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既述のことですが、17世紀に入った頃のオランダで、後世に大きな影響を与えたという意味で注目すべき風景画家が現れます。実景に即しつつ抑制的な単色に近い色調で、恰も写真のようなリアルさで描く「単色様式(単色色調様式)の風景画」を確立したサロモン・ファン・ライスダール(Salomon van Ruisdael/ca1600−1670)とヤン・ファン・ホイエン(Jan van Goyen/1596-1656)の二人です。ところで、このヤン・ファン・ホイエンは、チューリップ・バブル市場に首を突っ込んでしまった不運な(?)画家です。画家として成功したホイエンは、稼いだ金をチューリップ相場に投資しましたが、バブルの崩壊で破産していたのです。ホイエンはバブル崩壊から20年を経た1656年に世を去ります。その時になってもまだ897ギルダー(現価換算で約1,800万円)の負債が遺族に残されていました。その間、ホイエンは巨額の負債の返済のために“優れた風景画”を描き続けたことになるのです。
チューリップ・バブルが発生したのは1634年ですが、この頃のレンブラントは“サスキアとの結婚、アムステルダムの市民権獲得、聖ルカ組合(アムステルダムの画家組合)入会”と順風満帆でした。その2年前には、彼の名声を一気に高めた『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』を完成させています。そして、1639年にレンブラントは1.3万ギルダー(現価換算で約26,000万円)の大邸宅(現在の美術館「レンブラントの館」)を購入しています。しかし、この邸宅を買ってから14年後、レンブラントが47歳になった時に8,470ギルダー(現価換算で約17,000万円)の未払い金を請求されて、更に9,180ギルダー(現価換算で約18,000万円)もの借金をしています。ピーク時には年収が0.5万ギルダー(現価換算で約10,000万円)もあったとされるレンブラントは、一体どのような金銭感覚の持ち主だったのでしょうか。レンブラントがホイエンのようにチューリップ相場に手を染めたかどうかは分かっていません。しかし、バブルが崩壊した頃にレンブラントがチューリップの競売場に出入りしたという記録が残っているようです。いずれにせよ、オランダのみならずヨーロッパ中に名声を広げたレンブラント工房の親方は破産状態のまま63歳の生涯を終えたのです。また、破産で生涯を終えたということではフェルメールも同じです。彼の妻の証言記録によれば、晩年のフェルメールは絵を殆ど描かなかったようです。兼業していた画商の仕事も第三次英蘭戦争の余波を受けて不振となり、11人の子どもを抱えた生活が困窮した悲惨な状態の中で病魔に侵され、43歳の生涯を閉じています。フェルメール没後の一家は破産宣告を受け、絵も含めたフェルメールの全財産は競売になりました。
17世紀「オランダの光」の代表者ともいえる二大巨匠、レンブラントとフェルメールは、このようにして共に経済的なバランス感覚を失ったまま生涯を終えていますが、このことによって彼らの芸術家としての価値が貶められることはあり得ません。それどころか、神の領域に入ったのかとさえ思わせるような絶妙な美の表現技術に到達する一方で、対象物とモデルを射すくめるほどの冷静な視線で画架をなぞることで創造されたレンブラントとフェルメールの美の造形は、米国一極主義に抑圧され混迷の暗闇の中で進むべき方向を見失いつつ生きざるを得ない我われ世界市民に対して、現代人が忘れ去ってしまった人間にとって最も大切な価値観を未知のバックスキャンの「光」として未来から照射し続けているのです。彼らの偉大な美の創造という営為がもたらした、このように厳しいほど精妙なバランス感覚と比べてみれば、ヒューマニタリアニズム(humanitarianism/平和的人道主義)への関心を失い只管ゼニ・カネの増大(付加価値ではない!)を追い求めることだけにしか興味がない輩、つまりゼニ・カネの悪魔に魂を売り払った拝金マネタリストたちが、恰も自らが世界を支配する神でもあるかの如く横柄に振舞う市場原理主義に毒されている現代社会こそ貶められて然るべきだと思います。しかも、このような混迷の世界を指揮する第二期・ブッシュ政権はアメリカの狂信的なキリスト教原理主義者たちによって強力に後押しされているのです。そして、このブッシュ政権に傅く日本政府(小泉政権)の根本にも“平和的人道主義などは馬鹿げた道徳的な孤立主義だ”という考え方が潜在しているのです。しかも多くの日本国民は、この“深刻な事実”について無関心であり、また、大方のマスコミの怠慢もあって意図的に無知にされ続けています。
今、イラクの状況は底なしの混迷に嵌っていますが、併行して「イラン核疑惑関連」の問題が次第に大きな影を世界に落としつつあります。イラン政府は、11月14日、交渉中の英・仏・独三カ国との間で、ウラン濃縮関連活動(イラン中部ナタンズのウラン濃縮施設/核開発疑惑の焦点となる施設)を全面的に停止すると発表しています。しかし、同じプロセス(英・仏・独との交渉)での合意が、IAEAの対応に反発したイランによって昨年10月に破棄されたという事実があるので予断を許しません。そもそも、1970年代にイランに対し原子力発電を勧めたのはアメリカ政府であり、イランは最初の原子炉をアメリカから買っています。その後イラン革命(1979)でパーレビ国王が退位するとアメリカ主導の原子炉促進計画は頓挫しますが、代わってソ連と中国が関連技術と資材を提供するようになります。その後、アメリカの圧力によって中国は表向きイランへの関連資材提供などを中断します。しかし、水面下での技術強力は続行されたとようであり、1979年のソ連邦の崩壊後は、ロシア(旧ソ連)の原子力関連技術と人材がイランへ導入されています。また、不気味なのはイラン・パキスタン・インドが原子力発電(内実は核開発)に関連して歩調を合わせる動きがあることです。いずれにしても、このように危険な発火装置状態のイランに点火するとすれば、それはアメリカのブッシュ政権だと見做されています。イランはペルシア人(インド・ヨーロッパ語族)という単一民族からなる人口約7千万人(イラクの約3.5倍)の大国です。多数のアラブ部族の集合体であるイラクと異なり、正教一致の単一民族国家を敵に回すほど愚かなことはないはずなのですが、これも強固なキリスト教原理主義に支えられるという意味で“事実上の政教一致”の好戦的なブッシュ政権だけに気がかりなことです。しかも、世界の常識となってしまった強固な日米軍事同盟によって、万が一の「イラン戦争」の場合にも日本はアメリカに加担せざるを得ないのです。これが“平和的人道主義などは馬鹿げた道徳的な孤立主義だ”と見做す現在の日本政府が守ろうとする“国益”の実相なのです。
現在のオランダは、人口規模と国土面積の面から見る限り小国ですが、世界の中でその人口密度が最も高い国の一つです。オランダの人口は1,600万人(1999)、面積は4万1千526ku(九州よりやや小さい)なので、1平方キロメートルあたり約385人の人口密度となります。経済規模を示すGDPは、3,843億ドル(1999/現価換算で約42兆円)で、日本(約500兆円)の1/10にも満たないのです。しかしながら、国民一人当たりの所得水準は世界でトップクラスです。しかも、国土の約3割は海抜0メートル地帯(北部、西部を中心とする)という過酷な環境条件です。全般的な気象条件は、「小氷河期」が始まったばかりの中世後期ほどではないにしても、全般に気象が不安定で、一年間を通して予測し難い悪天候に見舞われることがあります。最も過ごしやすい時期は6〜8月の夏で、乾燥した日が続きます。ただ、朝・夕との温度差が大きく、特に雨が降った時は要注意です。9〜3月の7ヶ月は、どんよりした曇りや霧雨の日が多くなり、湿度も高くなります。冬季の寒さはかなり厳しいものとなり、日照時間も短くなります。地中海に臨む南フランスやイタリア半島の気候と比べると、かなり過酷な気象条件であるといえるでしょう。また、オランダは、少なくとも700年以上もの長い時間をかけて殆どが水面下という劣悪な自然環境と闘いながら、自らの国土を干拓によって創ってきたという特異な歴史を持っています。しかも、その国土の上では地政学的な条件からフランス、スペイン、ドイツ、イギリスなどの大国から度重なる干渉を受けてきました。特に、周辺の「水」と付き合い続けざるを得ないという逆境の中から、先進的な土木技術と優れた国民の合意形成能力が培われてきました。国民一人あたりで世界でトップクラスの経済水準を維持できる理由の一つをあげると、例えば、それは知恵を尽くした外資導入システムの構築と関連法制の整備・充実です。これによって数多くの多国籍企業が本社をオランダに置くようになっています。また、文化経済レベルでは、グーテンベルグよりも先立つとされる出版・印刷の歴史と伝統を生かして、例えば世界の学術・文化の中心地に相応しいエルセビア社などのような学術出版事業を保護・育成する政策を持続しています。無論、オランダは世界でトップレベルの教育・文化行政を誇っています。
これらの中でも、特に「国民の合意形成能力」という点については目を見張るべきものがあります。「水」という国家的な危機と700年以上にわたって付き合ってきたオランダ国民の「合意形成能力」は筋金入りだといえます。その結果、「オランダ・モデル」と呼ばれる“柔軟で合理的な社会システム”が創られています。テレビ・新聞などマスコミの支持率調査の結果を見て右往左往するばかりの日本国民の姿とは比べものになりません。今、日本は「アメリカ・モデル」一色に漬かっていますが、少しは頭を冷やして「オランダ・モデル」もあることを視野に入れるべきかもしれません。なお、それはどこかの国のように単に構造をいじくりまわして、出来の悪いパソコンソフトのような継ぎ接ぎだらけの国家を創る話ではありません。簡単に言えば、それは「法を最重視する」という観点から国民の生活全般を考えるということです。日本が取り組んでいる「構造改革」は、あまり良い喩えではないかもしれませんが、所詮は「美容整形」のようなものです。たかが「美容整形」とはいっても、身体(構造)にメスを入れる手術である以上は方法を誤れば命取りになります。実例を挙げてみましょう。近年のオランダの法制で三つ注目すべきものがあります。それは「@正社員とパート社員の時間給差別の禁止 A売春、安楽死の合法化 B同性結婚の合法化」です。これは、生身の人間である国民生活の現実を直視して法を整備するという倫理・哲学の問題です。特に、@は富の分配に配慮しつつ経済的付加価値を創造する仕組みを根本から革新するという意味があります。ワーク・シェアリングが実現することはもとより、個人と社会の多様なニーズに合わせた魅力的な働き方を国民一人ひとりの責任で設計できるようになり、更に、国際競争力強化の源泉ともなり得ると考えられます。これは、単なる悪平等主義的な発想とは全く違うのです。オランダ人の考え方の根本では“大いにビジネスで稼いだ金(自らの金銭欲の結果)を善行で使う(倫理観の実践)ことが望ましい”というバランス感覚が働いているようです。「自己責任」原則にしても、日本のように「国家権力の行使」(例えば外交)と「国民の自己責任に基ずく活動」(例えばNGOなどの国際貢献活動)が相容れない立場で、恰も対立する関係であるかのように考えるのは誤りだと思っているようです。「国家権力の義務・責任」と「自己責任」の両者は補完関係にあるというのが正しい理解ではないでしょうか。例えば、オランダ国民一人当たりの発展途上国援助額が208ドルであるのに対し米国民一人当たりのそれは僅か47ドルに過ぎないという現実がある(2003/日本語版Newswee2004.9.8号およびRanking the Rich、http://www.cgdev.org/rankingtherich/home.html)のです。
ところで、ネット上で下のようになかなか面白い資料が目にとまりました。自称“正統保守主義者”の評論家・西部遭氏が自民党・立党50年プロジェクト/基本理念委員会総会』(2004.3.4 15:00〜 /http://www.jimin.jp/jimin/project/index4.html)で行った講演の要旨です。面白く思ったついでに、その要点をまとめてみます。( )内は管理人の補足です。
●ヨーロッパとアメリカでは、コンサーバティブ(Conservative/保守主義(者))の意味が違う。日本人は、このことに気がつかず大混乱している。ヨーロッパのコンサーバティブは歴史・慣習・伝統を大事にする立場のこと。アメリカでは全く逆の意味だ。つまり、それはアメリカの建国精神を大事にする立場のことだ。アメリカの建国精神とは個人主義、自由主義を最大限に(原理主義的に)持ち上げる立場だ。だから、それは歴史や伝統を破壊する立場だ。一体、日本人はどちらの立場の味方をするつもりなのだ?
●日本の歴史・慣習・伝統なんかどうでもいい、そんなものは壊せば壊すほど進歩だと考えるならアメリカのコンサーバティブの味方をすべきだ。(だから、アメリカのコンサーバティブの中からディープ・エコロジストのような超原理主義的な環境保護の立場も生まれてくる。とにかく“自由、自由、民主主義!・・・と叫び続けるブッシュもケリーもネオコンも根は同じで、要するに程度問題なのだ。あげくの果てが、イラク戦争の混乱のように、自由と民主主義を“仕掛けた戦争”で実現するという妙なことになる。日本政府は、このような“意味の混乱”による“国民の混乱”に乗じて(政権を維持して)おり、マスコミはこの混乱を“ビジネス・チャンス”と割り切って金儲けに精を出している。)
●近代主義が掲げてきたのは「自由・平等・博愛」だ。しかし、自由は必ず放縦・放埓に舞い上がり、平等は必ず画一化(悪平等)に凝り固まり、博愛は偽善的なものへ堕落していく。だから“自由に対しては規制が必要だ、平等に対しては格差の現実を認めろ、博愛に対しては競争の現実を認めろ”ということになる。しかし、これらの現実も“規制→抑圧、格差→差別主義、競争→弱肉強食の酷薄な争い”に堕ちてゆく。
●本当(ヨーロッパ)のコンサーバティブ(保守主義者、保守党)が保守すべきは“自由という理想と規制という現実の間でバランスをとる”こと、同様に“平等と格差のバランスをとる”こと、“博愛と競合のバランスをとる”ことだ。すなわち、このバランス感覚こそが保守すべきものだ。これは難しいことであるから、机上の空論の大概の学者に聞いても教えてくれない。このバランス感覚の大切さを教えてくれるのは、何百年、何千年という試行錯誤の積み重ね、つまり伝統(トラディショナル)の精神なのだ。
●自由と規制のバランスをとることが人間社会のバイタリティーであり、平等と格差の間で状況に応じてバランスをとるのが本当のフェアネス(公正)であり、博愛と競合でバランスをとるのが本当のモデレーション(節度)である。従って、自由民主党が、もし自らを保守の立場だと自認するならば「自由・平等・博愛」なんかを叫ぶのではなく、例えば「活力・公正・節度」といったようなトリアード(三幅対)を堂々と掲げて、これが世界に冠たる保守の生き方だくらいのことを(国民へ)示すべきだ。
●ついでに、プログレッシブ(Progressive/革新主義(者))について述べると、最大限に強調したいのは実はアメリカは「左翼国家」という意味でのプログレッシブなのだ。レフティズム(左翼主義)という言葉が生まれたのはフランス革命の時だ。まだ社会主義などという言葉がない時に既に「左翼」という言葉があったのだ。フランスの国民公会の左側に座った人々、すなわちジャコバンを始めとする非常に過激・狂激・熱狂的に“歴史を破壊してでも自由が欲しい”と言った人々が左翼と呼ばれたのだ。だから、アメリカは「イラキ・フリーダム」などという惚けたことを言ってるのだ。小泉首相は、このアメリカが大好きなのだ。(だとすれば、小泉首相は左翼ということになる/しかし、明治時代の新興宗教・靖国神社参拝にこだわり続けている、このアンバランス感覚と無茶苦茶さは何だ?)ともかく、急進的自由主義を始めとする一種の近代主義、歴史を壊してでも近代の自由・平等・博愛といった種類の理念・理想というものに突撃しようとするのが「左翼主義」なのだ。世界で最もそれに近いのがアメリカなのだ。だから、あの冷戦構造なるものは左翼どうしの内ゲバだったのだ。
●今のアメリカは、イラクのことに関して「ネーション・ビルディング」(Nation-building)などと(惚けたことを)言っている。かつて、ハイエクという社会哲学者が、全体主義(それが左翼であれ何であれ)の最大の特徴を指して、コンストラクティビズム(設計主義)と名付けた。これは、何らかの青写真をもって、国家(又は社会)に対して大掛かりな実験国家(社会)を設計し実現しようとすることだ。これが、とんでもない全体主義をもたらしたことは歴史(ヒトラーのドイツ、スターリンのソビエト、毛沢東の中国)で明らかになった。これは、とんでもない全体主義国家を作ってしまったのだ。このことをアメリカ人は肝に銘じていないから、ネーションをビルドするなどと、まるでその辺りの工事現場みたいなバカな話を平然と、しかも恥ずかしげもなく言っている。これがアメリカのインテリたちで、政治家も然りなのだ。だから、先ほども述べたことだが、アメリカという国は「左翼国家」の一類型なのだ。このアメリカを引っ張っているインテリがネオコン(ネオコンサーバティブ/新保守主義)などと称している。(だから、日本人は国民もマスコミも政治家も頭が混乱しているのだ)
●ところで、このネオコンは次のような三つの前提なる「基本的な考え方」を持っているのだ。
(第一の前提)『世界はアナーキー(無政府・無秩序)である』
・・・こんなバカげた非現実的な前提はあり得ないのだ。世界が無秩序に満ち満ちていることは認めるが、まがりなりにも経済取引や政治交渉が、あるいは文化交流が進んでいるのは、世界(社会)にはそれなりの秩序があってのことで、それをいくら理論的な単純化が必要だからといって、世界はアナーキーだなどと、ネオコンはとんでもないことを言う連中だ。こんなバカげたことを言ってるネオコンは机上の空論にしがみつくだけの学者だ。(しかし、本当はバカでないので、ネオコンは意図的にこの第一前提を立てている/管理人の<注記>を参照)<注記.>構成的権力(Constitutional Power)について
・・・下記の本によると、米国ブッシュ政権の「一国主義」に関連して「構成的権力」という言葉がある。英語のconstitutionが「憲法」だが、同じconstitutionには「構成すること」という意味もある。従って、「構成的権力」とは「憲法」以前の、つまり新しい「憲法」を成立させることができる「権力」という意味になる。第ニ次世界大戦後のアメリカの政治学者、ハンナ・アーレントがアメリカの政治機構の中に「構成的権力」が働く危険性を見抜いていた。イラク戦争の過程でフランスと対立したアメリカのラムズフェルド国務長官が『国家主権と内政不干渉を定めた17世紀のウエストファリア条約はもう古い』と述べたとき、そこにはアメリカが世界を再組織化(再構成)するという意志が現れていたのである。
・・・「構成的権力」は、現在の世界体制を仕切る憲法(国際法、国連)を“意図的”に無視して流動化させる「意志と力」(power)である。当然、その権力の裏づけとして軍事力(暴力)が存在することになる。政治学者ジョルジョ・アガンベンは、このパワーが<刑務所や収容所の中で生まれる権力>と同質であると述べている。つまり、それは<牢名主の権力>である。憲法と秩序が存在する国家や世界を意図的に不安定化、流動化させて自らの暴力(腕力、政治権力、武器、戦力)で「新しい憲法」と「新しい秩序」を創り出そうという政治的意志(野心)が「構成的権力」なのだ。比喩的に言えば、『ガキ大将が自分の活躍できる場を意図的に創り出す』ことである。アントニオ・ネグリという学者はフランス構造主義の哲学者ミシェル・フーコーがこのような政治状況を称して『生政治(なませいじ)』と名付けたと言っている。
・・・単純なガキ大将とは違い、このような「構成的権力」は緻密な政治的戦略に基づいて行動する。(しかし、その割には今のイラク戦争の惨憺たる状況はお粗末としか言いようがない/「生政治」のはずが、さんざん破壊し尽くし大量殺戮をやった挙句に、ヤッパリ国連にお願いしますとは何たることだ/殺された無辜の人々の無数の命を何だと思っているのか?/やはりインテリの机上の空論だったのか?)そこでは行動科学・政治哲学・政治学・経済学・心理学・情報科学などの専門家、そして、科学者・軍事専門家・ジャーナリストなども総動員して冷静で知的な戦略が練り上げられる。当然、この「構成的権力」のターゲットは最も数が多く弱い立場にある一般民衆であり、彼らの支持を巧妙に取り付けることが当面の大きな目的となる。そこでメディア・コントロールの出番となる。
@西谷修・鵜飼哲・宇野邦一著『アメリカ・宗教・戦争』(せりか書房)
Aアントニオ・ネグリ著、村上昌昭他訳『ホモ・サケル(聖なる人間)、主権権力と剥き出しの生』(松頼社)
Bジョルジョ・アガンペン著、高桑和巳訳『人権の彼方』(以文社)
(第二前提)『アメリカはユニタリー・アンド・ラショナルだ』(Unitary & Rational)
・・・これは(第一前提)よりヒドイ。アメリカという国は“完全に統一されており、理性的かつ合理的である”と言っている。アメリカは完璧で完全無欠な国だというのがネオコンの(定理/第二前提)だというのだから驚く。これもインテリの机上の空論だ。
(第三前提)『世界の未来は確率的に予測できる』
・・・これは最悪だ!未来は確率的に予測できるので、ゲーム論的に戦略を選べばよい。ならば、どうして、あんなイラク戦争というバカなことをやらかしてしまったのか?何の計算もないクセに、あるとしてストラテジーを組み立てたりするから、今のイラクの状況のような大失態をやらかすのだ。
●以上の三つの前提を見て分かるとおり、ソヴィエティズムといいたくなるぐらいのネオコンの計画主義的、合理主義的、技術主義的な(バカげた)世界観に、(世界中の)コンサ-バティブ(保守主義)を名乗る人々が(安易に)妥協している。政治的に否応なく妥協するのはこの世界の常道なのかもしれないが、心までそれに引きずりこまれている日本という国は、もう殆ど望みがないのではないのか。私は(トシでもあるので)早く死んだ方がましだと思っている。
●グローバリズムは、他の国々の歴史を破壊する。国の歴史が破壊されれば、そこではニヒリズム(虚無主義)が生まれる。しかし、人間はニヒリズムに耐えられないので、必ずや価値の原点を求めて、いわゆるファンダメンタリズム(原理主義)へと回帰する。原理主義はバイブルであろうがコーランであろうが、そう簡単に現実化するはずがない。この理想(原理)と現実のギャップの中で原理主義は必然的にテロリズムへと近づいてゆく。結局、アメリカニズム(グローバリズム)がテロリズムをもたらしたのだから、あの9・11テロはアメリカが自分で招いたものだ。こんなことは常識として押さえておくべきことだ。アメリカ人が押さえられないのは仕方ないとしても、日本人までもが何も深く考えずにアメリカ二ズムに引きずられていくのはとんでもないことだ。
●「構造改革」などという戯言を私が“尊敬する”自民党の先生方が言ってのけたので、実に情けないと思っている。小泉さんが言うのは(あの方は特別なので)かまわないが。「構造」(ストラクチャー)はシステムと違う。それは容易に変えられないものだ。変えてしまったら死ぬほどの大ダメージを受けるのが「構造」だ。5、6年前にマーティン・フェルドシュタインというアメリカ経済学会の大御所が『フォーリン・アフェアーズ』の中で次のように言っている。・・・アメリカ人よ、お願いだから構造改革などというバカなことは言わないでくれ。構造改革を他国へ押し付ければ、他国の文明も文化も次々と崩壊するではないか。・・・日本のジャーナリストはほとんどがアホだから、皆、心底本気でないことについてまで、まだ構造改革などと言っている。自民党の方々も、まともな大人が構造改革などと言うのは恥ずかしいことなんだと自覚して欲しい。
●本物の改革(革命)は、古きよき価値を再び現在に巡りきたらせて、現在の状況の中でいかに活用・応用するかを考えることだ。この言葉の意味を分らなくしてしまったのがフランス革命であり、ロシア大革命だ。抜本改革だ、私は革命家だなどと言う政治家は、結局、その国をダメにしてしまう。革命家気取りで“構造改革”のために日本の根っこを引き抜いたら日本は死んでしまうではないか。明治維新は日本のヴァンダリズム(野蛮行為)だった。かつてヴァンダル族はローマへ侵入して、文化の香りあるものは全て壊せといって破壊し尽くしてしまった。構造改革は平成のヴァンダリズムだ。
●規制緩和という戯言も、もう言わないで欲しい。是が非でも維持しなければならない規制もあり、逆に強化しなければならない規制もある。バカなエコノミストが出てきて“経済は規制緩和、社会は規制強化”といっているが、経済と社会が密接に結びついていればこその現実である。そんなことも考えたことがない人たちが、こんな戯言をいうのだ。だから、政治家は聞いた振りをしていればよいのだ。学者には、本当はバカが多いと思って頂きたい。
日本の“正統保守主義者”の代表を自認する西部遭氏の、このように“愉快な話”を自民党の方々がどこまで本気で聞いたかは知る由もありません。しかし、日本人のバランス感覚がまだまだ未成熟だということが的確に指摘されており、勉強になります。この講演は自民党だけでなく、民主党やマスコミの方々にも聞かせるべきかもしれません。今の日本にとって「オランダの光」は、まだまだ遠くにある存在のようです。
(2004.4.17、News-Handler初出)
<関連URL>
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/
http://blog.goo.ne.jp/remb/