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『無利子銀行論』 ムハマンド・マーキルッ=サドル (今村仁司 解題)
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/339.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 9 月 10 日 12:09:21:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 産業資本主義の終焉で信用できる人がお金を借りなくなることで代わりに国家に借りさせるのが「新型社会主義」の入り口 投稿者 あっしら 日時 2004 年 9 月 08 日 18:23:12)

スレッドの流れであっしらさんのレスにぶらさがりましたが他意はありません。
銀行業務論を主とする内容は素人には難渋で、なかなか読み進めることが出来ませんとりあえず紹介のみ

『無利子銀行論』ムハマンド・マーキルッ=サドル (黒田壽朗・岩井聡訳)

著者 ムハマンド・マーキルッ=サドルについて
1935年、イラクのカーズィミーヤで代々の学者の家系に生まれる。1945年、一家 はシーア派の聖地の一つであり、学問の総本山
でもあるナジャフに居を移す。ナジャフで教育を受け、ナジャフを本拠として研究し、後進の指導に励む。学問の本領は法学、
特にクルアーンやスンナ(聖行)等の法源から新時代と環境にふさわしい法的規定を導出する法則を検討するウスール学にあり、
名著「イスラーム法学原論』(1977)がある。
しかし、西欧植民地主義に対する闘争、共産主義、社会主義との対決といった、地域的時代的条件の下で、いかに自己主張を貫く
かが、伝統的生き方に賭ける知識人の課題であり、サドルの知的活動もこの分野で輝いた。1960年代前半、『イスラーム哲学』を
刊行するや、隠れたベスト・セラーとなり、次いで刊行した『イスラ-ム経済論』はとりわけ大きなインパクトを与え、人々の知的
自信の回復がイスラーム回帰の潮流を招来した。クウェイト政府の要請に応じ、イスラーム的金融政策の基本となる本書
『無利子銀行論』を著わしたり、タウヒード(一化)の世界観の社会的実現を究極の目標とする、シーア派の学匠サドルの知的関心は
極めて多岐にわたる。
イラン・イスラ-ム革命の翌1980年、大統領サッダーム・ラセインの命により、作家の妹とともに拉致、処刑された。

------------------------
解説 「イスラーム経済の現実的意義」 今村仁司

−略ー

無利子銀行

イスラーム経済では利子取得は認められない。労働だけが収益の源泉であるというイスラーム経済の原
則からみると、利子は不労所得であるから、利子の存在はイスラーム経済からは排除されるベぎである。
こうした禁止命令がイスラーム経済思想にはある。この禁止命令は、宗教思想と一体になっているから、
絶対的である。ところで、銀行は利子なしに可能であろうか、という問いもまた決定的である。歴史的に
見ても原理的にみても、銀行はつねに利子取得を原則とする。利子なき銀行は現実的ではない。イスラー
ム思想が労働主義であり、利子を禁止するなら、定義によって利子つき銀行は存在の余地はない。そうだ
とすれば、イスラーム経済には銀行なるものが存在できなくなる。この隘路をどうきりぬけるのか。イス
ラーム銀行がかりに存在するとすれば、それは普通の銀行ではありえない。それが無利子銀行である。
無利子銀行を論じる場合に、サドルは二つのレベルを区別する。

@資本主義が存在しない場合。この場合には無利子銀行はいわば純粋に活動できる。それは理念的
ケースである。理念的な純粋状態を仮定するなら、イスラーム法と矛盾しない制度を原理的に構想できる。
これは利益中心の商業銀行ではない。それは貨幣を使用するが、貨幣から利子を取得することを目指すの
ではなく、イスラームの宗教精神に基づいて広義の生産的労働の媒介者になる制度である。
無利子銀行の設立を企てる者は、イスラーム的価値やイスラーム精神を内包する新しい理論を世界に
提示する……。したがって彼らは商業的精神だけではなく、自らの行為は、たんに利益のみを目指す
ものではなく、つねに自覚されるような宗教的精神、信条的行動を備えていなければならない。その
代わりにではなく、それに加えて人々を不信の状態、制度から助け出すために断固として宗教的な重
荷に耐えるためには、ジハードを行なうといった心構えが必要なのである。あらゆるジハードは犠牲
を求め、それにたずさわる者に自発的な努力、貢献を強いるのである。(本書、23〜24頁)
だから純粋の理念的なイスラーム経済においては、無利子銀行とは、経済における宗教的行動であり、
それを援助する制度であると言えよう。いうまでもなく、これは経済における制度であるから、宗教の縛
りはあるとしても、あくまで経済制度である。ではこういう制度はそもそもどういう内容なのであるか。
これについては後で論じる。

A非イスラーム経済が競合している場合。利子的環境のなかで無利子銀行を実現していくには、イス
ラームの原則を維持しつつも、現実的環境とのある種の妥協をしなくてはならない。

  銀行は、イスラーム法の諸規定に違反してはならない。……銀行は、現実の腐敗した環境においても、
  十分に機能し、成功し得る能力を持たなければならない。要するにイスラーム的な銀行形態は、現行
  の資本主義的なリバー諸制度、および一般的な社会環境に直面し、著しい摩擦を生じさせた結果、そ
  の活動が麻痺するようであってはならないのである。....イスラーム的形態は、無利子銀行に対して、
  利潤だけを追求する商業的成功を認めるものではない。しかし無利子銀行は、その形態において
  あくまでも銀行として成功しうる能力を持つ必要がある。つまりそれは経済生活において実際に諸銀
  行が行っているのと同じ役割を果たさなければならないのである。(19〜20頁)

本書の議論は、この第二のレベルで行なわれている。したがって、議論は非常に錯綜してくる。なぜな
ら、この銀行論は、普通の意味でのテクニカルな銀行信用論でもないし、資本主義銀行のように利益をあ
げるための技法論でもなく、あくまでもイスラーム法の精神を顕現させるものでなくてはならないからで
ある。他方で、この銀行論は、資本主義的環境の中では、普通の銀行と同類の銀行でもなくてはならない。
このジレンマを可能なかぎりなくすことが、イスラーム銀行論の課題になる。純粋主義からいえば、資本
主義制度とまぎらわしい銀行業務をすることは、堕落と腐敗である。現実との妥協のなかでイスラーム精
神を貫徹させるという看板も、場合によっては、いかがわしい背信と見られかねない。その危険を回避す
るためには、リアリスアィックな理論家は、商業主義的行為と区別のつかない業務をも、イスラーム法に
照らして合法的であることを論証することを余儀なくされる。本書の議論はまさにこうしたスタイルで最
後まで続けられる。
イスラーム銀行がやる行動は、形式から見れば、普通の商業銀行となんら変わりはない。しかしこれら
の同じ行動が、制度を支える精神からみれば、まったく異質のものであると、本書は主張する。このまわ
りくどい主張は、いったい何を語ろうとするのであろうか。例えば、こう言われている。

  リバー[利子]を抑制する無利子銀行が、利子つきで個人や企業にカルドを供与することは禁じられ
  ているが、イスラームと無縁な民間銀行や、イスラームを適用していない政府の銀行に、利子つきで
  預金することは認められている。すなわちカルド供与者としての無利子銀行は、カルド借入れ者から
  利子を徴収することはでぎないが、一般銀行の預金者としては利子取得が可能である。(24〜25頁)

この側面を強調するならば、イスラーム銀行が存続するためには、非イスラーム銀行が不可欠になると
いうほかはない。銀行の財政基盤を維持することが、責任を果すことだと言われているが、実際には、商
業銀行への預金から入る利子収入をあてにするのだから、実際の運用では無利子銀行は利子的銀行と本質
的には変わりないのである。

理論的な純粋主義から理想的制度論を提示してすませばよさそうなところを、敢て妥協的議論を組み立
て、煩雑ともいえる一種の決疑論を繰り出すには、それなりの理由があるのでなくてはならないだろう。
ごく皮相にいって、イスラーム銀行といえども銀行たるかぎり、普通の銀行と同じ行動をするほかはない
から、それを宗教の衣をかぶせて現実的適応を事実上獲得することを目指しているのであろうか。要する
に、利子禁止の宗教的命令は与件であるのだから、実際には利子獲得行動であるものを、そうでないとし
て弁明する理屈をこねあげているのだろうか。勿論、著者はこうした難点を覚悟のうえで、利子的環境の
なかでの無利子銀行を論じている。

さて、商業銀行への預金収入を財務基盤としながら、そしてその限りでは資本主義的行動をしながら、
あえて無利子銀行の成立可能性を主張するとき、この特異な銀行とは内容的にいってなにものであろうか。
この銀行形式のもとでは、銀行らしいのは、銀行が預金者から資金をあつめて、その資金を生産者に提供
するという点にある。しかしこの資金の運用に関しては、この銀行はもはや銀行らしくない。それは預金
者の代理人という意味では「銀行」であり、この「銀行」は預金者の利益をまもらなくてはならない。し
かし「銀行」は貸付金の利子収入から預金利子を払うということはしない。「銀行」はいわば生産的事業
の共同経営者として行動し、この事業の収益から預金者への配分所得を引き出す。言い換えれば、この
「銀行」は、流通経済で活動するのではなく、基本的には生産者なのである。「無利子銀行は労働そのもの
を強調する傾向にあり、この性質に立脚した利益を追求する。……無利子銀行が労働の対価としてのコ
ミッションを重視し、かつコミッションに基づく収入源の拡大に努める……」(22頁)。要するに、無利子
銀行とは、銀行的形式をとった生産的事業体なのである。ここに、サドルが『イスラーム経済論』で強調
していた原則、すなわち労働だけが収入の源泉であるという主張が現われている。たしかに銀行であるか
ら、資金の仲介者的役割をもつが、実質的にはこの銀行は生産者なのである。無利子銀行は「労働する」。
この一点があるからこそ、無利子銀行は、たとえ他の種類の銀行への預金から利子を取得しても、イス
ラームの原則に抵触しないと主張できるのである。本書は、仲介業務の細部の吟味ばかりが前面に出てい
るので、無利子銀行の労働論的側面が影をひそめているが、労働の問題を無視するわけにはいかない。無
利子銀行は、生産的労働をするという命題をおとせば、たんなる有利子銀行でしかない。


生産者としての無利子銀行

サドルは無利子銀行の労働論的性質を論じるにあたって、イスラーム法にいう「ムダーラパ」を強調し
ている。その定義はこうである。「イスラーム法学におけるムダーラパとは、事業を開始するさいに、資
本家と資金需要者とが締結する特定契約である。この契約により、事業資金は資本家から拠出され、労働
力は資金需要者から提供される。そして両者は、契約によって定められた割合によりそれぞれの利益配当
を行なうのである」(35〜36頁)。これがムダーラバ契約の一般的な形式である。ここでいう「資本家」は
任意の誰でもいいが、現実には、預金者のことであり、銀行はその代理である。実際の運用から見れば、
ムダーラバ契約は、「資本家」としての「預金者」を代理する「銀行」と資金需要者(本来の生産者)との
契約である。
この場合、「資本家」としての「銀行」は、資金需要者の返済能力に応じて資金を貸し出すように見え
るが、そうではない。担保をとって貸し出すなら、それは有利子銀行の行動スタイルである。そうではな
くて、無利子銀行は、資金需要者すなわち事業者のプロジェクトにまで介入する。「資金需要者が行なお
うとする事業の性質を彼らとともに検討し、それに基づいて資金需要者と対応する」(84〜85頁)のである。
つきつめて言えば、サドル的な無利子銀行は、資金調達面では仲介者であり、その限りでのみ「銀行」
であるが、他方では、そして実質的には、それは資金力を支えにした共同事業者、すなわち生産的労働の
一方の担当者である。こうした性質をもつ無利子銀行を現代の現象に翻訳していえば、それは、ある意味
では小規模の「計画経済センター」といえるだろうし、他の観点から見れば、公的な無償援助機関ともい
える。計画経済体制も無償援助制度も、基本は、資金の無利子的供与である。しかもそれらは同時に共同
開発の重要なパートナーである。サドルもまたこの点に気づいている。

  発展途上国の場合に銀行は、それを重要な金融手殺としているその国の経済発巽において先駆的な役
  割を果さなければならない。またその国の工業の発展に実質的に参画し、その発展に寄与する必要が
  ある。……発展途上にある経済や産業が要求する援助や発展の必要性にこたえ得ること。(20〜21頁)

してみると、無利子銀行は、なんら奇妙な逆説を弄しているのではなくて、ひとつの現実的な制度であ
り、その制度の実現を目指す提言は現実のイスラlム経済圏の要求にそっている。それは、低開発状態に
ある経済を発展させていく開発戦略であるばかりではない。それをこえて、利子取得的経済の回路をある
意味では乗り越える方向をすら秘めているだろう。無償供与という援助体制は、政治主義的に利用される
のではなく、該当する国民経済の正常な発展に活用されるなら、それはまさに無利子銀行論的経済政策に
なる。


普遍的可能性

サドルの無利子銀行論は、その文化的遺産としてイスラーム法の制約があるおかげで、独特の無利子銀
行という名の共同事業論あるいは経済援助論を構想することができた。イスラーム法による利子の禁止命
令は、理論的構想の制約でもあり、同時に理論的展開の推進力でもあったといえよう。あるいはこうも言
えようイスラーム法的利子批判のおかげで、かえって不労所得的利子制度を越え出る可能性を模索す
ることができたのだと。古い文化的伝統が制約条件であるかにみえて、実は通常の商業経済あるいは資本
主義制度にはない経済制度を生み出す力になるひとつの有力な実例がここにある。イスラlムの原則を護
持することから、かえって普遍的生質をもち得ると期待される一つの経済制度がこうして生まれた。
普遍的性質をもつ制度であることを強調するために、とりあえず、「計画経済」と「無償援助」に言及
してみたが、これを別の形で考えることもでぎる。西欧の十九世紀は、共同組合運動の時代でもあった。
さまざまな共同組合が構想された。ユートピア的共同組合論もあれば、現実の相互扶助組織論もあった。
そこから政治的性質の労働組合が発展していった。しかし生産事業の傾向を色濃くもっている共同組合の
実験的構想もあった。なかでも有名な共同組合は、サドルの無利子銀行に類似した「無償銀行論」である。
この構想は、主としてプルードン派無政府主義から提案された。マルクスは政治的だけでなく、経済理論
からも、この無償銀行論を批判した。無償銀行論は、思想史では、マルクス派とプルードン派との論争と
してわずかに記憶されているにすぎない。しかしこの無償銀行論は、単なる銀行論や信用論ではない。そ
れは生産的共同組合論のひとつの在り方を模索し、そうすることで資本主義的でない経済制度を模索する
ことであった。挫折したとはいえ、そこには発展可能な芽があったのである。十九世紀の無償銀行(信用)
論とサドルの無利子銀行論とを比較してみると、共通していることがわかる。なによりも、それが資金集
積所としての銀行形式を使いながら、実質的には生産的共同事業であるという点がきわだっている。無償
銀行論は、十九世紀的無政府主義という文化的背景を背負って出て来たし、無利子銀行論はイスフーム法
の利子禁止命令に制約されて構想された。両者を、それぞれの文化的思想的背景から切り離して、より普
遍的な内容へと展開していくならば、忘れられた可能性を目覚めさせることもでぎるだろう。この可能性
は、決して絵空事ではなくて、すでに指摘したように、ある程度の具体的実例さえすでにもっているので
ある。言い換えれば、われわれは、国際政治的考慮から、政治戦略として自然発生的に登場してきた援助
計画を、無利子鍍行論から読み直して、そのなかに含まれている可能性の芽を育てる必要がある。無利子
銀行論とは、いまでは、現代国際経済の経験と政策を批判する武器になるとともに、
じて、別の可能性を読解するコードにすらなるのである。

相互扶助経済の再建の試み
無利子銀行とは、実質的には、相互扶助経済システムであり、より正確には相互扶助経済を実現する調
整機関である。人類の歴史的経験を省みれば、利子的経済の歴史は浅い。反対に、地球上のあらゆる人間
たちとその集団は、その規模の大小に拘らず、どこの地域でも、すなわち西欧と言わず、アジア、アフリ
カ、コロンブス以前のアメリカ大陸、アラビアからぺルシャを通って中国にいたる遊牧世界、そしてオセ
アニア地域の全領域で、支配的な経済制度であったのは、人類学の用語で言えば、互酬性(レシプロシ
ティー)経済であった。これをマルセル・モースの言葉を使って贈与経済システムと言い換えてもいい。、
相互扶助経済あるいは贈与軽済が歴史史的敗北を契するのは、西欧におげる資本主義経済の勃興の時期を境
期に対応していて、国民国家はその経済システムを、まずは重商主義政策をもって育成し、次いで産業革
命の時期から産業経済システムへと転換させていく。
こうして、およそ十九世紀への転換期ごろには、資本主義経済の骨格はほぼ確立していく。十九世紀の
前半期には、およそ相互扶助経済は消滅していた。人類が久しいあいだ経験してきた唯一の経済システム
は完全に存在の余地をもち得なくなった。この背景を考慮して、十九世紀の社会思想を考えてみるなら、
当時の思想家たちが途方も無い「驚き」を経験したことがわかる。前に指摘したプルードンたちが直面し
ていたのも、伝統的経済の消滅と人間存在の変質という世界史的経験であったのだ。彼らが資本義を告
発し、それにとって代わる経済システムを考えるとき、かつての相互扶助システムを想起するのは当然の
ことである。なぜならそこにしか代替案はないはずだ。しかし単なる空想であることを回避するためには
利子的環境すなわち資本主義環境のなかで、それに制約されるなかで、いかにして相互扶助経済を実現
でぎるかという問題を解決しなくてはならない。困難な問題であり、当然にも挫折を運命づけられるが丶
だからといってそれは無意味ではなかった。その問いは、現在の問いであり、革命主義もまたそれと取り
組み、そして挫折した。十九世紀の問いは現在の、そして将来の問いでもありつづけている。

アラブ社会でも、同じ問いが提起されるのは、こにおける宗教心性が古代的な相互扶助心性であるか
ら、一層のこと当然であるだろう。イスラーム経済は、当初から相互扶助経済であった。資本主義あるい
は擬似資本主義商業の発展のなかで、イスラーム的相互扶助経済は変質してきたことも事実であろう。し
かしまさにそのゆえに、商業的、利子的環境のなかで、イスラーム経済の理念を貫徹するためには、利子
的環境を利用しつつ、理念を制度を通して定着ていくほかはない。資本主義への代案が政治革命に
よっては不可能であることを確信するイスラームの人々は、彼らの伝統からその理念的エネルギを汲み
出すほかはないし、それは歴史的に正当な手続きである。かくしてサドルの『無利子銀行論』が登場した
のである。繰り返すが、それは本質的には銀行制度論ではなく、資本主義に対する別の選択肢であり過
去の反復ではなくて、現代的環境を与件とした現実的な構想である。
−略ー

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