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▲丸枠は広開土王碑の変造疑惑部分
「而倭以辛卯年來渡海破百殘○○新羅以爲臣民」
今月5日、忠清(チュンチョン)北道・陰城(ウムソン)郡・笙極(セングク)面にあるクンバウィ顔彫刻公園に復元されて話題となった広開土王碑に刻み込まれた文章だ。
碑の横にある案内板には、このように解釈されている。「辛卯年以来、倭寇(わこう)が海を渡って百殘(百済)と新羅を討ち、臣民にしたため」4世紀後半、韓半島南側が日本の植民地だったという。
「高句麗が中国の辺境政権に過ぎない」という中国政府の「東北工程」によって、高句麗への関心が高まり、最近になり広開土王碑が韓国各地で修復されている。
しかし、数十年に渡り日本による悪意的な変造疑惑が提起されてきた「辛卯年の記事」がそのまま刻まれており、「倭色(日本式)広開土王碑」という非難を受けている。
京畿(キョンギ)道・高陽(コヤン)市のカフェ村のある飲食店前に、今年6月実物大で建てられた広開土王碑も同様だ。碑には陰城郡の碑と同様に論争となっている辛卯年の記事がそのまま刻まれている。
「辛卯年の記事」とは、西暦391年、広開土王の業績を記した部分だ。記事には当時の高句麗、百済、新羅、そして倭が絡んでいる国際関係が20文字の短い文章で盛り込まれている。
1972年、在日韓国人の歴史学者である李進煕(イ・ジンヒ)氏が「日本軍が碑文の中の25字を変造した」と主張する前まで、「辛卯年の記事」は日本の大和政権が4世紀後半から6世紀半ばまで百済、新羅、伽?一帯を支配したという任那日本府説の決定的な根拠となっていた。
李進煕氏の研究以降、毀損される以前の拓本を手に入れ、碑文を再解釈しようとする試みが国内の学界で相次いでいる。
壇国(タングク)大学・史学科の徐栄洙(ソ・ヨンス)教授は「基本的に歴史教育と歴史意識の不在のために生じること」とし、「近視眼的で商業的な広開土王碑の復元は、むしろ誤った歴史認識を広げる恐れがある」と述べた。
独立記念館にある広開土王碑には、辛卯年の記事の中で変造された疑惑が持たれている「倭」「渡」「海」の部分が判読できないように処理されている。
▲広開土王碑とは=高句麗が全盛期にあった414年(長寿(チャンス)王3年)に建てられた。現在、中国・吉林省・集安市、旧高句麗・国内城(2番目の首都)にある。
四角い柱で石核の高さが6.39メートル、重さ37トンにおよび、現在まで発見された韓国の碑石の中では最も大きい。石核の4つの面に1775字が刻まれているが、150字余は消えて読めない状態だ。
キム・ジョンフン記者 runto@chosun.com
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/11/12/20041112000094.html