★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ37 > 941.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
「高句麗残照」:びんなか・しげみち氏 −幾重にも重なる渡来の波 「日本の古代文化は朝鮮文化」− [朝鮮新報]
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/941.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 11 月 17 日 13:09:14:Mo7ApAlflbQ6s
 


「高句麗残照」(上) 幾重にも重なる渡来の波


--------------------------------------------------------------------------------

 世界遺産に指定された豪壮・華麗な高句麗壁画古墳の照り栄えの陰で、積石塚古墳はあまり多くの人から注目されていないが、積石塚こそは高句麗古代文化を特徴づける存在であった。積石塚というのは、普通の古墳が土を高く盛って築かれているのと違って、埋葬施設の周辺と上に石を積んで、それも単に積み上げたのではなく、方形、円形などに整然と築造したものを言う。

 斎藤忠著「古代朝鮮文化と日本」(東京大学出版会)は、つぎのように記している。

 「高句麗において、その初期の墳丘は盛土塚でなくて積石塚である。これらは、最初の基盤であった桓仁付近に見られる。地上に河原石を積み上げ、その上に遺骸を安置し、さらに石を積んで墳丘にしたものであるが、遺骸を石棺内に収めたものもある。その後、通溝に都を定めても、積石塚が営まれた。かつて、関野貞博士が、『無慮数万』とも表現した積石塚群が、荒涼たる通溝の山野に起伏している。いかにも、高句麗の発展期の姿相をあらわす如くである」

 東北アジアで最も早く国家を形成した高句麗は、全盛時には朝鮮半島の過半を押さえ、北は今日の中国東北部の吉林省、遼寧省の北緯45度以北、南はソウルにも積石塚が残っているように漢江の流域に及ぶ堅固な支配を誇っていた。前述の桓仁(卒本)は、紀元前37年に建国したのちに小国の連合を形成して本拠を置いていた所で、鴨緑江支流の?佳江流域にある。紀元前13年には通溝に遷都し、204年には輯安(国内城)に移った。

 この時期の墓制に支配的位置を占めていたのが積石塚であったが、国の中心が南下して、やがて427年に平壌へ都を移したころから盛土塚が見られるようになり、ついにはその位置が入れ替わることになる。この過程で出現した強大な支配者の墳墓が壁画古墳であった。

 しかし、盛土塚が盛んに行われるようになってからも、王陵のようなものは古制を保って積石塚に作られ、将軍塚・太王陵のような巨大な墳墓が造営されたのだ、と前述の「古代朝鮮文化と日本」には記されている。

 高句麗の積石塚は方形、円形と前の所に書いたけれど、そればかりではなく、大和朝廷の専売特許のごとくに言われて、強烈な自己愛にひたる一部の日本人から、崇敬のまなざしをもって仰がれている前方後円墳だって、高句麗にはあった。慈江道慈城郡の松岩里106号墳と呼ばれる積石塚は、長軸24メートルの前方後円墳で知られている。

 朝鮮民主主義人民共和国社会科学院考古学研究所「高句麗の文化」(呂南普E金洪圭共訳 同胞舎出版)によれば、高句麗の墳墓の様相はつぎのようであったという。

 被支配階級は、墳丘基底部の一辺が長さ約5メートル、高さ2メートル程度の規模が小さな貧弱な墓をつくった。支配階級は、墳丘基底部が一辺の長さ30〜60メートル、高さ20〜30メートルにもなる大墓をつくった。このように墳墓の大きさが、被葬者の貧富と階級的差異によって各々異なっていた。

 さて、高句麗の古い墓制である積石塚古墳が日本の各地に残っているのは、当然のことながら5世紀前半より前の、故国の墓制が積石塚であったころの高句麗から、多くの人々が日本列島へ渡来してきたことの証しでなくてなんであろう。文化の移動は人の移動であって、文物や墳墓が一人で歩いてくるわけはないからである。

 とりわけ、古代の信濃(長野)や甲斐(山梨)には、高句麗系渡来氏族が多かったようで、日本中の古墳に占める積石塚の割合が2%であるのに較べて、長野では30%、山梨で20%もあり、異常な密度で積石塚が築かれていた。

 彼らを祖先とするのが今日の日本人である私たちなのだということを認識しなければならないだろう。けれども、こうしたことは高句麗系に限ったことではない。畿内や天皇家の周辺に多かったとされる百済系や、東国に多くの拠点を持っていた新羅系の渡来氏族にしても同様であって、朝鮮半島から渡来した人々こそが、日本人を形成したのである。

 高句麗から潮に乗って船で海を渡り、北陸辺りの浜に上陸した高句麗人たちは、川沿いに道をとって内陸に分け入った。そうして、いまの長野県善光寺平の北にある大室古墳群の地から諏訪を経て今日の山梨に入り、北巨摩、中巨摩の丘陵から甲府の東にある横根・桜井積石塚古墳群と寺本廃寺に至る、130キロの広大な地点に新天地を拓いた。これは拙著「高句麗残照」(批評社)で展開した叙事詩であるが、市民権を得るに至っていないのは、多くの日本人の心の底に、皇国史観の残滓が執念深く生きているからに違いない。

 それでは、朝鮮半島の古代人たちは、どのようにして日本列島へやってきたか、そうして、いかなる文化を伝えたかについて、これから順次見ていくことにしたい。

 (*文中、高句麗の建国、遷都などの時期は、金富軾著・金思Y訳『三国史記』(六興出版)によった)

 ※びんなか・しげみち 1941年、朝鮮忠清南道大田生まれ。山梨時事新聞記者を経て作家活動に入る。主な著者に「蘇る朝鮮文化」(明石書店)「輝いて生きた人々」(山梨ふるさと文庫)「高句麗残照」(批評社)など。

[朝鮮新報 2004.11.15]

http://210.145.168.243/sinboj/j-2004/06/0406j1115-00001.htm

「高句麗残照」(下) 「日本の古代文化は朝鮮文化」


--------------------------------------------------------------------------------

 すべてがそうだとは言わないけれど、日本の古代文化は朝鮮文化だと言っていい一面がある。むしろ、意図的に中国が重んじられていて、朝鮮が軽視されてきたことを考えるならば、多少強調して言ってもいいのではないかと、私などには思われる。

 前に書いたことであるが、文化の移動は人の移動であって、文物のみが羽根を生やしたように飛んでくるものではない。諸々の文化は、その恩恵に親しんでいる人々が抱えてやってきたのである。


 朝鮮半島と日本列島を隔てているのは海であるが、その海こそが人と文化を運んだのであった。遠い南の海で生まれた黒潮が、北上して九州の南で二つに割れると、太平洋に注ぐ流れとは別に、九州の西を北上して日本海(東海)へ向かう流れとなる。この海流には3つの分枝があって、第1分枝は日本列島の山陰地方から北陸を経て、東北に至る各地で沿岸を洗っていく。対馬の西で分かれた2つ目の枝は、海峡のまん中を進む本流となり、そこからさらに分かれた第3の枝は、朝鮮半島の東岸に沿うようにしばらく北進してやや離れ、沖合いを東北方向へ流れる。

 古代、時を選んでこの海流に乗れば、潮の流れに導かれて行き来するのは、それほどに難しいことではなかった。だから、朝鮮半島から多くの人々が、止むに止まれぬ切羽詰った事情や、新天地への燃えるような希望に背中を押されてこの潮に乗り、日本列島のいろんな所へ上陸した。とりわけ、高句麗や、のちの渤海からは北陸へのルートがたやすかったように思われる。史書に残る570年、573年、668年の高句麗使節は、いずれも北陸に上陸して陸路で大和へ入っている。渤海からの船が出羽の辺りに誤って漂着している例なども、それを証明しているだろう。

 そのようにして日本列島へ渡来した人々には4つの波があった、と上田正昭先生は「帰化人」(中公新書)に記している。それによると、第一のピークは紀元前200年ころであり、第2の高まりは5世紀前後の応神・仁徳朝を中心とする時期であった。そうして、第3の波は5世紀の後半から6世紀の初めを中心とする期間で、さらに大きなうねりは7世紀後半、とくに天智朝の前後であるという。


 この4つのピークを持って、大陸それも朝鮮を中心とする地域から、多くの人々が日本列島へ渡来した。わけても、第3の時期には朝鮮半島南部から、今来の才伎(いまきのてひと)と呼ばれるように、新しい技術を持った人々が渡来し、各分野で目ざましい働きを見せたようである。第4の、唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼし、これを救援しようとした日本軍が大敗を喫するという、日本の中央権力にとっての非常事態が到来しつつあった時期を前後して、もっとも大量の渡来が見られた。

 このようにして、朝鮮半島から渡来した人々は、日本列島のあちこちの地に満ち、あふれ、そうして生み、ふえて、日本人の主要な部分となったのである。

 今日の政治経済状況は、太平洋岸をもって表日本としていて、明治以来、多くの文明と言われるものは、こちら側からやってきた。けれども、古代以来の文化の流れを見るならば、日本海側こそが本来の表日本だったのであり、一衣帯水と表現される、日本列島と朝鮮半島の間に横たわる海こそは、豊饒の文化を伝えた輝ける潮であった。

 弥生の稲作、古墳文化、乗馬の風習、鉄や漢字や紙や、数えあげればきりのない文化を持った人々が、この潮に乗ってやってきた。

 まさに、日本列島と朝鮮半島に日々を暮らした人々は、なんの分けへだてもなく、一つの種に結ばれた人々であったと言える。ではあっても、その後の、それぞれの国が生み出していったところの民族と、人種とは、これは、はっきりと違うということを、認識しておかなければいけない。


 すなわち、戦前・戦中の「日鮮同祖論」の轍に嵌まる苦しみを、日朝に今日を生きる私たちが、味わってしまうことがあっていいものではない。日本と朝鮮とはもともと同祖であったのだから、日本が朝鮮を支配下に置くのは当然であるとして、植民地支配を正当化するような考えを再び許すことのないよう、日本人の良心にかけて、きっと戒めなければならない。姿を変えた新たな「征韓論」が、日本人の心を蝕もうとしているいまであってみれば、ことさらにそのことを強調せずに、日朝の古代を考えることの危険を感じないではない。

 日朝民衆は、かつて、元禄・享保の国際人であった対馬の儒者・雨森芳洲が「交隣提醒」に書いたように、互いに欺かず争わず、誠信の交わりをこそ、実現していかなければならないだろう。

 あえて蛇足を書き加えるならば、本来の表日本に立ち返ることが、日本はもとより、東洋の、ひいては世界の平和をもたらすものであると、しきりに思われてならない昨今である。(びんなか・しげみち)

[朝鮮新報 2004.11.17]


 次へ  前へ

Ψ空耳の丘Ψ37掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。