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【暗いニュースリンク:09/22/2004 投稿: 08:00 午前「隠蔽されたヒロシマ:いかにして陸軍省のタイムズ記者はピューリッツア賞を勝ち取ったか」by エイミー・グッドマン 】
CommonDreams.org 2004/08/10付記事より。
米国の独立系ニュース「デモクラシー・ナウ!」のエイミー・グッドマンと兄のデビッド・グッドマンの共著「The Exception to the Rulers: Exposing Oily Politicians, War Profiteers, and the Media that Love Them」から、第16章全文が公開されたので、翻訳して以下に掲載。
The Exception to the Rulers: Exposing Oily Politicians, War Profiteers, and the Media that Love Them(写真はハードカバー版)現代ジャーナリズム関連の必読本! |
「隠蔽されたヒロシマ:いかにして陸軍省のタイムズ記者はピューリッツア賞を勝ち取ったか」
Hiroshima Cover-up: How the War Department's Timesman Won a Pulitzer
「政府は嘘をつく。(Governments lie. )」
---I・F・ストーン(ジャーナリスト)---
核時代が幕を開けはじめた頃、オーストラリアの独立系ジャーナリスト、ウィルフレッド・バーチェットは、ヒロシマの爆撃の影響を取材するために日本に行った。ひとつだけ問題だったのは、ダグラス・マッカーサー将軍は日本の南部を立ち入り禁止区域に指定し、報道陣を締め出していたことだった。20万人以上の日本人がヒロシマとナガサキに落とされた原爆によって死亡していたが、西欧のジャーナリストでその爆撃の影響を目撃して語るものは一人もいなかった。日本の港から離れた米軍艦コール上に、世界中のメディアが素直に集まり、日本の降伏について取材をしていた。
ウィルフレッド・バーチェットは単独取材することを決心した。彼は、核爆弾がどんな災害を生み出したのかを自分で見て、おおげさに賞賛されているこの新兵器の正体を理解するつもりだった。汽車に乗り、30時間をかけてヒロシマ市内に潜入し、ダグラス・マッカーサーの命令に挑戦した。
バーチェットは汽車から悪夢の世界に放り込まれた思いがした。彼の相対した惨状は、それ以前に他の戦場で経験した光景とは違っていた。35万の住民を抱えるヒロシマの街は跡形もなく破壊されていた。高層建築物は黒こげの柱だけとなった。壁や舗道には、人々の影が焼き付けられていた。肌が溶けて剥がれたままの人々に遭遇した。病院では、大量の出血で紫色の肌をした人、壊疽、高熱、毛髪が抜け落ちた患者が溢れていた。バーチェットは原爆症について目撃し伝えた最初の人物となった。
バーチェットは瓦礫の上に座り、ヘルメスのタイプライターを打ち始めた。彼の報道が始まった:
「ヒロシマでは、史上初めて落とされた原子爆弾が街を破壊し、世界を驚愕させてから30日が経過しているが、現在でも住民の死亡者が増加しつづけている。怪我をしていない人々は、原子の伝染病としか表現しようのない未知の大異変に襲われている。」
彼は文字を打ち続け、今日まで脳裏に刻まれることになる言葉を続けた:
「ヒロシマは、爆撃された都市には見えない。まるで巨大なローラーの化け物が通り過ぎて、存在する全てを押しつぶしてしまったかのようだ。私はこれらの事実を、世界への警告として伝達されることを願い、可能な限り冷静に書き記しておこうと思う」
バーチェットの記事は、「原子の伝染病(THE ATOMIC PLAGUE)」という見出しで、1945年9月5日に、ロンドン・デイリーエクスプレス紙に掲載された。この記事は世界にセンセーションを巻き起こした。バーチェットの、恐怖に対する飾り気のない反応は読者を驚愕させた。「原爆の最初の試験地となった現場で、私は4年間の戦争取材中、もっとも悲惨な、恐ろしく荒廃した世界を目撃した。この光景に比較すれば、攻撃に荒れた太平洋の島々でさえ、まるでエデンの園に見えることだろう。被害は写真で表現できないほど酷い」
「ヒロシマに到着したら、25から30マイル四方(約49キロ四方)は見渡せる。建物ひとつ建っていない。このような人類による破壊の惨状を目にすれば、誰でも吐き気を催すことだろう」
バーチェットの煽情的な、独立した報道は、米軍にとっては大失態だった。マッカーサー将軍はジャーナリストが爆心地に近づくことを必死で禁止し、米軍の検閲はより厳格になり、恐怖を伝える報道は抹殺された。公式の報道では、原爆による住民被害は過小に評価され、被爆による死亡は断固として隠蔽された。被害を取材した記者たちは口を塞がれた:シカゴ・デイリーニュースのジョージ・ウェラー記者は、ナガサキに潜入し、そこで目にした悪夢を25,000文字の記事にした。そして彼は致命的な過ちを犯した・・・記事を軍部の検閲官に渡したのだ。彼の新聞社はその記事を受け取ることがなかった。ウェラー記者は、マッカーサーの検閲に直面した体験を、後にこう締めくくった。「奴等の勝ちだ」
米国の政府当局者は、バーチェットの暴露に対して昔ながらのやり方で対抗した。報道した者を攻撃したのだ。マッカーサー将軍はバーチェットを日本から追い出すよう命令し(命令は後に破棄された)、ヒロシマの写真を収めたバーチェットのカメラは、彼が病院に居る間に謎の消失を遂げた。米国の政府関係者は、バーチェットを日本のプロパガンダに毒された人物と非難した。被爆による病状という考えは政府により一蹴された。米軍はヒロシマ原爆投下直後に記者会見を行い、人的被害については過小報告し、代わりに爆撃地が軍事・工業地として重要であったことを強調した。
バーチェットの記事が世界の新聞の第1面を飾ってから4日後、原爆計画の責任者であるレスリー・R・グローブ少将は、ニューメキシコに30名の精選された記者たちを招待した。記者たちの中でも重要な役割を果たしたのは、ウィリアム・L・ローレンス---ニューヨークタイムズの記者で、科学に関する報道でピューリッツア賞を受賞した記者だった。グローブ少将は記者たちを最初の原爆実験地に案内した。少将の意図は、放射能の残存が実験地で見られないということを実証してみせたかったのだ。グローブズ少将はローレンスを信頼しており、軍の意図どおりに報道してくれるものと期待していた。そして、少将の期待は裏切られることがなかった。
ローレンスのトップ記事---「米国の原爆実験地は東京の話と矛盾:ニューメキシコの試験地で、放射能ではなく爆撃のみ損害を及ぼすことが確認された」---は、軍部の3日に渡る詳細な検閲を受けて後、1945年9月12日に一斉に報道された。記事はこう始まる:「史上最初の原爆が爆破した現場、人類の文明の新しい段階の発祥の地であるこの歴史的なニューメキシコの土地は、8月6日の原爆投下以降にヒロシマの住民が死亡している原因は放射能であり、ヒロシマに入った人々が残留放射線で謎の病気にかかるという日本のプロパガンダに対し、最も効果的な反論を提供した」ローレンスは悪びれることなく、米軍への取材について「それらプロパガンダの虚偽性を実証するため」と宣言した。
ローレンスはグローブス少将の言葉を引用した。「日本側は、放射能で人が死ぬと主張しているが、もしそれが本当だとしても、被害は非常に少ないはずだ」
その後、ローレンスは、発生した事実について自身の印象を述べた。「日本側は未だに、わが国が不正な手段で戦争に勝利したという印象を捏造するためのプロパガンダを継続している。それにより同情を引き起こし、降伏条件を緩めてもらうつもりだ。このように、日本側が主張する「症状」は真実とは思われない」
しかしローレンスは知っていた。1945年7月16日に、彼は最初の原爆実験を観察していたのだ。彼は放射能が南西部の砂漠に残留し、地元住民や家畜に悪影響を及ぼすことを知りながら、見て見ぬふりをした。彼は試験地のガイガーカウンターが封じられている件について無言を通した。
ウィリアム・L・ローレンスはタイムズに10回の連載記事を書き、核開発計画の技術的成果と精巧さを伝えることに専念した。これらの一連の報道の中で、彼は原爆が人類に与える被害について過小に伝えていた。ローレンスはこの報道により、ピューリッツア賞を受賞した。
実のところ、ウィリアム・L・ローレンスに給料を支払う雇用主はニューヨークタイムズ紙だけではなかった。彼は陸軍省からも給与を受け取っていたのである。1945年5月、レスリー・グローブス少将はニューヨークタイムズでローレンスと秘密の会合を開き、米国の原爆開発計画「マンハッタン・プロジェクト」についてのプレスリリースを書く仕事を紹介された。タイムズによれば、その意図は、「原爆の実施原則の複雑さを素人の言葉で解説するため」だという。ローレンスは、トルーマン大統領と陸軍省秘書官のヘンリー・スティムソンのために、爆弾投下の宣言文も書いた。
ローレンスは喜んで政府の仕事を請け負った。「彼の科学への好奇心と愛国心への熱意は、おそらくジャーナリストとしての独立性を損なう危険性から彼自身の目を覆うことになる」エッセイストのハロルド・エバンズは戦争史の記事で述べている。エバンズは言う:「爆弾の投下後、明晰だが残忍なグローブス少将は放射能の影響について隠蔽、歪曲を続けた。日本人の死に関する報告を“でっち上げ、もしくはプロパガンダ”と一蹴した。タイムズ紙のローレンスもまた彼の味方となり、バーチェットの記事の後でさえ、政府側の情報を繰り返した。」まさしく、ヒロシマ原爆投下後に米軍から発表された幾多もの政府広報文は、目撃者の説明もないまま、米国内の新聞紙上に、他ならぬローレンス自身によって丸写しされ、掲載された。
「陸軍省のために広報文を書き、世界中にそれが配信されるという私の仕事は名誉なことで、ジャーナリズムの歴史上でもユニークな試みだった」回顧録「Dawn Over Zero」の中でローレンスはそう誇っている。「他のどの記者に対しても、あれを上回る名誉が与えられることはなかっただろう」
「原子爆弾のビル」ローレンスは核兵器を崇拝していた。はるか1929年の昔から、ローレンスはアメリカ核開発計画を追随していた。彼の、政府エージェントと新聞記者という二足のわらじ状態は、米軍関係者への前代未聞の接近を可能にし、ナガサキに原爆を落とした飛行隊に同乗するまでに発展した。ローレンスの書いた原爆やその効果に関する記事は、神聖なトーンで彩られ、ほとんど宗教的な畏怖にも似た解説で脚色されていた。
(米軍によって検閲され、投下から1ヶ月間経過して公表された)ローレンスの記事中に書かれるナガサキへの原爆投下は、10万人の住民を焼却すると説明されている。ローレンスは歓喜に酔いしれていた:「まるで地球外ではなく地中からやってきた流星のように、我々は爆発が上方に伸びる光景を畏敬の念に打たれながら見ていた・・・白い煙が空を昇る姿はまるで生き物のようだ・・・それはまさしく生きている・・・瞠目する我々の目前で生まれた新種の生物なのだ。」
後に、ローレンスは原爆の印象についてこう話している:「近づいて観れば、まるで生き物のように形作られたもので、彫刻家が誇りを持てるほどこの上なく見事に作られている・・・まるで観るものに超自然的な存在を感じさせるほどだ」
ローレンスは雇い主の秘密を守ることに長けていたので、ニューメキシコの致死的な被曝情報を隠蔽することにより、日本での被害についても否定することができた。タイムズ紙はさらに秘密を守ることに長けていたので、単にローレンスの、政府広報役と新聞記者という立場を、ヒロシマ原爆投下の次の日である8月7日、ローレンスがペンタゴンのために働き始めて4ヶ月経過してから公開するにとどめることができたのだ。ロバート・ジェイ・リフトンとグレッグ・ミッチェルが書いた素晴らしい著作「アメリカのヒロシマ:50年間の否定(Hiroshima in America: Fifty Years of Denial)」にはこう記されている:「国家の指導的立場にある科学記者が、深刻なほど妥協して、同時代の最も重大な科学上の発見に関して発生する可能性のある災害について知っていること全てを話さなかったのだ」
放射線:わかっていても話さない(Radiation: Now You See It, Now You Don't)
ニューヨークタイムズ紙のもう1人の記者がヒロシマ取材に関わることにより、この物語は奇妙な展開を見せることになる。彼の名前は、信じられないかもしれないが、ウィリアム・ローレンスという。(署名はW.H. Lawrence)彼は長い間、ウィリアム・L・ローレンスと混同されてきた。(ウィルフレッド・バーチェットですら、1983年に刊行された自身の回顧録によれば、この二人を混同して記憶している)
陸軍省のピューリッツア賞受賞記者と違い、W・H・ローレンスはきちんとヒロシマに行き、バーチェット記者と同じ日に取材をしていた。(ウィリアム・L・ローレンスは、ナガサキへ原爆投下した飛行隊に同乗した後、そのまま合衆国に呼び戻されたので、爆撃された土地に降り立つことはなかった)
W・H・ローレンスの、ヒロシマからの元の報道記事は1945年9月5日に公開された。彼は放射線の危険な影響について事実に基づく記事を書き、「ヒロシマに居る全ての人は原爆の残留放射線の影響で死んでいくだろう」と日本の医者が懸念しているという事実を記事にした。彼は、原爆投下の日に少しの怪我しかしなかった人々が、白血球の86%を失って、華氏104度の高熱を出し、髪が抜け落ち、気力を失くし、血を吐いて死ぬ様子を説明した。
ところが非常に奇妙なことに、W・H・ローレンスは一週間後の新聞記事で「ヒロシマの残骸に放射線の影響なし」という見出しで、全く正反対の記事を書くことになった。この記事では、ペンタゴンの歪曲マシンは最速ギアでバーチェットの「放射線障害」に関する恐ろしい報告に対抗している。記事の中で、W・H・ローレンスは、陸軍准将T・F・ファレル---陸軍省のヒロシマ原爆投下責任者が「(原爆が)危険な残留放射線を放出する疑惑についてきっぱりと否定した」と書いている。ローレンスの記事で引用されたのはファレル准将の発言のみで、その前の週に彼自身が記事に書いた、放射線障害で死んでいく人々の目撃証言については記事内で言及されなかった。
ウィルフレッド・バーチェットとウィリアム・L・ローレンスの相反する記事は、遥か昔の歴史となり、現在に至るも何ら変更がない。2003年10月23日、ニューヨーク・タイムズ紙は、1932年度にピューリッツア賞を受賞したタイムズ紙記者のウォルター・デュランティについての問題に関する記事を掲載した。旧ソビエト連邦に派遣されたデュランティは、1932年から1933年の間に大勢のウクライナ住民が飢饉によって死亡した事実を否定していた。ピューリッツア賞選考委員会は2つの照会を通して、デュランティ記者の受賞資格を剥奪することを考慮していた。タイムズ紙は記者の「退廃を遺憾に思う」と表明し、編集署名記事としてデュランティ記者の仕事を「タイムズ紙に掲載された最悪の記事の一つ」として自己批判した。現在のタイムズ紙編集長ビル・ケラーはデュランティ記者の行為を「軽率な、批判的視点を持たないプロパガンダのオウム返し」と批判した。
2003年11月21日、ピューリッツア賞選考委員会はデュランティ記者の受賞剥奪を取り消す決定を下し、受賞した記事内容について「意図的に偽ったことを確信させる明確な証拠に欠ける」と結論づけた。
ジョセフ・スターリンの擁護者であったデュランティにとって、まさにぬれ手に粟のぼろもうけだったわけだ。ウィリアム・L・ローレンス記者が放射線の危険な影響について否定した記事は「意図的な偽り」ではなかったのか?ピューリッツア賞選考委員会は、国防総省に雇われた広報担当者が、何百万人もの日本人が苦しんでいる事実を否定している記事を書いたことに対して、どういう理由でジャーナリズム賞を受賞させる資格があると判断したのだろう?ピューリッツア賞選考委員とタイムズ紙は、米国発の報道に対しては、「批判的視点を持たないプロパガンダのオウム返し」を是認してきたではないか。
ヒロシマ原爆投下を擁護した記者からピューリッツア賞を剥奪する期限はとうの昔に過ぎている。