略)各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。
『南京戦史資料集』
(笠原『南京事件』p.156-157)
山田支隊による捕虜大虐殺(12月16日〜17日)
上海派遣軍第13師団歩兵第103旅団(山田支隊)は、幕府山附近で膨大な捕虜(約1万5千名?)を捕獲した。鈴木明は、山田支隊長以下数名の将校の発言を基に、山田支隊がこれらの捕虜を釈放しようとした際に暴動が起こり、自己防衛のためにやむを得ずその一部を射殺したかのように述べている。だが、後日発見された隊員の陣中日記と照らし合わせてみると、この事件が最初から捕虜の殺害を意図して行われたものであったことがはっきりと分かる。そもそも、山田メモの記述を見ても、15日段階で既に師団から捕虜の「始末」を命令されている。軍命令として殺害を命じられた1万名以上もの捕虜を、果たして支隊長の独断で勝手に釈放などできるものかどうか、考えてみれば答えは自明である。この事例は、自らの責任を回避したい一部将校の「証言」を安易に利用することによっていかに事実を歪曲した「ルポルタージュ」が作られるかを典型的に示している。
山田栴二少将(上海派遣軍第13師団歩兵第103旅団(山田支隊)長)メモ
鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』p.190-195
宮本省吾(仮名、第13師団山田支隊歩兵第65連隊)陣中日記
『加害の記録 南京大虐殺「日記」』
(週刊金曜日 1993.12.10 p.18-19)
12/13
至るところ陣地ある地帯を過ぎ、宿泊地を探せど、すべて焼けて何とも仕様がなし。 前進中、先遣した田山大隊が烏竜山砲台を占領せりとの報が入る。 南京は既に各師団が城内そ掃討中とのことなり。 距離をのばし、(台+おおざと)家塘に宿泊。 …午前十時将校斥候となり烏龍山方面の敵情を捜索に出発、途中敗残兵等に会い、騎兵隊と共に射殺す。 …本隊に帰るも、本隊はすでに前進をなし、非常に困難して本隊に追付く。
夕方烏龍山に攻撃に向ふも敵の陣中にあると思えず、敗残兵を多数捕獲し、一部は銃殺す。 夜十時野宿につく。
12/14
他師団に幕府山砲台までとられては面目なし。午前四時半出発、幕府山に向う。砲台附近に至れば、投降兵莫大にて、始末に困る。附近の文化住宅、村落、皆敵の為に焼かれたり。 午前五時出発、南京近くの敵の敗兵を掃蕩すべく出発す。攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る。次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す。夕方南京に捕虜を引率し来り。城外の兵舎に入る。無慮万以上に達す。直ちに警備につく。中隊にて八ヶ所の歩哨を立哨せしめ警戒に任ず。捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、中には二、三日中、食を採らぬ者もあり、喝を訴へる者あり。全く可愛想なるも戦争の上なれば、ある程度断乎たる処置をとらねばならぬ。夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引率し来る。巡警二○○余もあり、隊長もあり、相当訓練的にて人質をしらべる等、面白き事である。少佐とか参謀とか云ふ者もあり。通訳より「日本軍は皆に危害を与へず。唯逃ぐる等暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通じ、支那捕虜全員に対し言達せし為、一般に平穏であつた。唯、水と食料の不足で全く平公(閉口)した様である。
12/15
捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ「始末せよ」との命を受く。各隊食糧なく、困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食料ありときき運ぶ。捕虜に食わせることは大変なり。 一昨日来の疲れのため、下士官以下に警戒をたのみ睡眠す。本日も出発の様子なく警戒に任ず。
中隊は衛兵を多数出し、又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。
夕方より一部食事をやる。兵へも食料配給出来ざる様にて捕虜兵への給食は勿論容易なものでない。
12/16
相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合せをなさしむ。捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。 警戒の厳重は益々加はり、それでも前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す。しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り、非常なる騒ぎとなり、三分の一程延焼す。午后三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、之を射殺す。戦場ならでは出来ず、又見れぬ光景である。
12/17
入城式なり、中山陵、軍官学校を見学。軍官学校は陸士より堂々たり。五時帰る。 本日は一部南京入城式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず。小官は八時半出発、南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加壮厳なる史的光景を見のあたり見る事が出来た。
夕方漸く帰り、直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す。二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一、傷者二、に達す。
12/18
捕虜の件で精一杯。江岸に視察す。 昨夜来の出来事にて暁方漸く寝に付く。起床する間もなく昼食をとる様である。
午后敵死体の片付をなす。暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。
12/19
捕虜の件で出発を延期、午前、総出で始末せしむ。軍から補給あり、日本米を食す。 昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す。午后四時迄かかる。夕方、又捕虜の衣類の始末につき火災起る。少しで宿舎に延焼せんとしたが、引留む事が出来た。
明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かかる。牛肉の油上まで作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす。風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
12/20 下関より浦口に向う。途中死体累々たり。十時浦口に至り国東支隊長と会見。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/yousukou.htm
揚子江上の大虐殺
第16師団歩兵33連隊「南京付近戦闘詳報」
午後二時三十分、前衛の戦闘下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。
『南京戦史資料集』
(笠原『南京事件』p.158)
二千メートル、いやもっと広かったであろうか、その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ。見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた“イカダ”のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、死体の“山”はつづいていた。そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は“屍の河”と化していたのだ。
創価学会青年部反戦出版委員会編『揚子江が哭いている』
(本多『南京への道』p.229-230)
海軍第一掃海隊「南京遡江作戦経過概要」
烏龍山水道より南京下関まで(十二月十三日)
一三二三(13時23分)前衛部隊出港、北岸揚子江陣地を砲撃制圧しつつ閉塞線を突破、沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、殲滅せるもの約一万に達し……一五三○頃下関付近に折から城外進出の陸軍部隊に協力、江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子州付近まで進出し、掃海索を揚収す……終夜江上の敗残兵の掃蕩をおこないたり。
海軍省教育局「事変関係掃海研究会記録」
(笠原『南京事件』p.159)
陳頤鼎氏(元中国軍将校)証言
日本軍の捕虜になるよりは長江の中で一緒に死のうと八人が板に乗り、長江にのりだした。夕方の五時ごろだった。(中略)
そのころ、日本軍の軍艦が長江にやってきて、巡視しながら、長江上の敗残兵を掃射しはじめた。さまざまな器材に乗り、あるいはつかまって長江の流れにただよう中国軍将兵が日本軍の機関銃の餌食となった。また、日本軍艦にぶつけられて漂流道具もろともにひっくり返され、溺死させられた人たちも多かった。戦友たちの無数の死体がたえず近くを流れていく。長江の水は血でそまり、凄惨な光景は見るにたえなかった。軍艦上の日本兵たちが、長江を漂流する無力の戦友たちを殺戮しては拍手し、喜ぶ姿も見えた。このときの怒りは、生涯忘れることができない。
(笠原『南京事件』p.159-160)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/juumin.htm
一般住民に対する虐殺・強姦・略奪
南京城の攻略および入城に関する注意事項 (中支那方面軍司令部、12月7日)
一 皇軍が外国の首都に入城するは有史いらいの盛事にして、長く竹帛(歴史書)に垂るべき事績たりと世界のひとしく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々、将来の模範たるべき心組をもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為など絶対に無からしむを要す。
一 部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、苟も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す。
一 入城部隊は、師団長がとくに選抜せるものにして、あらかじめ注意事項、とくに城内外国権益の位置等を徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置す。
一 略奪行為をなし、また不注意といえども火を失するものは、厳罰に処す。
軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。
『南京戦史資料集』
(笠原『南京事件』p.117-118)
備考:中支那方面軍は法務部を備えておらず、不法行為を摘発できるだけの憲兵部隊をも持たなかった。例えば12月17日時点で、入城兵数7万以上に対して憲兵はわずか17名でしかなかった。方面軍司令部に不法行為を防止する意志も能力もなかったため、この注意事項は全くの空文と化した。(笠原『南京事件』p.119-120)
石射猪太郎氏(外務省東亜局長)の回想
南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取り締まりの用を為さない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。一九三八(昭和一三)年一月六日の日記にいう。
上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。(略)
これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私は当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。
石射猪太郎『外交官の一生』
(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』p.186)
備考:石射氏の日記と回想は、当時日本の政府当局が自軍による残虐事件の発生を知っており、その詳細を把握していたことを明白に示している。なお、外務省は、福井領事の報告をはじめとする当時の記録はすべて敗戦時に「焼失」した、としている。
南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表・付属文書
郊外の民衆で、未だ他所に避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一か所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者にみつかると多くが被害に遭う。背後から撃たれて倒れている者がいたが、逃げる途中で難にあったものである。横臥した形で、刀で突かれて血を流している者は、生きているうちにやられたものである。口や鼻から血を出し、顔面が青くなり、脚が折れているのは、大勢の者から殴られたり、蹴られたりしたものである。婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を刺され、ズボンをつけていない者、これは生前辱めを受けた者である。また、頭をもたげ、目をむき、口を開けて歯をくいしばり、手足を突っ張り、ズボンの破れている者は、乱暴されるのを拒んだものである。惨たるかな、惨たるかな。
毎日夜になると、集団をなして遠方に逃げる。声が聞こえると草叢に隠れたり、田の畦に隠れる。一番危険なのは、夜が明けてから、敵が高所から遠くを見渡すときで、逃げるところを見つかると、すぐ弾丸が飛んでくる。中に婦人がいると、手で止まれと合図して、追ってきて野獣の仕業をなす。言うことを聴かないと殺されるし、言うことを聴いても輪姦されて殺される。立ち止まらずに行こうとする者には、銃声がいっそう激しく浴びせられ、死者がますます増える。それゆえ、農村部の遭難者は都市部より多い。
『中国関係資料編』
(笠原『南京事件』p.94-95)
★ 夏淑琴さん一家虐殺事件 ★
マギー牧師による聞き書き
日本軍の南京城侵入最初の日(12月13日)、日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子どもだけを残してその家にいた者全員、一三名を殺害した。これは、八歳の少女(夏淑琴)が話したことを彼女の叔父と私を案内した近所の老女とに確認してチェックした事実である。
この少女は背中と脇腹を刺されたが、殺されずにすんだ。殺害された人には、七六歳の祖父と七四歳の祖母、母親と一六歳と一四歳の姉と一歳の赤ん坊(妹)がいた。二人の姉ともそれぞれ三人ぐらいの日本兵に輪姦され、それからもっとも残酷な殺されかたをした。下の姉は銃剣で刺し殺されたが、上の姉と母のほうはとても口にできないやり方で殺害された。私は南京でそうした方法で殺害されたのを四件ほど聞いているが、ドイツ大使館の書記官(ローゼン)は、一人の女性は局部に棒切れを押しこまれていたと言っている。彼は「あれが日本兵のやりかたさ」と言った。
私はこれらの死体を撮影した。母親が一歳の赤ん坊と一緒に横たわっている。その小さな少女は、もう一つの一歳の子どもの死体は、家主の子どもだといった。その子どもは日本兵の刀で頭を二つに切り裂かれていた。
「フォースター文書」
(笠原『南京事件』p.150-151)
夏淑琴さんの証言
新路口(Hsin Lu Ko)五番地は、私の家です。
…
日本兵たちは私の父を追いかけ回し後ろから撃ち殺したんです。彼らはとなりの家に住んでいた二人の子供と両親も殺しました。その後、彼らは私の一番下の妹を、彼女はまだ赤ん坊だったのですが、母の腕から取り上げて床に投げつけ殺しました。それから彼らは母の着ているものをはぎ取りました。私たちは広間の反対側のドアの後ろに隠れて一部始終を見たのです。日本兵たちは母を一人残すなんてことはしませんでした。
…
兵士たちが私の一番上の姉をテーブルに載せ、パンツを引き下ろし、繰り返し強姦するところを見たんです。私は三回刺され気を失いました。気が付いたとき二番目の姉が裸で倒れているのが見えました。彼女は強姦され殺されたのでした。
…
彼らが憎いです。ひどく憎い。どうしてそんなに残酷で野蛮だったんでしょう。私たちが彼らに何をしたと言うのですか。本当にわからない!
(『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167)