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動物愛護週間がきょうで終わる。今年もこの1週間、動物とふれ合う催しなどが全国各地で開かれてきた。それらのニュースに接するたび、胸をよぎる言葉がある。
「必要悪というやろう。私らはそん必要悪たい」
九州のある動物管理センターで、飼い主が持ち込む不要なペットや徘徊(はいかい)犬を処分している現業職場の人が語った言葉だ。別の施設で30年間その仕事をしてきた人は「今も仕事の内容を両親や家族に話していない」と明かしてくれた。
社会の安全と快適な環境を守るために働く人たち。その彼らに自らの存在を「悪」と卑下させ、30年もの長きにわたって家族を偽り続ける苦悩を負わせてきたもの。それは、目的を問わず動物の命を絶つことを「残酷」と決めつけ、冷たい視線を浴びせてきた世間の姿勢にほかならない。
人の迷惑を顧みず、飼育動物を野に放つ行為こそ本当は「悪」なのに、なぜか世間はそれには寛大だ。それゆえ、アイガモ農法に取り組んだ農家が、成長したアイガモを肉にしてやることができず、川や池に放つ現象まで、日本ではしばしば見られる。
自然界に存在しない家禽(かきん)は地域の生態系を乱し、鳴き声は騒音の元になる。その結果、「アイガモ公害」なる言葉まで登場する事態になった。
古来、人は動物を管理し、利用してきた。今は分業によって、自分が直接動物の命を絶たなくても生きていけるようになっただけだ。そのことには目をつぶり、動物をかわいがることだけを求めるかのような風潮に、いびつさを感じるのは私だけか。
毎日新聞 2004年9月26日 0時16分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20040926k0000m070111000c.html