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(回答先: Re: まさに小泉は日本のパーペン以外の何者でもない! 投稿者 スパルタコスポノ 日時 2004 年 10 月 15 日 16:10:09)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
フランツ・フォン・パーペン(Franz von Papen, 1879年10月29日 - 1969年5月2日)はドイツの政治家。
ヴェストファーレン州ヴェルルに生まれる。第一次世界大戦の1915年までアメリカ大使館付き武官。大戦終結時はトルコ第4軍参謀長。戦後、ドイツ中央党(ドイツ・カトリック左派)に入党。1921年にプロイセン州議会議員に当選するも、与党だったにも関わらず社会民主党首班の政権を不支持、保守派との親交を重ねる。
1932年6月、ハインリッヒ・ブリューニング内閣が瓦解すると、ヒンデンブルク大統領側近であったクルト・フォン・シュライヒャーの推薦を得てドイツ首相となる。就任4ヶ月の間に、プロイセンの社会民主党政権を解体しプロシア総督を兼任するなどナチス勢力に対抗する独裁政権樹立を目論んだが、国会解散によっても自派を伸長させることが出来ず、12月はじめシュライヒャーによって失墜させられる。
後に首相となったシュライヒャーへの報復のため、アドルフ・ヒトラーと組んでヒトラー=パーペン政権獲得を図ろうとした。非ナチの民族派の支持を得ればヒトラー勢力を抑えられるという見込みは外れ、1933年1月、ヒトラー内閣成立のもと、パーペンは副首相に就任。
しかし、マールブルク大学で過激ナチスおよびSAなどを批判する講演を行ったためヒトラーが激怒。そのためパーペンは副首相を罷免させられた。しかし、ヒンデンブルク大統領の援助によって、オーストリア駐在大使に就任[1]。オーストリア首相ドルフス暗殺のヒトラー関与の隠蔽に務め、オーストリア併合に暗躍した。後にパーペンは、回想録で全ヨーロッパ紛争の回避のためと弁明している[2]。その後、トルコ駐在大使を歴任。
1946年10月のニュルンベルク裁判では無罪。1947年2月の非ナチ化裁判で労働刑8年を宣告されたが、上告の結果1949年釈放。1959年には、教皇ヨハネ23世の個人長官に任命された[3] (http://www.humanitas-international.org/showcase/chronography/timebase/1949-99t.htm)。
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参考文献
[1] 京大西洋史辞典編纂会編, “新編西洋史辞典,” 改訂増補, 東京創元社, 1993.
[2] ロベルト・S.ヴィストリヒ 編, 滝川義人 訳, “ナチス時代ドイツ人名事典,” 原題:Who's who in Nazi Germany, 東洋書林, 2002.
[3] http://www.humanitas-international.org/showcase/chronography/homepage.html
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外部リンク
http://www.us-israel.org/jsource/Holocaust/Papen.html
http://www.infoplease.com/ce6/people/A0837533.html