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〈人物で見る日本の朝鮮観〉 吉野作造(上) [朝鮮新報]
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/1176.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 12 月 02 日 00:14:52:Mo7ApAlflbQ6s
 


 吉野作造(1878〜1933)は政治学者で「大正デモクラシー」の主唱者、そして果敢なる実践者として日本現代史に燦然と輝く星である。彼の唱えた民本主義は大正時代を貫く主潮となって、あの制約された時代に民主主義思想普及の基調をなした。その吉野の朝鮮認識をみようとするのだが、吉野を深く研究した松尾尊~氏によると、吉野の朝鮮論は50篇あるという。これだけで優に一大冊を超える。

 吉野作造は、現在の宮城県古川市で綿屋を業とする父年蔵、母こうの長男として生れた。1884年小学校入学。10年後の1894年は日清戦争の起きた年で、仙台の県立中学の2年生であった。1897年、仙台の第二高等学校に入学。翌年、洗礼を受けキリスト教に入信する。1900(明治33)年、東京帝国大学の政治学科に入学、同年海老名弾正の主宰する本郷教会に参加し、雑誌「新人」の編集に協力する。1904年、政治学科を首席で卒業し、大学院に進む。1905年、島田三郎らと「朝鮮問題研究会」を発足させる。1906年、袁世凱の長子の家庭教師として天津に赴き、3年間、中国に滞在する。1909(明治42)年、帰国。東京帝大助教授に任ぜられ政治史を担当。翌年、政治学研究のため、満3年ヨーロッパに留学することになる。

 1913(大正2)年7月帰国。翌年教授。その翌年法学博士の学位を受ける。吉野は帰国後、間もなく、「中央公論」主幹の滝田樗陰の訪問をうけるが、それより吉野の「中央公論」に拠った論文発表がしばしば行なわれ、中でも1916(大正5)年1月、「中央公論」に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という長文の論文を発表し、ここで民本主義を唱え、日本論壇に一大波紋をおこすことになる。

 この時の民本主義主唱とその後の厳しい実践活動は当時の日本社会における新たなデモクラシー思想の普及という点で、その理論的根拠とされて巨大な力を発揮したと言える。

 さて、吉野作造の朝鮮認識である。生涯にわたって吉野の朝鮮認識をみるに、およそ三段階に分けられるように思われる。第一段階は、彼の大学生時代の日露戦争前後期から韓国併合に至る期間である。

 彼の「日清戦争前後」という一文によると「子供心にも外国の侮りを受けたと聞かされて憤慨した」というが、これは金玉均暗殺と関連したことである。日本の客、金玉均を殺したのは、清と韓である、日本は外国の侮りを受けたと言論界と国会議員たちは大騒ぎをし、日本政府はこの「世論」を援軍として、国民を日清戦争へと誘導する。中学2年生の吉野はテもなくこれを信じたのである。これは10年後の日露戦争前後期でも変らなかった。大学4年生の時に「露国一度満州を経略せんか、彼は更に朝鮮を経略すべきこと火を見るより明也。之れ到底我国の堪ふる所に非ず。吾人は朝鮮の独立を保全し、以て帝国の自存を安全にせんがためには露国の満州に於ける勢力を挫かざるべからず」(『新人』1904年3月号)と書いている。

 また、「吾人は文明に対する義務として露国に勝たざるべからず。私に思ふ露国を膺懲するは或は日本国民の天授の使命ならんと」(「露国の敗北は世界平和の基也」「新人」1904年3月号)とも書く。要するに吉野は明治政府と朝鮮侵略意欲を共有していたのである。その吉野が、1905(明治38)年中頃、朝鮮問題研究会という組織を立ち上げる。メンバーは島田三郎、浮田和民、海老名弾正、小山東助などの錚々たるものである。この会を作った直接的契機は、「新人」誌に載った島田三郎の「朝鮮に対する日本人の職分」(明治38年3月号)と、同じく「新人」の明治38年5、6月号に載った親友小山東助の「朝鮮同化論」に触発されたものと思われる。島田の論は「朝鮮は救済するの見込なし」とする説に対し、日清戦争は朝鮮独立を大義名分としたが、「朝鮮、救うべからず」との自覚で戦ったのなら、それは詐欺的不正行為で「日本人の残忍無慈悲も亦、誠に甚だし」と指摘し、その他「古代に於ける朝鮮が文明富強にして我日本の先覚たり」などの朝鮮人の美質についての説明もあるが、現在は「政治の改善によりて此等下層人民の疾苦を救はざるべからず」として、結局は朝鮮人民を日本植民地下での「善政」によって救済するのが日本人の職分である、というものである。小山の「新人」誌上の2回にわたる「朝鮮同化論」は論旨は多岐だが、要するに「日本人は朝鮮民族を虐政、貧困、無智、迷信より救済し出して」やらねばならぬが、「朝鮮は素より自治の実力なく、又独立の志望乏しく、多数人民の要する所は只善政に在り」だから、植民地にして日本がやってやればよい、と言うにある。つまり、吉野の朝鮮問題研究会はこの様な問題意識によって作られたのである。

 吉野は「韓国併合」をヨーロッパ留学中に知る。吉野日記の1910年8月30日条に「新聞の所報に依れば、愈昨日、日韓合邦の条約公にせられたりと云う。日本皇帝は特に勅諭を発し韓人に特赦を命じ減税を約せりと伝う」(片仮名は平がなに直す)となっている。吉野は念願の日本の「善政」が始まったと思ったことだろう。(琴秉洞、朝・日関係史研究者)

[朝鮮新報 2004.12.1]

http://210.145.168.243/sinboj/j-2004/06/0406j1201-00001.htm

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