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近年の日本の社会科学における最大の弊害は、大局的視点における戦略性の欠如だろう。その噴飯に関しては、本掲示板に至る多くの有志が共有し、問題視しているのではないかと、現時点での率直な感想を朗詠する。だが大局的な視点は、常に気分と状況の中に位置し、私たちは、『足場』を見誤ってはならないのではないか。故に、外交、軍事に先行し、国内の集積、競争、流動の経済三要素を左右する、『運輸』、『金融』、『情報』を検討したい。本編はその一角である。
観念論ではなく、生活の際の感想より、私が確信する所は、鉄道の長所である。70年代〜80年代に掛けての、一種のモーター化(自動車優先化)により、鉄道は過去へと忘却され、既に東海道新幹線が開通する前年より、国鉄は赤字運営に至る。昭和後期の、「昭和三大馬鹿査定」の標語により、槍玉に挙げられたのが、「戦艦大和」、「青函トンネル」、「整備新幹線」であった。ここで詳論を述べる余裕は無いが、凡そ巨艦巨砲主義は、昭和十六年の日米開戦当時には有効であったと考えられ、実際英国、独国等では、それらの建造が続いていた。過失として、戦艦大和の「情報公開時期」を過った事と、戦艦を護衛する零戦機の不足が考えられる。尤も、私は軍事専門家ではないので、無責任な発言は慎みたいが、可能性は複数考えられ、「青函トンネル」に関しても、北海道新幹線の開通、新幹線の高速化が実現すれば評価は糾されるに違いない。「整備新幹線」は、一時期冷ややかな目で見られたが、環境効果などが声高に叫ばれ、その他多くの要因と相成って評価は修正され、今に至る。私は鉄道の長所を、文頭に掲げたが、それは多くの論者が指摘するような、中距離間の輸送比較優位性ではなく、「共同体」間の、直接的な連絡性である。
現在外資の攻勢により、その存在が危ぶまれているが、街の中心に位置する多くの商店街を、歴史的な鉄道路線は、効率的に通過している。仮に左翼進歩派が掲示するような、境(ボーダー)に対する共同体の存在(コミュニティ)を重要視するなら、現行の鉄道網の理論的価値は高まるが、此処で重要なのは、それが社会的構造性を持つという事だ。単に鉄道網の保護に留まらず、商店街の保護、共同体性の重要視は、歴史的連続性を持つ民族資本(適切な語彙が存在しない為、朝鮮史から歴史的概念の引用を行うが、つまり当事国の公共性を尊重する資本である。)の有用性を明確にする。少々考えに耽って欲しいが、商店街の経済性は周囲の農村と関係し、また基礎インフラの存在価値を最大化する。つまり『街』の防衛は、日本国の「経済効率」と、「雇用保障」を最大化するのだ。それに対しては異議も有るだろう、つまり国際的なボーダーレスの概念は、『世界』が、経済効率と雇用保障を最大化するのではないかというものだ。彼我の見解の相違は、『街』と『世界』の間隙で、「国家」をどう解釈するかという、地政学的な問題に至るが、私は簡単な例示をして、この議論を収拾する。つまり、ボーダーレスに関しても、『ブランド化』は極めて有効であり、それは最終的に『街』の魅力に回帰するのではないか。その事を詳述すれば、グッチやシャネルといった、ネームブランドに対して、「カントリーブランド」の重要性を私は訴える。北海道で産出された農産物は、「北海道」というカントリーブランドに由来し、その価値を高める。逆に「アルゼンチン」は、私達がアルゼンチンを深く理解しない故に、カントリーブランドを訴える事は難儀である。ブランド化は1980年代以降の概念であるが、大量生産からの脱却を果たした21世紀の知価社会において、その意味は更なる概念領域を獲得するだろう。北海道産の石炭が、富裕層の暖炉で使用され、温かみを伝えるものに成り得るのかもしれない。
鉄道網の有用性に関して、指摘したが、その事を応用し整備新幹線に関しても、射程を拡張する。私は長野県北部の住民であるが、私は代表者としての特権を些か勝手に代行し、感想を書いてみたい。北陸新幹線の長野までの開通は、『運輸』の効率化を達成したが、@運輸とは運輸する事其れ自体が目的ではなく、必然的に滞留する箇所を必要とする。Aまた滞留する箇所が、前提として存在していて、その間の壁を突き崩す能力も、北陸新幹線は保有している。@に関しては、主体性の無い土地は寂れ、主体性を大いに獲得する非日常性、物語性を獲得した観光地等では、観光客の誘致に成功している。前者が長野であり、後者が軽井沢である。長野というと、善光寺に代表される様に多くの観光的主体性を持つように思えるが、実態は厳しい。敢えて言うならば、「長野」でさえ駄目なのだ。今後北陸新幹線が伸張する北陸方面に関しても、よほどの集客方策を構想しなければ、地方の中枢都市の運命は危ういと言える。Aの問題に関しては、確かに北陸新幹線の長野までの部分開業は、北関東と長野の壁を取り払った。実質、高崎周辺に企業の中枢を設ければ、おそらく北関東と信越の大部分は影響下におけるのではないか、無論、私は経営の実践者ではないが。北陸新幹線が北陸まで延伸されれば、北信州から北陸まで、大いに経済上の地殻変動が予測される。現在長野市から金沢市までは、高速道路の開通を除外すれば、鉄道網において直通の特急は存在せず、4〜5時間の乗車時間を要請されるが、新幹線の開通後は、1時間程度となるであろう。九州新幹線の部分開業に関してもそうだが、この短縮化は有意義であり、更に京都方面に延伸されれば、有効性は飛躍する。
北陸新幹線に関して要約すれば、共同体周辺の民族資本を温存した状態で、更に地域間交流により経済効率の達成が望まれるのであるから、問題視すべきなのは、結局共同体のあり方なのだ。主体性の存在しない都市は、大都市に都市機能の一端を譲渡する形式で、主に時間産業(ホテル・夜行列車、等)の衰退は予測出来る。私は軽井沢モデルを適応する事で、幾つかのヒントを例示したいが、東京近郊の経済活動を更に向上させ、外資を敢えて利用し、集積、競争、流動という経済の要素を徹底する事で、高所得者を輩出させる。今風に言えば「勝ち組」の創造だ。「勝ち組」の創造は、多くの社会科学的考察を必要とし、また社会の階層化に気を使わなくてはならないが、端的に@集積、競争、流動の徹底は東京市周辺に限定する。と、A限定するという目的を達成する為に、道州制の導入と地方分権を徹底する。とし、東京がもはやその経済構造のあり方において非日本的、近代的な悪弊と想定するならば、地方の活性化により、『経済』に対する『文化』の優位性を説くべきだ。本来東京とは運命論からして、近代的であり、日本国内が今後経済の量的成長から、質的成長に変移するなら、東京は唯一の量的成長基地として有用性を発揮し、日本国内に富を還元すればよいのである。そして整備新幹線(北陸新幹線)こそが、その富を運んでいく、特急である。主に東京に見られる高所得者は、‘今の日本が世界的に見て高所得である事からわかるように’、非日常性を要求する。其れは端的に、別荘、第二住居という形式において発現するだろうが、北陸新幹線の通過点である、現新潟県糸魚川市周辺に、ある種の軽井沢を擬態した、第二住居観光都市を建設するのはどうであろうか。この地は、翡翠海岸という神秘的な海岸を抱え、海に面し、すぐ後方には白馬山系の山々が連なる。また定義を必要とするかと思うが、第二住居とは頻繁に使用する別荘である。無論、この想定は一例に過ぎないが、第二住居観光都市の可能性は、今後の日本全体の人口減少を補填し、活動人口を増加させ、また移動自体が、北陸新幹線の輸送利潤となる。仮に家屋を二つ持つなら、其れに応じた家具も必要であろう。この可能性は、仮に東京市の住民が半分でも良いから経済的に成功し、かつ‘文化的な開拓者としての高貴を堅持する。’という前提において、日本経済、日本文化の妙薬となる可能性が認められるであろう。今は未だ誰も気にしていないが、『経済的格差』を、修正するという意味においても、大いに有効であるのだ。
最後に地方分権論の隆盛に関して、少々述べるが、結局地方分権することで、外資の受け入れ先を、大量に設けるという事ではないのか?日本全体が均質であるなら、日本経済の統治拠点は、東京一箇所でも可能だが、多様化した社会の前には、それに応じた統治拠点が必要である、という事なのであろうか?私は悪戯にも邪推する。
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