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九条のない世界
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1月15日
成人の日。
成人式への参加は強制だ。式のあとで、翌日の入隊のためのレクチャーがあるためだ。
「君が代」斉唱、会場中に響き渡る。誰もが思想監視を恐れている。それでも僕は歌わなかった。15%の消費税と国防税にほとんどの国民が苦しんでいる現在、この歌はあまりにも日本人を馬鹿にしていると感じる。
出欠の確認は口頭ではない。会場入り口に設置されている住基ネットIDカードリーダーで、誰が何時何分に来たかまでチェックできるからだ。外出時のIDカード携帯が法律によって義務化されたのはこのように利用されるためだったのだ。
1月16日
地区予備練習隊入隊。身体検査及び適性検査。
男女を問わず、20歳になると兵役の義務が生じる。自己の良心に基づく兵役拒否は認められない。ほとんどの場合、理数系の学生は1年間、それ以外の学生および有職者は2年間の義務が課される。しかし、国が特別に認定した者に対しては兵役の義務が完全に免除される。だが、疾病や障害を抱えている者に対しては、かなりの重度でない限り免除の適用は受けられないらしい。
有職者にはその賃金に見合った給金が支払われるが、学生に支給されるのは生活必需品のみである。
即日班分けをされ寄宿舎に入れられる。一部屋四人である。部屋には二段ベッドと学習机、NHKしか映らないとはいえテレビがある。刑務所よりはいくらかマシのようだ。明日からは演習に明け暮れる日々が続く。
2月11日
建国記念日。
特別講座受講。体を使った過酷な演習が続いたのでやれやれと思っていたが……。
日本軍の存在意義とは、天孫降臨以来続いている天皇を中心とする優れた日本の国体を守ることにあるらしい。この国体なしに国民は存在し得ないという。あまりにも馬鹿馬鹿しいので、講義後のレポートで遠回しに批判を書いた。
夜間自習をしていると、教官室に呼ばれた。「こういう偏ったことを書いているとキサマのためにならん」と言われ、罰として20キロメートルのランニングを命じられる。
一時間半でランニングを終え部屋に戻ると、米軍がイランに侵攻した事をテレビが報じている。日米軍事同盟条約により、日本陸海軍も参戦することになる。
どうにもならなくなった国の借金を返すために、他国からの略奪を遂に開始したのだ。当然、アジア諸国から反発されるだろうが、世界最強軍が味方なので政府は無視すると思う。
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3月31日
予備練習隊最終日。修了式。
午後6時、体育館に全員が集合した。隊長訓辞のあと、各班に分かれ教官から成績表と階級章を渡された。
僕の成績は最低のEランクだった。ことあるごとに反抗的と見なされ、罰を受けてきたから当然だろう。罰と言っても、旧帝国軍のような鉄拳制裁ではない。叱責を受け、ランニングや腕立て伏せなどを課されただけだった。
当初抱いていた軍隊のイメージとは少し違った。軍事に関する知識を植え付けられる他は、部活の合宿に毛が生えたようなものだった。この調子ならば、残り一年九ヶ月あまりの軍隊生活にも耐えられそうだ。
階級章には星一つ。軍隊なんかで成績や階級が上でも自慢できることではない。これでいい。
4月1日
地区歩兵連隊配属。兵営に移動。
到着して荷物を置くとすぐに営庭へ集合がかけられた。分隊ごとに整列し、連隊長の訓辞を聞かされた。その後分隊ミーティングとなった。
分隊長は学校卒業後すぐに軍へ志願した下士官。歳は僕とさほど変わらないくせに、話し方が予備練習隊の教官よりも横柄だ。
「そこの二等兵、前に出ろ」
僕のことだ。列の前に出ると、いきなり顔を殴られた。
「キサマ、予連隊で最低の成績だったそうだな」
もう一発殴られた。なぜ殴られねばならないのか。怒りがこみ上げてきて、拳を振り上げた。しかしその下士官は僕の手をひねりあげ、羽交い締めにした。この動きこの強さ。鍛え上げられている。体力がまるで違う。
4月29日
昭和の日。
いつもどおり午前5時30分に起床ラッパが鳴る。着替えヘルメットをかぶり小銃を担いで営庭に集合する。
ここでの生活は予備練習隊とはまるで違う。昔、曾祖父から聞いた「軍隊」そのままだ。兵は弾薬などと同じく消耗品で、人間らしく扱われることはない。
午後、「昭和天皇御生誕記念特別講演会」のため、新兵は大会堂に集められた。
「ABCD包囲網の中、不満に満ちた世論に押されて、昭和天皇は大東亜戦争開戦に踏み切らざるを得なかった」
確かにそういう認識は僕にもあった。しかし、それは中学生までだ。
「大日本帝国軍によってアジアの国々は西洋列強から独立することができた」
「ヒロシマ・ナガサキに投下された原子爆弾は、大東亜戦争の犠牲の拡大化を防ぐとともに、日本の共産主義化を防いだ」
こんな、人間よりも軍事力を中心にして歴史を語ることが許されるものか。
「昭和天皇のご聖断により大東亜戦争は終結した。このご聖断がなければ今日の日本はなかった」
僕は思わず「嘘だ!」と声を上げた。
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5月3日
思想・信条・信教の自由は現憲法でも保障されている。僕の拠り所と言えばその点だけだ。軍隊であろうと、それを侵すことはできないはずだ。
「昭和天皇のご聖断の何が嘘だ?」
何がと問われれば、「ご聖断」自体が嘘だと言わざるを得ない。確かに歴史の教科書には奴らの言うとおりのことが書いていた。だが、人間のすることに「聖」という言葉をつけること自体、とてつもなくおかしなことだろう。戦争責任を隠蔽するための詭弁だ。
尋問室には入れ替わり立ち替わり下士官がやってきて同じ事を聞く。ある者は怒鳴り、ある者は殴りつける。そして、考えをあらためるよう迫る。もう4日目だ。非を認めるふりをして楽になることはいつでもできる。ただ、いくら殴られようと、黒いものを白だと僕は言えない。しかし、日ごとに気弱になっていくことが自分でも分かる。
夜になると半地下にある営倉に入れられる。見上げると小窓から月光が差し込んでいる。それさえも慰めになっていた。
5月4日
将校が尋問に来るのは初めてだ。若い。が、防衛大学出の軍隊の申し子だ。
下士官達は一方的に僕の考えをあらためさそうとするが、彼らを指揮・管理する立場の将校は思想・信条・信教の自由についてどう考えているのか。僕は思いきって聞いてみた。憲法を軍が蔑ろにすることは、文民統制に逆らうことではないのかと。
将校は笑って答えた。
「建前上はそうなる。しかし、シビリアンコントロールなどただの言葉にすぎない。例えばだが、銃を前にして、それを言葉で抑止することができるのかね」
それが軍人の本音というわけか。
「軍の目的は戦争に勝つことだ。そのためには全軍にわたって徹底した意思の疎通が必要だ。キサマは思想統制と思うかも知れないが、勝つためには是非もないことだ」
それは、軍国主義そのものじゃないか。
「キサマのように軍のやり方に異を唱える新兵は毎年数名いる。ただ、これを見れば誰もが自分の意志を曲げる」
将校が鞄から取り出したのは、憲兵隊の名で裁判所から取られた、僕の父に対する逮捕状だった。
6月1日
テヘラン陥落後も戦闘は続き、日本軍の死者も千人を超えた。
対イスラム戦争の激戦化をうけてか、今日は機甲師団と合同の実弾を使った大がかりな演習が行われた。
数十台の戦車がものすごいスピードで走行していく。そして所定位置に着くと一斉に砲撃を開始する。すさまじい爆音だ。
歩兵連隊は戦車の砲撃の後に展開。命令があると的めがけて自動小銃を撃つ。弾が切れたらカートリッジごと交換する。実弾を使っているために、分隊長の指示をよく聞きそれに従っていないと命を落としかねない。自分の考えなど介入させる余地はほとんどない。命令に忠実に動かざるを得ない。
それでも、カートリッジ交換時にふと気がついた。この位置関係では、僕が分隊長を狙撃することが可能だ。いつも丁寧に殴って下さる分隊長の命が僕の手の中にある。僕は、銃口を分隊長へと向けた。
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兵役連帯責任法違反ということで、私は逮捕された。子の兵役拒否や兵役時の問題行動があった場合、親も連帯してその責任を負うというものである。
自宅の玄関から両脇を憲兵につかまれて、私は軍の車に押し込まれた。
逮捕の前にも、息子の軍隊内での言動について、憲兵隊から数回任意で取り調べを受けた。私はいつも、問題があるとしたらそれは自分の子育て方法であることを説明し、あとはひたすら謝った。そして大体三〜四時間くらいで釈放されていた。別に、どうということはなかった。
しかし、今度は逮捕である。ただごとではあるまい。息子はどうなってしまったのか。護送される途中、息子の身が心配でたまらなかった。
私の祖父は、旧日本軍の憲兵隊員だった。しかし、反骨の人であり、憲兵隊や軍のやり方に堪えきれなくなり、ある日を境に大日本帝国そのものを批判し反抗するようになった。そして敗戦まで、投獄されていた。恐らくこの気骨を私も息子も継承している。
それでも私は、平和憲法破棄を食い止めることはできなかった。私が息子の歳のころには、日本が再び戦争をはじめるなどとは全く考えられなかったことだ。その安穏とした風潮の裏では、反戦運動を無力化する動きが着々と進んでいた。革新勢力の分断もその一つだ。これではまとまった反憲法改定・反戦運動などできるはずはなかった。そして日本人は、アメリカ追従の道を選んだ。国民投票の集計には大きな問題があったと言われているが。
新憲法では戦力の保持と、集団的自衛権の行使が認められるようになった。それだけでは何の問題もないように見えるが、憲法上の「解釈」ということで、旧日本帝国軍により近い軍隊を持つに至った。事実上、軍は暴走しているのである。日本人に文民統制ができないことを、我々は歴史から知っていたはずなのに。
石油利権のために他国の民を虐殺し、その抵抗をうけて日本人が死ぬ。石油資本家は高みの見物で、もし戦争に負ければ別のルートを確保する。市民にとって本当の敵は、奴らではないのか。
国にとって、石油は命より大事なのだろう。しかし私にとっては、石油よりも国よりも、子どもが大事だ。それは妥協のできない対立点である。
「降りろ!」
憲兵隊地区本部に着いた。さて、息子が私を待っている。私は親だ。どんなことをしても子を守る。私が一生刑務所に入ることになったとしても。
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息子は演習中の不穏行動で投獄されているという。最初は息子の行動について具体的な説明はなかった。息子の行動と私の責任の因果関係を立証するためではあるのだろうが、曖昧な尋問を延々と繰り返すのみであった。
一日十二時間取り調べを受け、あとは独房に放り込まれていた。表面には出さぬが、憲兵隊の傲慢な態度に対する怒りによって自分自身を支えていた。少しでも奴らにへつらえば、精神が瓦解すると考えていた。
当然、私は息子を信じていた。不穏行動ということならば、過失によって誰かを怪我させたとか死に至らしめたという事ではないだろう。恐らく、理不尽な命令に反抗したとか、そういったことだろう。私はとにかく、任意で取り調べを受けた時のように、息子の態度の責任は自分にあることを強調することにした。
祖父が、旧軍の憲兵隊員であって、最後には軍のやり方に反抗したことも明言した。息子に祖父から直接その話を聞かせ、軍隊がいかに理不尽なものであるかということを認識させたと話した。「あなた方の先輩はそのようなことをした。それは戦後大変に評価された」と言うことで、取調官の心情に訴えかけようとした。しかし、祖父の行動については、旧日本軍が敗戦時に証拠を隠滅したために現在の軍が保持しているデータにはなかったとして、作り話と断定されてしまった。
あとは、学校では教えられなかった反戦教育を施したことを強調するしかなかった。住基ネットカードのチップには私のこれまでの経歴が詳しく書き込まれている。まず分かることは、私が特定の政党員ではないということだ。そして、これといった市民運動にも参加したことがないということさえ分かるはずだ。それでも、私自身が反戦思想の持ち主であることを強調した。当然現在のイラン侵略に反対していることも。それが息子の思想に大きく影響を与えたのだと訴えた。
息子の不穏行動とは一体何なのか。拘留十日目にようやくその内容が話された。実弾演習中、息子は命令なく銃を構えた。銃口は、直接の指揮官である下士官の方を向いていた、と言うのだ。発砲はしなかったが、その様子が管理車両のビデオに収められていたという。
問題は息子が上官を狙って発砲しようとしたかどうかということだった。これまでの息子の態度から、上官への発砲未遂であることを憲兵隊では確信しているらしい。私の証言からその動機があることも裏付けられたのだろう。
私は失敗したのかも知れない。おそらく、激情に駆られたのか、息子は銃を向けてしまったのだ。しかし、それを口に出すことは決してなかった。息子が上官を狙ったということを断固として否定し続けた。反戦思想というのは、命がこの世で一番大切であるという人類普遍の原理に基づいたものだ。それをたたき込んであるが故、相手が誰であろうと命を取ろうとすることはあり得ないと言い続けた。現に息子は、トリガーを引かなかったのだ。
もちろんそれは、人殺しである軍隊では息子は何の役にも立たないことを証言することだと分かっていた。
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十一日目で取り調べは打ち切られ、私は軍律法廷に出させられることになった。
軍隊が司法制度を持つことは、旧憲法では禁じられていた。すなわち第七十六条の二、「特別裁判所は、これを設置することができない」である。しかし現憲法ではその条文はない。
奴らの常套句、「国際貢献を果たすため」には軍隊内の安寧・秩序が必要だとされ、軍隊が独自の司法権を持てるようにした軍律法制が与党によって強行採決された。立法化された時は、自分にはおよそ関係あるまいと思っていたが、この場に引きずり出されてみると、つくづく日本は変わってしまったのだなと考えざるを得なかった。
被告席は二つ設けられており、大きな日の丸が掲げてある正面に向かって右側に私は座らされた。やがて息子が憲兵に連れられ現れた。徴兵からたった半年で、別人のようにやつれていた。
私は、「大丈夫か」と声をかけた。息子は、ただ「すみません」と言った。
軍律執務官および連隊の将校がぞろぞろと現れ、裁く側の席に着いた。「起立!」のかけ声で、こちら側には弁護人もいない一方的な裁判が始まった。
検事に相当する役割の将校が訴状を読み上げた。息子が軍隊内で反抗的であったこと。演習中指揮官の命令なしに銃を構えましたこと。発砲すれば分隊内の兵に当たる可能性があったこと。これらは軍の秩序を乱す由々しき軍令違反行為であること、などであった。私に対しては、軍に反抗的な態度を教育によって植え付けたことが、息子の軍令違反行為の責任を連帯するに足るものであるとされた。
裁こうとする連中は話し合いをはじめた。日頃の恨みから、戦闘中に上官を兵が後ろから狙撃するということは旧軍でもよくあったらしい、などという声も聞かれた。
一通り話し終えたあと、息子に質問があった。
「キサマは、キサマの直接の指揮官である軍曹を狙撃しようとしたのか」
息子は落ち着いた口調ではっきりと答えた。
「自分にそんなつもりは毛頭ありませんでした。全ては自分の未熟さ故の誤りです。今後は指揮命令に忠実に従います。父は全く関係ありません」
そんな言い方では軍の思うつぼだ。口を挟もうとして立ち上がったが、憲兵に制止された。
判決が言い渡された。証拠不十分ということで、上官狙撃については不問とされたが、命令外行動に罪があるとし、息子は禁固十日の後に別部隊に転属を命じられた。その連帯責任で、私は罰金三十万円を言い渡された。
軍としては、下士官の命が狙われたか否かはこの際問題ではなく、反抗的だった新兵が、例え方便だとしても忠誠を誓うようになった方が重要らしい。息子はある意味たすかったかのようにも思える。しかし、軍の独善的な考えが横行している現場を私は見たのだった。
はじめ、息子を軍から救おうとする意気込みがあった私だったが、軍の強大な力を前にして、自分の無力さを痛感させられたのだ。