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(回答先: Re: 排外主義と国際連帯 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2004 年 9 月 22 日 01:12:10)
Buenas noches :ちょっと事情は複雑ですね
ジャック・どんどんさんへ。レス、ありがとうございます。
スペイン語で「こんばんは(おやすみ)」はBuenas nochesです。ちなみに朝はBuenos días、午後はBuenas tardes。
スペイン内戦時の反フランコの戦いは「共和国軍」対「フランコ軍」というようには単純化できない面を持っています。私自身もどうしても「カタルーニャ賛歌」などの書籍の影響で共和国軍に感情移入してしまいがちなのですが、このオーウェルの作品にもあるように、スターリン派、アナーキスト派、社会主義者、共和制民主主義者に、深刻に分裂していたようですし、さらにバスクやカタルーニャでは民族主義者が加わり、その上に外国からの「国際義勇軍」が混じって、収拾のつかない悲惨な状態であったことは否めません。
またこの内戦へのカトリック勢力の姿勢も複雑でした。フランコがクーデターを決行した際に、ほとんどの司教区の大司教は即座にフランコ指示の姿勢を打ち出したのですが、カタルーニャとバスクの大司教はフランコになびくことを拒否しました。両地区で民族主義運動を担っていた重要な勢力が教会だったからです。後にバチカンのフランコ支持の前に屈服しますが、内戦初期にバスクで先頭に立って戦ったのは、実はカトリックの若い僧侶たちだったのです。
カタルーニャでは教会権力を否定する共産主義勢力とアナーキストの力が強かったため、教会自身が積極的に参加することは無かったのですが、それでも「カタルーニャの聖地」であるモン・セラット修道院(中世以来の黒い聖母で有名)は、フランコ政権樹立後も反フランコの姿勢を崩さず、全面禁止された民族言語によるミサを続けました。ただしバルセロナなどでは、たとえばガウディの遺作であるサグラダ・ファミリア大聖堂(建築途中)がアナーキスト軍によって焼き討ちを食らいました。もっともここは、カトリックの中でも最も保守的でフランコ支持の教団が依頼して建てたわけですから、狙われる理由はあったわけです。これに関しては次の私の投稿をご覧ください。
http://www.asyura2.com/0311/war45/msg/757.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2004 年 1 月 01 日 10:14:56:
Feliz Año Nuevo! バルセロナより感謝を込めてご挨拶
戦闘が早めに終結したアンダルシア、バレアレス諸島やガリシア、カンタブリア、アストゥリアスなどの北部地域ではさほどでもなかったのですが、最後まで激戦の続いたアラゴンでは宗教施設に対する破壊、僧侶の殺害はかなり激しかったようですし、教会の僧侶自身が銃を持って共和国軍を狙った例もあるようです。
共和国軍支配地域でも様々なゴタゴタがありました。特にアナーキストが支配した地域では、いきなり多くの個人財産を共有にする、新たな紙幣(言ってみれば「軍票」)を発行する、などの「理想」を実行に移したものですから、多くの田舎町で経済がすっかり滞ってしまい逆に混乱を広げる結果に終わった場所もあったようです。
ただ、この内戦は人命や施設ばかりでなく、各地の町や村の人間関係を相当に破壊してしまいました。私の知り合いの出身地はカタルーニャ内陸部にある人口が百人ほどの小さな農村で、昔は200人ほど住んでいたそうですが、村人が共和派とフランコ派に別れ、それぞれ別の喫茶店(兼食堂、兼酒場)に集まって気勢を上げてはにらみ合っていたそうです。(共和派の集会所として使われた喫茶店は今でもあり、私もその村に行くたびに立ち寄っています。)当然ですが、内戦終結後は主だった共和国支持者が逮捕され刑務所に数年間ぶち込まれ、密告や裏切りは小さな農村の人間関係を破壊してしまいました。ただしこれはたとえ共和国軍が勝っていても同様だったでしょう。
現在ではそんな気配すら見せないのどかな村ですが、当時の記憶が残る老人たちが酒でも飲むと、「あのなあ、あそこの角に住んでいる○○はなあ、元々は共和派だったくせして独裁政権が出来たとたんに裏切りやがってなあ、・・・」というぼやきを聞かされることがあります。人の心を引き裂き癒しがたい傷を残した内戦の残酷さを、今でもスペインは深いところで背負っています。
もっとあるのですが、あまり長くもなれませんのでこれくらいで。