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参照スレ
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/263.html
南青山さん どうもです。
このようなレスをいただけるとは望外の幸せです。
このままひっそりと底の方に埋もれていようかとも思いましたが....
>ウエイン町山は知っていますよ。
>大昔、彼が駆け出し編集者のときに、一緒に仕事をしたことがあります
やっぱりそうでしたか(笑)
>でも、本質的に面白かったのは3号くらいまでですね(そのあたりでネタが出尽くした)。
>それでもサブカル的視点(といっても宝島流ですが)での情報発信力はたいしたものだと
>思っています。
「Vol.1 エド・ウッドとサイテー映画の世界」には驚嘆しましたね。小林信彦、川本三郎
(芦屋子雁氏の様なハイパーマニアは別格として)あたりを第一世代とすると第二世代ぬき
でいきなりウェイン町山、江戸木純の世代が出てきた。(私がものを知らなくてそう見えた
だけかもしれませんが)
ティム・バートン監督ジョニー・ディップ主演の「エド・ウッド」が94年、天下の早川書房
からエド・ウッドの伝記本まで出ていましたし、時代の空気にのった、あるいはのせたんでしょう。
「LAコンフィデンシャル」の原作者”アメリカ文学の狂犬”ジェームス・エルロイの
「ホワイト・ジャズ」のなかで「Plan9 From OuterSpace」のセットらしきものが登場する
んですが(Linux・*BSDですっかりかすんでしまった感はありますが)個人的には「Plan9」を
思い出します。いかにもエド・ウッドの映画はハッカー御用達風なんですが、この命名は
デニス・リッチーの趣味なんでしょうかね。
エド・ウッドについては
http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/worst/dir/wood.html
Plan9については
http://www.cs.bell-labs.com/plan9dist/
http://www.ntl.co.jp/2/product/inferno/plan9_body.html
>ラス・メイヤーのインタビューはもう一度読んでみることにします。
もし必要なら全文UPします。(笑)
映像論的な話は少ししかありません。ほとんどただのエロおやじか..という感じですね。
とにかく日本からインタビューに行ったという「歴史性」だけかもしれませんが、ラス・
メイヤーもなんとなく嬉しそうです。
>ちょうど、ラス・メイヤー関連の仕事を進め始めたところでした。
>手元に「ラス・メイヤー・ヴィクセン・ボックス」が来ていて、少しずつ目を通している
>最中です。
いやー、うらやましい。2万4千円はちょっとなぁ、モノがモノだけにTUTAYAでレンタル
っていうのはないでしょうね。
>不思議な監督ですね、ラス・メイヤー。
>ミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」を思わせたり、フランスのヌーヴェルバーグ
>を思わせるところもあったりして、なかでも時代を超越した絵作り(たとえば、でき上
>がったときにすでに古くささを感じさせる映像とか)がなかなか興味深かったです。
「女豹ビクセン」は昔見たはずなんですが、中身はさっぱり覚えてない(苦笑)ので推測
ですが アメリカン・ニューシネマの「先行する諸形態」かもしれません。
「チャーリズ・エンジェル」(TV版)も、「Faster,Pussycat! kill! kill!」(しかし
すごいタイトルだ)のパクリじゃないかと。
(そういえば上記のインタビューの後書きで町山氏が藤田敏八監督の「野良猫ロック・
ワイルドジャンボ」の話をしてましたけど、「キル・ビルVol2」のエンドスクロールで
梶芽衣子の「恨み節」が流れたのには仰天して椅子から落ちそうになりました。)
わたくし的には渡辺邦男、石井輝男らの新東宝の流れを思いだしました。まぁ、前田通子、
筑波久子らのグラマー女優からの連想なんですが(笑)
鈴木清順や若松孝二もそうですけど決してインテリじゃない、アルチザン(職人)ですね、
少ない予算、安いギャラでいか映画をつくるか。
でも、あんまり深読みしてインテリのおもちゃにしちゃいけませんね。サブカル批評は
一種の諧謔なんですが、バックグランドには物凄い知識(といっていいものか)は必要で
素人が下手に真似をすると悲惨なんですが、逆にまともに出したら洒落にならないという
...やり過ぎるとスノビッシュになるけど。
>徹底的に乾いた空気感をスクリーンに全開させるという点で、日本で似た監督を捜すと、
>三池崇史とかになるのでしょうか。いろいろ考えがいのありそうな監督ですね。
「カタクリ家の幸福」「ゼブラーマン」は見ましたが..子どもが哀川翔のファンなので
「一緒に行こうぜ」と誘ったのですが、「かぶり物の翔さんはイヤだ」と言っておりました。
>啓蒙思想でいえば、カントは「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである、
>ところでこの状態は、人間が自ら招いたものであるから、彼自身にその責めがある。」と
>「啓蒙とは何か」の冒頭に記しています。
>この伝でいえば、宮台は啓蒙思想家なんでしょうね。
>でも、人間は未成年状態から、自覚的に抜け出ることなんでできるのだろうか、なんて思って
>しまうわけです。
いや、カント的に言えば啓蒙とは「強いられたもの」です。人間が「成人」になることは
自然史的な過程で選べないが、引き受けなければならないものがあると解釈します。
これはカントの第三アンチノミー(二律背反)
「人間は自由であり原因でありえる」vs「人間は原因に規定され自由はありえない」
に関わる話だと思います。
『道徳形而上学原論』から引用しますが
「しかし我々にはなお一つの方策(循環論証から抜け出るための)が残されている、すなわち
――もし我々が自由によって、自分自身をアプリオリに作用する原因と考えるならば、我々が
自分自身を、我々の行為によって生じた目前の結果と見なす場合とは異なる立場がとれるので
はなかろうか」
つまり、自由とか「主体」と呼ぶものは強いられたものとして現前する結果をあたかも自ら
選びとったものとして引き受ける「態度」 にしかないということです。人間は感性的世界
においては思惟は物質性に規定され、法則性=物自体に従がわざるを得ない、しかし理性的
世界においては、そうした経験的な自己を「かっこに入れる」事が出来る、フッサールだと
エポケー(判断停止)ですね、ただし理性的世界というのは経験的な自己を「上から見下
ろす」様な「超越的」なものではない、むしろ感性的世界からの「視差」、デリダのいう
「差延」としてしかない、カントの言う「超越論的主観」というのは「超越的」ではない、
逆にそのような立場が如何に不可能であるいうことです。
歴史には意味も目的もない、人間には先験的な「自由」とか「主体」などというものは無い
んだ、それは「自由であれ」という定言命法に従う、それを敢えて選び取るという倫理性に
おいて見出されるものだと言っているわけですね。これは一種の「ダブルバインド」ですから
非常にキツイ。 カントにとって道徳というのは「共同体の掟」ですが、倫理はいわば
「共同体と共同体の間」にあるもの、善悪の彼岸を超えたものです。ただし従わなくても
何の罰則もない「掟」ではありませんから。「そういうものでしかなかった」という事
に過ぎません。「宗教」じゃないんで従ってもご利益があるか判りません。たぶん無い
でしょう(笑)
>小生の敬愛する市川浩は「〈中間者〉の哲学」の中で、「未完結である断片が基本であると
>いうことは、他とのかかわり(相依性)が基本になるということである。それは自己を集団
>に同一化したり、集団を自己化したりする日本的な甘えの関係ではないはずだ。「私は他者だ」
>という認識にとどまらず、「他者の他者性」こそが、断片の認識である。他者の主体性の把握
>こそが、自己の主体性の開示である。自己の自己にたいする関係は、〈他者〉とかかわらない
>かぎり、いくらそこに他者を見いだしても、それは自己を脅かし、震撼させる偶発事とはなら
>ない。」と書いています。
言わんとすることはわかりますが、市川さんの言っているのは独我論、ロマン主義批判の
文脈でしょう。「無意識」とか「身体」いうのはフロイトが言い出したわけではなくフィヒテ
などのロマン主義者も言っている。むしろ啓蒙主義の反動としてありふれたものに過ぎません。
カントの理性批判(フロイトもそうですが)に美学的、神秘主義的なものはありません。
誤解があるかもしれませんがカントは18世紀に生きた「ポスト」啓蒙主義の人です。啓蒙
主義自体をどう定義するかという問題はありますが、雑駁にくくると根底にはデカルト的な
機械的世界論があって、理性の灯で暗闇を照らして、非合理な世界を世界を作り変えれば良い
という事でしょう。ある意味で非常に暴力的なものです。
カントが『プロレゴメナ』の冒頭で「自分はヒュームの懐疑論に震撼させられた、まどろみ
から覚醒した」と言っているけど、ヒュームの懐疑論の核心は因果論−原因と結果の相関に
ついての根底的な疑念=理性批判ですね、いわば究極の原因なんてものが本当に人間に判る
のかということです。
すでにカントの時代には啓蒙主義は絶対の「正義」ではなくなっていたわけです。
当時のドイツでも啓蒙主義は隆盛を極めた、しかしドイツの「後進性」から政治的には
徹底的に無力だったわけです。日本的な文脈で言えば「近代の超克」ですね、ありもしない
近代を想像的、美学的に乗り越えるロマン主義−西田哲学や保田與重朗の日本浪漫派の流れ。
カントの「理性批判」というのは「人間の主観的能力の限界を示し形而上学をその範囲を
超えた「理性の越権」とみること」(柄谷行人)です。
『純粋理性批判』から引用すると
「人間の理性はその認識の一種類において特殊な運命をもっている。−−理性は斥けんと欲して
斥けることができず、さればといって、それを解答することも出来ぬ問題によって悩まされると
いう運命をもっているのである。斥けることが出来ぬというのは問題が理性そのものの本性に
よって理性に課せられたものであるからで、解答できぬというのは、それが人間の理性の
あらゆる能力を超えているからである。」
鶴見俊輔が言っていますが実証論理学的に見も蓋もなく言えば「偽問題」です、ラッセル
から言われたようですが、「全てを疑うというのは論理矛盾で成立しない。しかしそういう
感情をもつのは理解する」ということで、カント的に言えば「超越論的仮称」ですね。
カントは「論理以前の論理」「論理が生成する論理」を初めて問題にしたわけです。
必ずしも成功したとは思いませんが。
市川さんのいう「他者の他者性」というのは良くわからないんですが(トートロジーではない
ですか?)問題は吉本隆明が言っていたと思うけど、他者の絶対性ではなく「関係の絶対性」
ではないでしょうか。カントが『実践理性批判』で言っている「物自体」とは他我そのものです。
議論板のスレで引用したのですが柄谷モードで言えば「物自体も他者も「この私」が生きようが
死のうが存在する。しかし、私の認識する対象であるかぎり、他者は物自体ではなく、主観
によって構成された現象である。だから、他者(物自体)は、実践的(倫理的)な関係に
おいてのみ在る 」ということで、市川さんの論でカントは批判できないと思います。
ただし、(前に書きましたが)他者を理解するとは「この私」との差異を見出すことであり、
「この私」もそのなかで見出されるものである、平たくいえば「この人はなぜこんな考え
方をするんだろう」という「視差」において「そのように考えない」私が現れて来るという
意味で同意します。
「同じ日本人だろう」「こころが通じた」と言っているなら「他者」は必要ありませんね。
それは他者ではない、鏡に映した自己の投影に過ぎないわけで、「私に言えることは全ての
人に言える」と言って山の洞窟にでも籠っていても全然オッケーですから。(笑)
そんな他者が何人賛同しようと真理の保障にはならないとデカルトも言っていますし。
ドゥルーズの『スピノザ』で言えば「身体=大いなる自然」と繋がる問題と言ってもいい
と思います。人間は自分の手足を意思によって動かすことが出来る、しかしなぜ出来るのか
はわからない「はたらき」としてか知ることが出来ないという事です。人間の思惟も
「大いなる自然」のはたらき=衝動ですが、人間は身体を超えられない、しかし何故かと
考える、「観念」を持つことができるわけです。観念とは思惟を反省(批判)したもので
あり、そういう意志においてのみ、自由でありえるという事だと思います。
なにかムチャクチャな話になりましたが、長くなりましたのでこの辺で。