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(回答先: 「労働が価値を産む」という思想を奉じている政党は、労働できない、価値を産まない障害者など 投稿者 こいけ 日時 2004 年 10 月 19 日 12:17:34)
(「Wave」14号・16号・17号より転載)1999年
http://www.iris.dti.ne.jp/~globe/minnanohiroba/1999.htm
茨城青い芝の里内龍史会長より「私の障害者運動史」を投稿していただいた。里内さんには、3年半前のハンストテントの頃から、地元の支援者の中心となってたたかいを支えて頂いている。今も当該の地元での生活の場作りの中心となって頂いている。青い芝の運動論などには異論もあろうと思うが、障害者運動についてともに考えて行くきっかけとして欲しい。
私の障害者運動史 里内 龍史
◆ 青い芝の運動とは
《 全国「青い芝の会」綱領 》
一、自らが脳性マヒ者であることを自覚する
一、強烈な自己主張を行う
一、愛と正義を否定する
一、われらは、健全者文明を否定する
一、安易な問題解決の路を選ばない
青い芝の会は脳性マヒ者で構成する全国組織である。組織原則は脳性マヒ者による脳性マヒ者のための運動である。青い芝は単なる障害者別団体ではない。脳性マヒ者は能力主義社会では殺される人間である。青い芝の運動は、障害者解放運動といわれる運動の元祖である。障害者解放運動といわれる運動が生まれる前の障害者運動は厚生省へのお願い
運動と全国障害者問題研究会の権利保障を要求する運動しかなかった。それらの運動の目標は物取り。青い芝を代表とする障害者解放運動といわれる運動は、具体的には主に国(行政)が敵だが、国を支えているのは健全者の社会である。だからその社会に生きているあなたも告発する対象になる。それは女性と男性やアメリカの黒人と白人の立場の違いと同じである。障害者と健全者とは対等平等ではない。健全者は障害者からいつでも逃げられるが、障害者は自分の障害から逃げられない。それに気づいて障害者とかかわってほしい。
青い芝を代表とする障害者解放運動といわれる運動は、健全者優先の社会に障害者の存在を認めさせ、障害者の人権を確立する運動であり、運動の最大目標は優生思想との対決である。
私の思想的遍歴は、養護学校時代から語らねばならない。母が肢体不自由児父母の会の会長、父が障滋協(障害者の親や特殊学校の教師による障害者の発達保障を願う滋賀県の要求団体)の事務局長という家柄もあり、少年の頃から、わりと障害者運動とは近かった。父から、広島や長崎の原爆の写真集を見せられたり、反戦歌手がベトナム反戦を訴えるラジオの深夜放送を聞いたりして、「戦争に反対」という思想が芽生えていった。社会党と共産党が中心になって各地に革新知事や革新市長が生まれるという時代状況で、父が日本共産党(以下日共)の支持者ということもあって、理論としては分からなかったが、私には「左がいい」という雰囲気があった。
父母の会のキャンプや行事にいつも参加し、ボランティアの学生と交流していた。その学生の中で、一年一回の行事だけではなく、障害者・児と日常的なかかわりを持とうとする学生が生まれてきた。そのなかに、青い芝の横塚さんら障害者差別と闘う運動をしていた人とかかわっていた学生がいた。当時(70年代半ば)は、「さよならCP」という神奈川青い芝の脳性マヒ者が被写体となったドキュメント映画の全国的な上映運動があって、滋賀でもその学生達たちと、施設に疑問を持つ施設労働者とで「さよならCP」の上映会をやっていて、「里内よ!こい」といわれて、養護学校の教師と見に行ったのが青い芝との初めての出会いだった。
その当時は父の影響もあり、「愛と正義を否定する」という青い芝に初めは反発したが、その後好きな女性がいたせいもあって、「さよならCP」の上映を企画したグループにかかわり、大阪青い芝のキャンプなどにも参加するようになった。一方、障滋協のキャンプや、その研究団体の全国集会にも参加した。学校をさぼって、そのグループの合宿に参加し、優生保護法(不良な子孫の出生を防止する法律で現代社会では、不良な子孫=障害を持つ生命になる。この法律に基づく思想が優生思想である)の存在や保安処分(犯罪を犯す可能性のある精神障害者を検察が指定し、事前に精神病院へ隔離しておくことで、日本では第二次世界大戦前の治安維持法の一つである)の問題点も知った。
当時は、優生保護法の改悪や障害者のプライバシーを無視する障害者実態調査を阻止できた時代であった。
当時、障害者運動の世界には論争があった。すなわち全国障害者問題研究会(全障研)に代表される障害者の発達を保障する運動(施設や養護学校を作る運動)と、青い芝や全国障害者解放運動連絡会議(以下・全障連)に代表される障害者が主体になって差別と闘う運動(施設や養護学校に反対し、障害者が地域で生きる運動)の論争である。今と違って、その論争は大きな政治的な意味合いを持っていた。すなわち、日共を支持するか、支持しないかであった。
障害者の発達を保障する運動の主張は、「歩ける方がいいから歩けるように保障する」というように、目標が常に健全者である。発達するまで養護学校や施設で特別な教育や訓練をするという理論である。ソ連の社会主義教育理論からヒントを得てその理論体系を作ったのは、日共の党員の心理学者で、その理論を全面的に支持したのが、日共を支持する教師が主流である日教組の特殊学校部会である。
健全者により近くするとは、どういうことか? それは生産労働できるようにすることである。つまり、生産社会に排除される障害者を、生産社会にあわせるという理論である。それは障害者に働く幻想を持たせ、「ただで働いてもいい」ということになる。つまり、発達保障論は健全者の価値観を障害者に押しつけた理論である。
発達保障論の目玉は、障害の早期発見・早期治療である。生まれる前から障害を治療する発想である。また、生まれる前から管理し、隔離していくレールに乗せられることである。それが今の母体検診や遺伝子診断の問題につながる。障害の早期発見・早期治療のシステム化を滋賀県大津市で革新市長が取り入れたのが、全国に広まった。それに対して、青い芝は、「障害は個性だ」と反論していった。
私達と日共・全障研とのもう一つの対立点は、水戸事件の糾弾にもみられるように、日共・全障研は障害者の直接行動を否定している。それは障害者が行政に直接要求することの否定である。
日共は70年代になると、完全に議会制民主主義へと移行する。その政策は「票取り政策」になり、障害者の親が望む施設や養護学校作りや、障害者の意思が反映されない町づくりを政策して、革新自治体が実現させていった。その政策を絶対なものにし、「施設や養護学校の解体論者」とか、「過激派の系統」といって、人々に「障害者解放運動は怖い」というイメージを持たせ、日共・全障研の政策に刃向かう者は民主主義の名の元で排除していった。
それに対抗して、関西青い芝が中心になって、「障害者は地域社会で生きる」というスローガンで結成されたのが全障連である。全共闘運動(1960年代後半から70年代初めの学生運動で日米安全保障条約阻止を運動の目的としていた。当時、大半の学生がその運動にかかわった)で闘っていた学生らが、全共闘運動がなくなった後、いろんな底辺の人々の生存権をかけた社会運動に共にかかわることになる。障害者運動にもかかわって、青い芝を支持し、全障連を支えるようになっていった。
寮母に男の風呂やトイレの介助をさせたり、学校に友達を連れてきたら教頭に怒られたり、就学猶予(文部省が一方的に、学校へ行く義務を猶予することだが、障害者側から見れば教育を受ける権利を奪われることである)だった私は、養護学校へ入った時は嬉しかったが、実家の近くの友達がいなくなったり、寄宿舎から一歩も出られなかったり、「養護学校に入った嬉しさより、養護学校に入る以前に、学校に行く権利を奪われた思いと恨みを持て」と青い芝の人から言われたり、・・・などという体験から、養護学校のあり方に疑問を持っていた私は、障害者が地域で生きる運動の方に傾いていった。障害者の施設や養護学校に反対する論理は、そういう施設や養護学校のあり方から生まれてきたと思う。
また、当時は問題意識を持った障害者は養護学校のなかに、一学年に一人か二人はいた。そして今、日本の障害者運動を支えているのが、その頃に養護学校を卒業した障害者である。
その学生や施設労働者が、従来の施設や共同作業所を否定し、地域で障害者と対等平等な関係をめざしていく共働作業所を作っていった。その共働作業所が後の私の就職先になった(今では、私はそういう共働作業所も否定しなければならないし、利潤追求を目的としている資本主義社会では、共働作業所の理想は絵に描いた餅に過ぎないと思っている)。
当時は学生時代にベトナム反戦や被差別部落の人の冤罪事件である狭山事件の運動の洗礼を受けた教師も養護学校に多くいた。その教師たちに狭山事件の映画会や反戦フォーク歌手といわれる歌手のコンサートに教師の私的な時間に連れていってもらったりして、自然と社会に対する問題意識も生まれてきた。その教師たちとお酒を飲んだり、一緒に18歳以下入館禁止という映画館にも行ったりして、普通の健全者なら誰もが通過するところを障害者の私にその教師たちが教えてくれた。普通高校から養護学校へ転任してきた教師の教え子が訪ねてきて障害者と知り合いになったり、普通高校の教師と教え子と一緒に手話サークルに参加したりしていた。つまり、サラリーマン教師ではなく、そこには生徒と共に生きる教師の姿勢が見えていたのだ。今はそういう教師が学校にいないことが、障害者運動を含めて社会運動の低迷している一つの大きな原因になっていると私は思うし、生徒の教師に対する不信につながっていると思う。
養護学校義務化(各都道府県に、三種類の養護学校の一校以上ずつの設置を義務づける法制化。それが筑波大開校と関連する。当時、政府は全共闘運動を抑えるために学問・研究のモデル大学を作った。それが筑波大学である。養護学校義務化には学問・研究に邪魔な子供を養護学校に入れるという意味がある)は、養護学校の教師の質を変えた。養護学校義務化に伴って、大学で障害児教育を専攻し、養護学校教師の免許を取った人が、養護学校の教師になるようになった。つまり、文部省障害児教育課のマニュアル通りに教える「真面目」な人だけしか、養護学校の教師にならなくなって、型破りな教師はいなくなった。
また、私が問題意識を持った一つの要因に、ラジオの深夜放送があげられるだろう。当時は各地域で各局とも個性的な深夜番組が多く、ディスクジョッキーがベトナム戦争や、部落問題などの社会問題を面白おかしく話したり、放送禁止になりそうなプロテストフォークソングを流しながら番組を進行していった。休みの前の夜になると、私も聴いていた。そして、養護学校の昼休みに、その深夜放送が話題になっていた。
発達保障論を唱える教師たちの組合の上部団体が指導する高校生集会へみんなで参加することになったときに、教師が知的障害者を、本人の意思を無視して参加させなくしようとしていたことが発覚して、私と、今滋賀で全障連系の共働作業所の代表をやっている脳性マヒ者とで「選別するな」と抗議したことがある。
その教師が知的障害者を連れていかない理由は、「発言しないその生徒を連れていっても、本人のためにならない。それより寮にいて遊ぶほうが発達する」というものであった。それに対して、私達は「決めつけ、その集会にみんなが行くのにそいつだけ寮に残してもそいつの発達にはならない」という主張をした。その事件で養護学校の教員組合の分会を二分する問題になった。
それ以後、私は障害者の発達を保障する運動と決別した。
私も障害者が発達する権利はあると思う。しかし、「発達=障害の克服」という発想では障害を否定することになり、障害者をいつまでも一人の人間として認めない結果にしかならないのだ。それと違って青い芝がいうように、自分が障害者であることを自覚し、障害者が自己主張していくことが発達を勝ち取ることだと思う。
その後、卒業して奈良県の施設へ入って、奈良青い芝に関わった。土日になると出掛けていって、知的障害者の就学闘争を支援したり、養護学校義務化反対を訴えるビラを撒いたりする日々だった。そして滋賀へ帰ったら、障害者解放を志す仲間が集まって、飲み会をやったりしていた。また、私は参加しなかったが、青い芝のバスジャック闘争(車椅子障害者がバスに単独乗車することが禁止されていたので、青い芝が組織的に各地のバスターミナルを占拠した糾弾闘争。この闘争で青い芝が一躍有名になったし、「可愛そうな障害者」というイメージを払拭させ、障害者差別の怒りを社会に認知させた)や障害者解放を掲げて障害者差別と闘う全障連の結成など、当時は、障害者運動が世の中に衝撃を与え、日本の障害者運動の盛り上がりが目立った時期だった。
奈良の施設時代に、急に歩行能力が落ちて、車椅子を使用するようになった。父や施設の指導員に歩く訓練を勧められたが、私は「生活がない訓練なんか無意味だ」という信念を持っていたので、歩く訓練を拒否した。訓練を拒否していなければ、その施設をいつ出ることができていたか、分からなくなっていただろう。奈良の施設を2年で退所して、実家から滋賀の共働作業所へ電車で通っていた。それを続けるうちに、その共働作業所で働くより、障害者の周囲の社会に対して障害者の立場から問題提起をすることが、障害者の本来的な役目ではないか、と思うようになった。そんなふうに悩み始めた頃、「共働作業所で働いて善人ぶってもしょうがないぞ! 茨城に面白い人がいる。現代の親鸞のような人物だ。里内は浄土真宗の寺の生まれだから、親鸞の悪人正機(浄土真宗の悪人こそ救われるという教えで、悪人とは被支配階級という説がある)の思想を学べ! その人のところへ行け!」と、共働作業所で一緒に働いていた人から勧められて、その気になって茨城に来ることになった。だから現在、茨城の地にいる私がある。
今は、街に出ていって、障害者が自己の存在を健全者社会に見せつけることが障害者にとっての働くことであると思う。その意味での地域で生きる場は必要だし、地域で生きる場作りがこれからの障害者運動の課題と思う。だけど生活する利潤追及を目的とした共働作業所は、共働作業所の理念に反して資本主義に飲み込まれる。その理念は、生産主義の崩壊しつつある今、もう時代にそぐわないものである。私の障害者運動の思想的な骨格は、そのような養護学校や共働作業所の人間関係と社会状況(特に青い芝や全障連の障害者運動の高まり)の中で出来てきた。もし私が10年若く青い芝や全障連と関わっていたらノーマライゼーション(スウェーデンの障害児の親が作った概念で、障害者も普通に生きるようにするという意味。日本では厚生省の障害者対策の方針になっている)の波に飲み込まれ、常識的な福祉を推進し、現在私のやっている、優生思想との対決や、障害者からの反戦の主張をすることができなかったであろうと思う。
その思想の骨格に肉付けをしてくれたのは、閑居山で出会った大仏和尚とその周りの人達や、関東の青い芝の人達だった。閑居山は、私が子供の頃に脳性マヒ者が集まって生活共同体をつくってきたところであった。そして、大仏和尚と脳性マヒ者の先輩たちとで青い芝の思想が確立された所である。そこを出ていった脳性マヒ者が全国に散らばって青い芝を作った。
閑居山では毎日、和尚さんが世界の思想史の講義をしてくれた。その講義は、今の私が生きていく上で役立っている。マルクス主義の崩壊の予言など、正確なものの見方をする人物だった。カリスマ性もあり、宗教の教祖のような人物だった。茨城の青い芝の印象は関西とは違うと感じた。電車やバスを使わないなど、関西の青い芝畑で育った私は、歯痒く思った。しかし、一人一人の思想や理論は、関東の青い芝の人の方が持っていると思った。
そのころから、障害者の周りの状況は、国際障害者年(国連が定めた障害者の地位向上10ヵ年計画1981〜1992年)をきっかけにノーマライゼーションの推進などによって、行政に対しても障害者が地域で生きる運動の主張が通るようになったり、障害者の地域グループが各地にできたり、親が障害児を普通学校に入れるようになったり、障害者の発達を保障する運動も、障害者の地域福祉を認めざるを得なくなってきた。障害者が社会生活をすることは、年金が上がったりして改善され、その意味では私達の運動が勝利したと思う。
その後、大仏和尚が亡くなり、神立駅の近くで自立生活を始めた。折本さんの後を継いで、87年以来茨城青い芝の会長をやっている。
それ以後は、土浦駅のスロープに鍵が掛かっていたので、その開鍵要求運動や、障害者だけの初の国立大学である筑波技術短大の建設阻止闘争、優性思想につながる脳死臓器移植法制化阻止闘争(脳死・臓器移植の考え方は一方を生かし、一方を殺すことから成り立つ。それが優性思想である。障害者差別と戦う勢力は阻止闘争をした)を経て、水戸パッケージ事件の糾弾闘争と、行政に対しての介助制度要求を主にやっている。
介助保障を要求する運動は、青い芝はやらなかった。「介助は行政に要求するものではなく、障害者が介助者との関係において作るものである」という方針からである。それは正しいと思う。しかし、障害者が地域で生活する上で最低限の介助要求は必要であり、それが茨城県の場合、どこでもクリアーできていない現実がある。だから要求運動をする必要がある。障害者に対する介助費として、余りにも高額なお金が入ることになると行政の監視が厳しくなるし、また、利権が出てきて、障害者を理解しようとしない、お金目当ての介助者が出てくる危険がある。そこで障害者の責任を求められると思う。また、要求運動は行政に取込まれる危険性が大いにある。全共闘を闘った学生たちが企業の管理職になり、労働者を弾圧しているように、私をこの道に導いた学生や施設労働者や教師達が、滋賀で施設になった共働作業所の理事長や、県の福祉行政の責任者になったり、あるいは養護学校の教頭になって管理したり、教育委員会で養護学校を作ったりして、現在、障害者を抑圧する側に回ったりしている。
養護学校を卒業したばかりの今の若い障害者を見ていると、「親や教師にマインドコントロールされ、自己主張できなくなったり、個人主義に陥って社会に目が向かなくなってきているな」と平均的に感じる。それは結果的に、「養護学校義務化」がもたらしたものであると思う。
一部の問題意識がある障害者は、ADA(アメリカ障害者差別撤廃法の英略。総合教育の促進、障害者雇用と賃金差別撤廃、企業の介護保障、公共交通機関と公共施設に障害者設備と手話通訳者や点訳者を設置することなどが義務付けられている。「国家や社会のために使える障害者」のための差別撤廃法であり、脳性マヒ者や知的障害者は当てはまらない。私は発達保障を具体化した、究極的な姿がADAであると思う)やノーマライゼーションを推進し、厚生省の方針に結果的には協力している。それらの障害者は、障害者の御用団体のリーダーや行政に勤めたりして(当人の意識がどうであれ、結果的には)青い芝運動を脅かし、潰す存在になると思う。ノーマライゼーションの実現や福祉の向上は、それ自身には反対するものではない。しかし、現在の日本は、憲法を改悪しようとしたり、新ガイドラインを日米間で締結したり、オウム問題での治安強化など、「強国」になろうとしている。それに伴って、優性思想や警察権力が強まっている。それに、脳死・臓器移植法制化になったり、保安処分につながる破防法が適用されようとしている。そんな時期にノーマライゼーションや福祉の向上だけを見ていたら、障害者問題の根本である差別が見えなくなる。つまり、ノーマライゼーションや福祉の向上などは、障害者にとっての麻薬である。現にノーマライゼーションの理念が世に出てきた80年代後半からノーマライゼーションという言葉がよく使われるようになったのと並行するように、学習障害や知的障害など、新たな障害と言う言葉が生まれてきた。それは、障害者という概念を新たに作ることである(普通学校に通っていたくらいの人が、養護学校に入れられたりしている。また、学校でワープロやパソコンを使うようになると、それを使いこなせない子供は障害者とされる)。
ボランティアや福祉に携わる学生など、「常識的福祉」に乗っている人たちは、あまり私達には関わってこない。その人たちより、社会問題への意識を持っている人の方が私達に連帯し、関わってくる。また、反原発の集会へ行って脳死・臓器移植の署名が多く取れるなど、関わらなくともそういう人は私達が提起している問題に反応を示す。私達障害者自身が問題意識を持ち、社会への問題意識を持つ人を作っていくことが大切と思う。そして、それが介助につながると信じている。
いくら障害者を理解し、運動の目的が同じであっても、健全者や組織の、利益や方針に利用しようとするケースがある。ある組織に入っている障害者が、脳死・臓器移植の集会で脳死・臓器移植の問題点や障害者の立場を主に語ろうとはせず、その組織の方針である関西新空港反対や朝鮮戦争の危機を訴えたことがあった。その組織が脳死・臓器移植という問題を組織方針に利用して訴えたのである。
最後に、数多い障害の種類の中で、なぜ脳性マヒ者だけを集めて「青い芝の会」をつくっているのか、ということを説明しておく必要がある。それは、脳性マヒは全身マヒで言語障害も多く、たとえどんなに福祉用具が発達しようと、働くことができない、コミュニケーションがとりにくい障害だからである。従って、現代の学歴社会から排除され、殺されやすい。だからこそ、障害者問題の根本に脳性マヒの問題があり、障害者の中の主要矛盾なのである。他の障害別団体と違って、そこに青い芝という脳性マヒ者の団体の存在意義がある。青い芝が日本の障害者の中で一定の評価と地位を得ているということは、日本の障害者運動の特徴であり、その運動は、障害者だけではなく、すべての抑圧された人民の完全解放を目指すものである。それは水平社を原点とする部落解放運動と並んで、世界に誇れる人権思想運動である。(おわり)
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戦争と「障害者」運動について 平島武文 (「Wave」50号より転載)2004年
http://www.iris.dti.ne.jp/~globe/iraq.htm#3
http://www.iris.dti.ne.jp/~globe/iraq.htm
―――上の文は、すべて、下記のサイトから―――
【水戸事件のたたかいを支える会〜「障害者」差別・虐待を許さない!】HP
http://www.iris.dti.ne.jp/~globe/
【「支える会」発行の機関紙『Wave』】の中の
〜投稿・エッセイ〜みんなの広場
〜イラク反戦
「水戸事件」とは?
水戸知的障害者虐待事件(アカス紙器事件)1996年1月。
「知的障害」を持つ従業員への雇用助成金を騙し取ったことが発覚し、1996年の1月に社長・赤須正夫は逮捕されましたが、実はそれ以前に赤須から太腿を蹴られ被害を受けた女性従業員が告訴していました。そして、逮捕されたことがきっかけとなり、当時「アカス紙器」で働いていた20数名の「知的障害」を持つ従業員に対して、日常的に殴る・蹴るの暴行や性的虐待(レイプ)を行っていたことも次々と判明していったのです。・・・(以下略)
What's New!
★2004.12.11に水戸で集会!
水戸事件民事裁判勝訴報告集会
日時:2004年12月11日(土)午後1時〜5時
場所:水戸市民会館1階会議室
(水戸駅南口より徒歩8分 水戸市役所隣 駐車場有)
原告のみなさんへの支援活動を今後どう行っていくかなど、いろいろ話し合いたいと思います。
是非、ご参加下さい!