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(回答先: ジョージ・ソロスが語るボリス・ベレゾフスキーなどロシア新興財閥の“姿” 投稿者 あっしら 日時 2004 年 10 月 06 日 03:57:30)
★ まず、↑の引用のページ数が抜けていましたので、それを明記しておきます。
『ソロスの資本主義改革論:オープンソサエティを求めて』(ジョージ・ソロス著/山田侑平・藤井清美訳/日本経済新聞社/本体価格2100円)のP.294〜297です。
今回は、同じ書籍のP.309〜316から引用します。
「ロシアの政治的・社会的進展は、到底満足できるようなものとは言えない。エリツィン・ファミリーは、大統領選挙後に刑事訴追される事態にならないよう、ボリス・ベレゾフスキーの手引きで、自分たちを守ってくれる後継者を探していた。そして最終的に、連邦保安庁のウラジミール・プーチンに白羽の矢をたてた。一九九九年夏、プーチンは首相に任命され、エリツィン派の大統領候補となった。折りしも、チェチェンのテロ活動が頻発していた。チェチェン武装勢力の指導者、シャミル・バサーエフが隣りのタゲスタン共和国に侵攻すると、プーチンは強攻策に出た。ロシア軍がチェチェン人ゲリラを攻撃し、プーチンは、八月二五日までにタゲスタンからテロリストを一掃すると宣言して、バサーエフに最後通告を突きつけた。そして、その期限は守られた。ロシア国民はプーチンの対応を熱狂的に歓迎し、彼の人気は一挙に高まった。
その後、モスクワで不審なアパート爆破事件が相次いで、就寝中の市民、約三〇〇人が死亡した。この事件がもたらしたパニックのなか、テレビや活字メディアの歩調を合わせたキャンペーンの影響もあって、恐怖と怒りはチェチェン人に向けられた。プーチンはチェチェンに侵攻し、戦争の興奮状態のなかでロシア議会の占拠は行われた。この侵攻にあえて異を唱える候補者は、ごくわずかだった。
グレゴリー・ヤブリンスキーは、そうした少数者の一人だった。彼はダゲスタンでのテロリスト作戦は支持したが、チェチェンへの侵攻は話が別だとした。彼の政党「ヤブロコ」の人気は急落し、議会で発言するために必要な最低得票率、五%を辛うじて確保することができた。政策の擦りあわせもできていない急ごしらえの政権与党「統一」が、二三%を獲得して共産党に次ぐ勢力になった。チュバイスやセルゲイ・キリエンコなどの改革者が率いる「右派勢力連合」は、プーチン支持を打ち出して、得票率八・六%とかなり善戦した。モスクワ市長、ユーリ・ルツコフの応援を受け、最も有力な大統領候補と見なされていたエフゲニー・プリマコフは、決定的な敗北を喫した。彼の政党は一三%しか得票できなかったのである。議会選挙の勝利による勢いに乗じて、エリツィンは大晦日に大統領辞任を発表し、プーチンの次期大統領当選を事実上、確実にした。プリマコフは出馬を断念した。
政界ではほとんど無名だったプーチンが、またたく間にここまでのし上がったのはなぜかを考えると、一九九六年にエリツィン再選を実現させた政治的策謀との不気味な類似を感じざるを得ない。長年ベレゾフスキーと付き合ってきた経験から、私はどちらのケースでも彼が動いたのだと思う。ベレゾフスキーと出会ったのは、彼が国際科学財団に一五〇万ドル寄付してくれたときのことで、財団の専務理事、アレックス・ゴールドファーブがわれわれを引き合わせたんどえある。ベレゾフスキーが後に、この会話がきっかけでエリツィン再選のための同盟を組む気になったと主張した、ダボスでのわれわれの有名な会話は、すでに記した。一九九六年には、われわれは何度か、選挙戦についてきわめて率直な議論を交わした。そうしたなかで、私は、彼のやり方を知るようになった。
その後、われわれは、スビャズインベストの入札で敵対する立場に立ったが、交流は続いていた。私の方は彼を略奪資本主義から正当な資本主義に転換させようとし、彼は彼で、ロシア最強の企業、ガスプロムの総裁に選ばれるために私を利用しようとしていた。一九九七年六月、彼はビクトル・チェルノムイジン―首相就任前はガスプロムの総裁だった―を訪問するに当たって私を同行させるため、有名な保養地、ソチに私を招き、その後、自家用機でモスクワまで送ってくれた。その機中で彼は、チュバイスもネムツォフも自分の総裁選立候補を支持してくれていると言った。私には信じられなかったので、ネムツォフに直接、尋ねてみた。ネムツォフは、それは初耳だと答え、「断固反対する」と言った。
その後、ベレゾフスキーと昼食をともにする機会があった。場所は彼の「クラブ」で、わざわざそうしたのかどうかはともかく、ハリウッド映画に出てくるマフィアの溜まり場のような内装が施されていた。ゲストは私一人だった。私は、ネムツォフの言葉をそのまま伝えこそしなかったが、ネムツォフに尋ねたこと、そして彼がベレゾフスキーの立候補を知らなかったことを伝えた。これを聞いてベレゾフスキーは激怒し、そのあまりの激しさに私の背筋は凍りついた。冗談ではなく、殺されるかもしれないと思った。彼は直接そうは言わなかったが、ネムツォフに話したことで私は彼を裏切ったのだということを、私にしっかり感じ取らせた。それがわれわれの関係の転機になった。その後も交流はあったものの―ベレゾフスキーがニューヨークまで私に会いにきたこともある―そのときから、私は距離を置くようになった。
すでに述べたように、財閥の仲間割れ、そしてとりわけベレゾフスキーとチュバイスの対立は奇怪な話だった(もっとも、エリツィンの後継者にプーチンが選ばれたことは、それ以上に奇怪だったが)。ベレゾフスキーは、自分の個人的利益というプリズムを通して世界を見ており、自分の利益のためにロシアの運命を犠牲にすることなど、何とも思っていなかった。自分や他の財閥たちは、エリツィン再選の費用を出すことで政府を買ったのであり、政府がスビャズインベストの正当な入札を認めたのは約束違反だと、本気で考えていた。そして、自分を裏切ったチュバイスを破滅させずにおくものかと、固く決意していた。私が、そんなことをしたら自分の首を絞めることになるのではないかと言うと、彼はそれしか道はないのだと答えた。弱みを見せたら生き残れないのだと。
そのときは理解できなかったが、今思うと、これは完璧に理屈のとおった言葉だった。正当な資本主義に移行できないベレゾフスキーにとって、生き残るための唯一の方法は、自分が織り上げた違法な関係の網に人々を引っかけ、逃れられないようにしておくことだった。彼はエリツィンの急所は押さえていた。エリツィンの身内のために違法な便宜を図っていたからで、たとえば、エリツィンの女婿を自分の支配下にあるアエロフロートの社長に据えていた。そして、この航空会社のハード・カレンシー収入は、フォーラスという名のスイス企業に送金されていた(フォーラスとは、単純に「フォー・アス(For us・・われわれのために)」という意味だそうだ)。このおかげで彼は、エリツィンに対して、他の財閥はだれも持ち得ないような影響力を持っていた。ベレゾフスキーはチュバイスの急所も押さえていた。そして、いざとなったら、ためらうことなくそのカードを切った。チュバイスが偽の出版契約で九万ドルの報酬を受けたことを暴露したのである。これによって、チュバイスは一時的に失脚した。
こういう視点から、その後の進展を眺めてみよう。ベレゾフスキーとエリツィン・ファミリーは、エリツィン政権下で享受していた刑事訴追を免れる特権を、新政権下でも維持する方法を探し求めていた。彼らはさまざまな方法を試してみたが、なかには茶番としか言いようのないものもあった。ある時など、ベレゾフスキーにそそのかされたエリツィンが、ニコライ・アクショネンコを首相を指名すると下院議長に伝えたにもかかわらず、チュバイスの介入があって、議会に送られた公式文書ではセルゲイ・ステパシンが指名されていた。そのステパシンも、ほどなく解任された。一九九九年、ベレゾフスキーがロシアの違法なカネをアメリカの銀行でマネー・ロンダリングしているという疑惑が浮上すると、彼は必死になった。ロシアで訴追されたら西側に逃亡するという手段が使えなくなったからだ。自分を守ってくれるエリツィンの後継者を、なんとしてでも見つけなければならなかった。その時、プーチンを大統領にする計画が企てられたのである。
一九九七年にソチからモスクワへの機中で、ベレゾフスキーは、ロシアからの分離独立を求めているチェチェンとアブハジアの武装勢力指導者をどうやって買収したかを聞かせてくれた。それゆえ、チェチェンのゲリラ指導者、シャミル・バサーエフがタゲスタンに侵攻したとき、私はくさいと思った。プーチンが通告した期限までにバサーエフがタゲスタンから撤退するかどうかを見れば、背後にロシアがいるかどうかがわかると思った。バサーエフはちゃんと期限までに撤退した。それでも、モスクワのアパート爆破事件については、戦争を正当化するために仕組まれたものだという確信は持てなかった。それではあまりに残酷すぎる。たしかにあり得ないことではない。ロシアの歴史は、帝政時代末期の有名なスパイ、アゼフから、スターリンの粛正を正当化する口実に使われたキーロフ暗殺事件まで、秘密工作員による犯罪で満ちあふれている。しかしそれでもやはり、爆破事件がこれらの事件と同種のものだとは思えなかった。
それでも私は、その可能性を捨て切れなかった。ベレゾフスキーの立場に立って考えてみると、爆破事件は完璧に理にかなっている。これらのテロ事件は、エリツィンとそのファミリーの不正行為を見逃してくれる大統領を選出するのに役立つだけではない。ベレゾフスキーがプーチンの弱みを握るのにも役立つのである。これまでのところ、この説を否定する証拠は出てきていない。
<中略>
プーチンは強い国家の再建を目指し、おそらくそれに成功するだろう。それは多くの意味で望ましい展開と言える。ロシア危機が教えてくれたように、弱い国家は自由に対する脅威になりかねない。市場経済が機能するためには、ルールを強制できる権力が不可欠なのだ。プーチンは、略奪資本主義から正当な資本主義への移行を達成することによって、ロシア経済を回復させていくだろう。スビャズインベストをはじめとする私のロシアへの投資も、ようやく利益を生んでくれるかもしれない。
しかし、プーチンの国家は、オープンソサエティの原則にのっとったものにはならないだろう。むしろ、ソビエト体制崩壊後にロシアの人々が経験したような、道徳的堕落、屈辱、フラストレーションの上に築かれることになろう。プーチンは国内では国家の権威を、海外ではロシアの栄光を復活させようとするだろう。ロシアは失われてなどいない。それどころか、プーチンのもとで活力を取り戻すかもしれない。」
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「ロシア学校占拠事件とプーチンの独裁(田中宇の国際ニュース解説) ―オリガルヒが米英の意を受けバサエフを支援したという見解」
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「再掲:プーチン対オリガルヒ(AKAZUKIN)」
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