現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ37 > 1144.html ★阿修羅♪ |
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見よ!1968年を!当時は自衛隊は海外へなど派兵もされていなくて、有事法制の「ゆ」の字を言っただけでも、
大臣の首がぶっ飛ぶ時代であった。今のほうが百万倍も軍国主義になっているというのに、当時の百万分の一も
反戦運動・反体制運動をしていないではないか!これを見習え!怒れ!怒りまくって毎日、反戦に取り組めえええええ!
安保 粉砕! 斗争 勝利! アンポッ! フンサイッ! トーソーッ! ショーリッ! ワッショイ!
★権威主義、商業主義に異をとなえることに端を発した学園内の改革運動はいまや、反安保、ベトナム反戦、そして
世界同時革命を目指す政治闘争におよんでいたのである!価値の紊乱(びんらん)!日常性の破壊!造反有理!
「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」
♪暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は荒れ狂う ひるまず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖を打ち砕け♪
以下、あっちこっちのホームページを総合した年表。
◆全共闘時代用語の基礎知識 http://www.asahi-net.or.jp/~gr4t-yhr/zennen.htm
《70年安保闘争史略年表》 http://www.asahi-net.or.jp/~gr4t-yhr/zennen.htm
◆東大闘争と日大闘争 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/tousou.htm
◆東大闘争 http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/1968_3.html 1968年バリケードのなかの青春
◆日大闘争 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5328/ 日大全共闘
日大斗争ドキュメント(神田三崎町・経済学部発)
序 1958 1966 1967 1968@ 1968A 1969 1970 1971以降
◆日大闘争前史1958-1965 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5328/nichidaitousou1958.htm
◆『1968年には何があったのか』唐木田健一( 批評社 )三上治の『1970年代論』とあわせての対談 http://www.bund.ne.jp/1968-taidan.htm
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【イントロダクション】
1964年(昭和35年)8月4日 ベトナム、トンキン湾事件。
8月7日 米連邦議会は事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」を採択。
現在では8月4日の北ベトナム軍の攻撃はなかったとする説が有力。
ロバート・マクナマラ国防長官(当時)が1995年に著書で暴露。
1965年(昭和40年)1月30日 慶応大学で授業料値上げ反対闘争。
1966年(昭和41年)1月 早稲田大学学費闘争で150日全学ストライキ。
中国で文化大革命。毛沢東が再び実権を握る。若者たちは伝統的な中国を次々に破壊していった。
12月17日 全学連(三派)再建。
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【安保 粉砕! 斗争 勝利!】
1967年(昭和42年)
2月2日 明大、学費闘争。
4月15日 東京都知事に社・共推薦の美濃部亮吉氏が自民・民社両党推薦(前立教大学総長)松下正寿を破り
東京都知事に当選、初の革新都政となった。
4月15日 横浜市長選挙、飛鳥田一雄勝利。
4月28日 統一地方選挙。
4月28日 沖縄デー。三派系全学連の労学5000名が集会とデモ。「核抜き、基地抜き、本土並み」!
6月5日 中東戦争始まる(「6日戦争」イスラエル軍対エジプト軍)
10月8日 【第1次羽田事件=佐藤首相の南ベトナム訪問阻止闘争】(70年安保闘争〜)
★ヘルメットに角材(ゲバ棒)というスタイルが初めて登場。
学生はゲバ棒などを使い、機動隊と衝突した。京大生・山崎博昭君死亡事件。
10月18日 ミニ・スカートのモデル・ツイッギー来日(ブーム本格化)。
10月20日 吉田茂・元首相死去。(10月31日戦後初の国葬)。
10月21日 ベトナム反戦統一行動。全国44都道府県で140万人参加。「安保粉砕・闘争勝利」ワッショイ!
11月11日 エスペランチスト由比忠之進、佐藤首相の北爆支持に抗議して首相官邸前で焼身自殺。73才。
11月12日 佐藤訪米実力阻止闘争(第二次羽田闘争)。
11月13日 べ平連、横須賀寄港の米空母イントレピッド号からの4水兵の脱走発表。
べ平連を通じて反戦声明を発表する。
11月28日 右翼、べ平連事務所を襲撃、破壊。
12月11日 衆議院予算委員会。佐藤首相は、社会党の成田知己の質問に対し、
「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」が政府の政策であると述べた。
後に「非核三原則」と云われることになった。
12月28日 北京放送が、新しい水爆実験に成功と伝える。
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※大学自治会の全国組織『全学連』(昭和23年9月結成)
(昭和33年6月分裂)
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反主流派(代々木系=日本共産党系) 主流派(反代々木系=新左翼)
全自連 社青同 社学同 マル学同
┌──┴──┐ ┌─┴─┐ │ ┌──┴──┐
代々木派 構造改革派 協会派 解放派─社学同─中革派 革マル派
(民青) │ │ │
(三派系全学連)
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1968年(昭和43年)
1月15日 三派全学連中核派の学生約200人が、法政大学構外で機動隊と衝突、学生131人が凶器準備集合罪などの疑いで
逮捕。逮捕を逃れた70人は急行「雲仙・西海」で佐世保へ。米原子力空母エンタープライズ阻止闘争。
1月16日 博多駅に待機の警官1300人、到着の反日共系学生400人と衝突。警官の過剰警備。
社公共、核持ち込み反対など5項目で合意。米原子力空母エンタープライズ寄港反対を共同で政府に申し入れ。
1月17日 佐世保に結集し米海軍基地に向かう反日共系学生800人、厳戒の警官1400人と平瀬橋で衝突、
(以後、1/21までに4度衝突、重軽傷519人)。公明党、結党以来初めての大衆行動、佐世保で寄港反対集会。
1月19日 米原子力空母エンタープライズが佐世保に入港。学生は全国から佐世保に集合、機動隊と衝突した。(〜1/23)
東京残留の三派全学連は外務省4階に乱入、廊下を30分占拠、89人逮捕。
1月19日 東大医局長缶詰め事件。
1月21日 社共による佐世保2万人集会。三派全学連は佐世保橋で米軍基地内突入を試みたが、放水・催涙ガスで後退、
市民や社会党系デモ隊なども橋際に詰めかけて大混乱。
1月23日 エンタープライズ、佐世保を出港。エンプラ追い出し集会。
1月23日 プエブロ号事件(北朝鮮による情報収集船の拿捕事件)。
1月 日本大学理工学部教授の裏口不正入学あっせん謝礼にからむ脱税事件(日大闘争の発端)。
日本最大のマンモス大学において、膨大な学生数に比べて教授陣容や教育施設の貧弱さ、
学生の集会は禁止され、ビラや掲示なども全て許可制で、自治会活動に関しては大学側と癒着した
右翼・体育会系学生の暴力的圧殺があった。
1月29日 東大医学生自治会、インターン制度に代わって登録医制度導入反対で無期限スト(東大紛争の発端)。
2月16日 中大、学費値あげ闘争、白紙撤回で勝利。
2月20日−24日 金嬉老事件。
3月連日 東京・王子の米軍・野戦病院・反対闘争激化。連日のようにデモ。3月28日頂点。
3月 日本大学経済学部会計課長の富沢広の失跡や、理工学部会計課徴収主任の渡辺はる子の自殺と
いう事件が起きている。
3月10日-31日 三里塚闘争。
3月12日 東大医学部は、1/19の医局長缶詰め事件で17人の処分を発表。
3月26日 東大、処分された学生のうち1人が、同事件と同じ時間に久留米市にいたことが立証され、
東大側の誤認の可能性があると各学部教授懇談会で報告。
3月16日 ソンミ事件。
3月28日 東大全闘委の学生が安田講堂を封鎖し、卒業式実力阻止をはかったため、大学側は卒業式を中止、
各学部で卒業証書の伝達式。
4月4日 マーチン・ルーサー・キング牧師、暗殺。39歳。
4月15日 国税庁、日大の23億円経理不正公表(日大闘争のもうひとつの発端)。
ヤミ給与、組合対策費や政治家などへの対外渉外費など。
5月4日 パリで学生デモ。「5月革命」始まる。想像力が権力を奪う!実存主義者のサルトルやボーボワールなども
参加した。学生の2万人デモを契機に、フランス労働総同盟(CGT)のゼネストが起きた。
一大騒動に発展し、フランス革命の再来とまで、騒がれた。その後、主要先進国に飛び火する。
ソルボンヌのあるラテン区(カルチェ・ラタン)が解放区になった。
5月23日 日大の学生約2千人が、神田三崎町の経済学部一号館前に集まり、日大生として初めてのデモを行なった。
のちに学生たちはこのデモを偉大なる200メートルデモ≠ニ呼んだ。
これに対し、いち早く校舎をロックアウトし、体育会系学生による集会妨害を図る大学側に反発する学生の数が
増え続けた。これが日大闘争の始まりである。
5月25日 日大の約5000人が錦華公園に集まって神田三崎町の白山通りが学生デモで埋め尽くされた。
5月27日 日大の経済・文理・法・芸術・商・農・理工・歯学の各学部の学生有志による全学総決起集会が開かれ、
(1)全理事総退陣、(2)経理の全面公開、(3)集会の自由の承認、(4)不当処分の白紙撤回、
(5)検閲制度撤廃の5つのスローガンが採択され、日大全共闘が結成された。
議長は秋田明大(あけひろ/「めいだい」と呼ばれていた)。日大3万人大衆団交要求デモ(→9/30)。
6月2日 九州大学米軍機墜落事件。夜10時45分頃、福岡の板付基地に着陸しようとしていた米空軍の
RF−4Cファントム偵察機が、建設中の九州大学大型電算センターに墜落。板付基地撤去デモ。
6月5日 ロバート・F・ケネディ暗殺。
6月11日 日大経済学部本館前で開かれた全学総決起集会に、約8千名の学生が集結。
そこに体育会系学生や大学側が雇った右翼などが乱入し、200人以上の学生が負傷した。
これにより、経済、法学、文理、芸術、農獣医、理工学と全学部の学生は全学無期限ストに突入、
バリケードを築いて校舎を占拠、中に立てこもった。
6月15日 一方、東大は医学部の卒業後の研修制度(無給助手などの極端な徒弟制度等)の改革を求めた紛争を発端に
講堂を占拠。大学側は機動隊を導入、これを排除。学生はこれを大学側の自治放置とみなし、激しく反発、
スト慣行。
同じく日大ではズサンな経理改善と民主化を求め学生たちは立ち上がっていた。
全学共闘会議を組織し、大学を占拠、封鎖した。★全共闘時代の幕開け。
6月16日 横須賀線電車爆破事件。
6月17日 東大大河内総長の要請で、警視庁機動隊1200人が同大学構内に。学生は自発的に退去。
6月20日 東大、警官導入に抗議して、法学部を除く9学部が一斉に1日スト、授業はほぼ完全にストップ。
これは60年安保闘争時の“全学自然休講”以来のこと。
6月26日 東大文学部無期限スト突入。
6月26日 小笠原返還。
6月28日 安田講堂で大河内総長出席による「東大集会」。約3000人の教職員、学生らで埋まり、あふれた約2000人は
テレビ中継した教室で集会に加わった。大河内総長は激しいヤジの中で、約1時間20分にわたり所信を表明し、
学生の質疑に応じた。警官導入問題については、「全責任は自分にある」と言い切り、医学部の処分問題に
ついては「粒良邦彦君の譴責処分は、事実誤認だという粒良君の言を尊重して医学部教授会に差し戻し、
残りの学生は再調査するよう医学部教授会に要請する」と約束。
一方、「東大集会」に先立ち、午前中から開いた東大評議会でも、粒良邦彦君の処分は白紙に戻し、
残り16人の研修生、学生らの処分についても改めて事情聴取など再調査する方針を決めた。
7月2日 東大、反日共系学生ら250人が安田講堂をバリケードで封鎖。
7月5日 東大・安田講堂に4千名の学生が日大全共闘結成約一ヶ月後、集結、
全学総決起集会が開催され、その場で“東大闘争全学共闘会議”(山本義隆議長)が結成された。
東大、日大を中心として、徐々にうねりをたかめつつあった全共闘運動は、
1969年1月の東大安田講堂攻防戦に向かって、一挙に頂点に登り詰めた。造反有理・帝大解体・自己否定!
7月24日 東大助手共闘会議結成。
※東大教養学部生物教室助手共闘会議のリーダー・最首悟(さいしゅさとる)32歳
…すべてに異議を申し立て、バリケードを組んで閉じこもり、中で漫画を読みギターを弾き寝転がっていたのです。
身をもって、働かざる者食うべからず、勉強せざる者就職すべからずの規範に対抗し、土俵から滑り落ちようと
しました。カウンターカルチャー、サブカルチャーの芽が渦巻き、未来は見えなかった。思想的に価値は相対化され
入り交じり、まさに価値の紊乱(びんらん)が起きました。
やはり70年は1つのルネッサンスであり、それは今でも続いているということです。
(その後「障害」児をもつ父親となる。最首塾主宰、水俣フォーラムの評議員)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/8570/archive0133.htm
8月2日 国際反戦集会。
8月8日 札幌医大付属病院・和田教授、心臓移植疑惑
8月10日 東大は緊急評議会、「8・10告示」大学側最終案で、一方的な告示。
8月20日 ソ連及びワルシャワ条約軍、開放政策のチェコに侵攻・抑圧。プラハの春弾圧。
(「人間の顔をした社会主義」)
8月28日 全共闘の学生約200人は、医学部本館占拠。
9月4日 夏休み明けの9月になると、日大占有排除仮処分の強制執行によって、800名の機動隊により、
各学部のバリケード封鎖は解除された。
しかし学生側はこれに激しく反撃、ふたたび経済、法学部校舎を占拠、バリケードで封鎖した。
日大の封鎖解除警備にあたっていた第5機動隊西条秀雄巡査部長が、学生が屋上から放った大きなコンクリートを
頭に受け殉職。それまで警察当局は、学園自治を尊重していたが、度を越した破壊活動に態度を改め厳しく対応
するようになる。経済学部本館と2号館とをつなぐ通路橋は、1968年当時は、
バリケード封鎖のもっとも手薄な個所であり、ここからの警察機動隊の侵入が憂慮されていたが、
実際には、機動隊一番手は、最も攻めやすいここから侵入してこなかった。
警視庁の威信にかけてだろう=もっとも攻めにくい場所からなだれ込んできた。
こんなところも、警官の犠牲者を出してしまった、日本国家の官僚主義のなせるわざだったのかも…
裁判記録には「当日の攻めにくい危険な隘路に侵入した際、指揮官の現場判断の誤りで、
事故を予測できたにもかかわらず、部下を突入させてしまったと」いう供述が、
無用の犠牲者を出してしまった最大の原因である。と、当時の公判記録には記述されている。
9月9日 東大医学部卒業試験が極秘に都内数カ所で。
9月16日 東大本郷構内の五つの学部で学生大会、学部集会。医学部の学部集会には教官、学生約1300人が参加。
教養学部では反日共系学生が学部長室、事務室封鎖。
9月18日 東大医学部緊急教授総会で、卒業試験を一時延期、当分休講。
9月22日 米軍タンク車輸送阻止闘争。
9月22日 東大全共闘の学生約250人が医学部付属病院の外科系医局・研究棟にバリケードを築き、封鎖。
9月30日★日大全共闘、両国講堂に午後3時、3万5千人の学生が集まり、古田会頭以下全理事を壇上にすえて
大衆団交が開かれた。団交は翌日午前3時まで約12時間つづけられ、学生側の圧倒的な勝利となった。
10月1日 佐藤栄作首相が閣僚懇談会で、「この大衆団交は集団暴力であり、許せない」と発言したことを受けて、
大学側は確認書を白紙撤回し、全理事もそのまま居座った。
10月3日 東大医学部教授会は、粒良邦彦君の譴責処分は「事実誤認」とし処分を白紙撤回、陳謝を表明。
10月5日 日大全共闘議長の秋田明大など8人に公安条例違反、公務執行妨害の疑いで逮捕状が出される。
10月11日 東京プリンスホテルでガードマン射殺される。永山則夫連続射殺魔事件の始まり。10/14,26,11/5と4人殺人。
10月12日 東大法学部無期限スト突入。バリケードを築く。これで開校以来初の10学部「無期限スト」となる。
10月13日 メキシコオリンピック開催。メキシコ学生運動。メダル表彰台での黒人選手のアメリカ国旗拒否。
10月18日 東大医学部神経内科の医局員15人全員が無給医診療拒否。
10月20日 東大医学部教授会は、医学部紛争の発端となった青年医師連合(青医連)東大支部を交渉相手の一つとして
認めることに決定。
10月21日 「10.21国際反戦デーを70年安保闘争本格化への第一歩とする」(新宿争乱事件)★
これにあわせて代々木系、反代々木系全学連など反体制グループが全国で集会やデモを展開。
東京では約4万8千人が参加。一部の過激派集団が米軍のジェット燃料の輸送経路であった新宿駅を攻撃。
地面が動いた!地響きが轟いた!
♪暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は荒れ狂う ひるまず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖を打ち砕け♪
11月1日 東大、大河内一男総長が学内混乱の責任を取って辞任。10学部の現学部長全員も辞任。
加藤一郎代行が学内の紛争解決にあたる。
その頃、東大は東大生だけではなく、全国から学生が集結していた。
★権威主義、商業主義に異をとなえることに端を発した学園内の改革運動は
いまや、反安保、世界同時革命を目指す政治闘争におよんでいたのである。★
加藤代行は東大生との全学集会を試みるも、反代々木系学生の罵声でもみ消される。
この闘争の中で、大学の正常化に協力的だった代々木系と、断固解体を支持する反代々木系が激しく対立。
学生内紛争がおこる。
年の瀬も迫り、文部省は授業再開のメドのたたない大学は入試を中止との意向を発表。
加藤代行に渡された猶予は翌年1月15日であった。
11月4日 東大、林健太郎新文学部長らとの「大衆団交」が始まる。
11月5日 米脱走兵メイヤーズ、山口文憲、北海道で逮捕される。
11月8日 東大、「大衆団交」100時間を超え、さらに続けられる。
11月10日 琉球政府初の主席公選で屋良朝苗当選。
11月12日 東大、林学部長は173時間ぶりにドクター・ストップで解放され、ただちに入院。
「大衆団交」貫徹を要求する全共闘は全学バリケード封鎖を予告し、これに反対する日共系学生民青と
乱闘となり、約70人が負傷。全共闘は工学部などを実力封鎖。
11月14日 東大、法学生大会、全学封鎖反対決議。
11月18日 東大、全学集会で東大当局と全共闘との予備折衝物別れ。
11月19日 東大、工学生大会、全学バリ封鎖反対可決。総長代行らと統一代表団準備会(日共系)との予備折衝。
11月22日 東大、図書館封鎖。学生側は「自主管理」で駒場祭開催。
ポスターは「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」で、
描いたのは文科III類2年の橋本治。
11月22日 東大安田講堂前で、「東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会」を開催。
12月10日 三億円強盗事件発生。
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1969年(昭和44年)
1月5日 午前2時頃、九州大学のファントム機残骸が突然何者かによって引き降ろされる事件が発生した。
1月18日★(東大安田講堂事件)東大、加藤代行は機動隊の出動を要請。機動隊8千人投入★。
学生側は投石(机、イス、大理石など)、火炎瓶、硫酸などで攻撃。警察側は放水、催涙ガスで応戦。
同日、中央大学にて、東大支援の学生1200人余りが武力化し、東大へ向かおうとしていた。
最後に残ったのは安田講堂であるが、本格的な攻撃は午後3時過ぎから始まり、夕闇が迫った午後5時半頃、
東大の封鎖解除は夜を迎え、やむなく一旦撤収、放水の続行を残し作戦を翌日に持ち越す。
その日の攻撃は中止となった。
♪自由の火柱 輝かしく ♪頭上高く 燃えたちぬ ♪いまや最後の闘いに ♪勝利の旗は ひらめかん
♪起て 同胞(はらから)よ ♪行(ゆ)け 闘いに ♪聖なる血に まみれよ
♪(安田)砦の上に 我らが世界 ♪築き固めよ 勇ましく
◆◆ワルシャワビアンカ◆◆
http://www.linkclub.or.jp/~monet/syaka2.html http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/warsaw.html
1月19日★(東大安田講堂事件二日目)午前7時に攻撃を開始。
午前8時、機動隊は電気ドリル、切断機を使ってバリケードを破り、
12時30分には2階まで侵入。2時50分には4階まで制圧した。
午後5時40分。ついに講堂時計台屋上に突入、全員を逮捕。屋上の赤旗をはずした。
この日安田講堂で逮捕された学生は374人であった。
★「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します。」
東大全学学生解放戦線 1969年1月19日午後5時50分■安田講堂1969/1/18〜19闘争が切り開いた全国学園闘争■
安田講堂防衛隊長 今井 澄(きよし)(東大医共闘/全闘連/全共闘)
全文は→ http://zenkyoto68.tripod.com/imaik02.htm
★日常性からの脱却! ★価値観の否定! ★既存秩序は支配秩序! ★既成秩序の破壊! ★人民の叛乱!
★既成秩序維持によって守られていた幾千万の神話を破壊せよ!
★自己の日常生活を温存したまま進められるものと考えない!
♪全共闘の歌 http://members.at.infoseek.co.jp/historie/
♪おいらの生まれはここではないが おいらの胸はさらに高鳴る
♪頭の上には同じ旗が 容赦なく また常に容赦求め おいらは戦うために来たのさ
♪全共闘の行くところ ファシストは滅ぶ 全共闘の行くところ スターリニストは滅ぶ 進め 進め♪
★1月18日〜19日【若者の解放区・神田カルチェラタン闘争(学生街と呼ばれる御茶ノ水駅周辺、及び本郷三丁目付近で
同時連帯闘争!)】 http://www.trc.co.jp/trc/book/book.idc?JLA=03064124
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4380032167/qid=1098068621/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-2276401-7280230 カルチェ・ラタンの元はフランスのパリのセーヌ左岸の学生街「カルチェ・ラタン」から。
これはその年の5月、フランス68年5月革命の発生地パリのカルチェ・ラタンを擬して、
東京の文京区、千代田区一帯の大学街をさしたものである。
1月18日 午前11時頃から、東大の急を聞きつけた学生たちが、武装デモで続々と神田に集結、お茶の水駅前交番が
焼き討ちされ、日本医科歯科大学前には、車を倒したバリケードが組まれた。
午後2時頃には、国電のお茶の水駅前の道路上にバリケードを築き、東大から転進してきた機動隊に対して、
激しい投石を行った。交通は完全に麻痺状態となり、その日の混乱は午後7時過ぎまで続いた。
1月18、19日の東大安田講堂の攻防戦を支援し、それに呼応するかたちで展開されたのが、神田解放区闘争。
いわゆる神田カルチェ・ラタンである。
神田解放区闘争は、街頭にバリケードを築き、戦いを市街にまで押し広げようとするものであった。
1月19日 前日からの熱気のまま、集会、デモ、機動隊との衝突が繰り返され、神田地区一帯に
バリケードが作られ、神田解放区は終日、学生、労働者、市民であふれた。
ようやく解散したのは、夜9時半過ぎであった。
東大紛争に多くを充てていた機動隊は、これに対応しきれず600人を出動させるが、
4人に1人が負傷するという惨事になった。
東大、神田での検挙者768名(内、東大生はわずか38名)。負傷者は警察官710名に対し、学生側は47名。
紛争後の講堂内はすさまじく、結果、この年の入試は中止となった。★
東工大、横浜大、京大教養学部、阪大教養学部など無期限スト。
また専門学校、高校で学園闘争始まる。
3月12日 日大全共闘秋田議長が潜伏先の渋谷で逮捕される。
3月30日 パリでフランシーヌ・ルコント、ベトナム戦争とビアフラ戦争と飢餓に抗議して焼身自殺。
4月7日 永山則夫連続射殺魔逮捕。
4月17日 早大全共闘、早大本部占拠。
4月28日 沖縄闘争、中核、ブントに破防法!
6月8日 ASPAC粉砕闘争!
6月15日 反戦反安保沖縄勝利統一集会!
6月15日 日本でレコード「フランシーヌの場合」発売。樺美智子さんの9年目の命日。
6月29日 新宿西口地下広場の反戦フォーク集会に7,000人参加。
7月20日 米宇宙船アポロ11号、人類月面着陸成功?(人類初)。
7月−8月 国会、大学立法粉砕闘争。
8月3日 「政府の大学介入である」とする野党の猛反発を尻目に、自民党は大学臨時措置法(紛争が長引けば解校の措置も
ありうる)を抜き打ちで成立させる。
これにより、それまで機動隊導入に根強い抵抗を感じていた大学側の機動隊出動要請が相次ぐ。
この頃、警視庁機動隊は1日平均8.5回も出動している。
8月7−11日 大阪城公園で「反戦のための万国博」(ハンパク)開催。
大テントの中で、「ベ平連」「声なき声の会」と日大全共闘と大激論。
9月3日 早大に機動隊導入第二学生会館で攻防戦。
9月4日 東京葛飾公会堂にて赤軍派発足。★
9月5日 全国全共闘連合結成。
9月22日 芝浦工大事件、埼大反戦連合と中核が衝突。
芝工大で埼玉大中核派の滝沢紀昭死亡。
10月10日 佐藤訪米阻止統一集会10万人参加。
10月15日 全米で反戦デモ。『週刊アンポ』創刊。
10月21日 国際反戦デー、各所でゲリラ闘争。
11月1日 自衛隊佐渡基地で、小西誠三曹、反戦ビラを撒いて逮捕される。反戦自衛官の誕生。
11月5日 警視庁、山梨県大菩薩峠「福ちゃん荘」で武闘訓練中の赤軍派53人逮捕。
同派は、総理官邸に鉄パイプ爆弾を投げながらダンプカーで突っ込む、という訓練をしていた。
11月16日 佐藤訪米阻止闘争。
12月2日 衆議院解散。
12月27日 第32回総選挙(自288社90民社31公明47共産14無16)。
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1970年(昭和45年)
1月5日 「創価学会を斬る」(藤原弘達)への学会の出版妨害表面化。
3月5日 「三・一朝鮮万才革命五十一周年入管法阻止決起集会」
3月14日 大阪で日本万国博覧会開幕。〜9/1。
3月31日 日航機「よど号」を赤軍派9名がハイジャック。北朝鮮に亡命をはたした。
4月19日 「南朝鮮革命十周年、全軍労闘争連帯、安保粉砕、沖縄闘争勝利、労学窓決起集会」
4月30日 米軍、カンボジア侵攻。
5月10日 ぷりんす号・シージャック事件。
6月14日−23日 反安保6月闘争。「よど号」ハイジャックを期に、過激派のテロ活動は激しさを増していったが、
反安保の大衆運動は6.23の日米安保条約自動延長を境に次第に沈静化していく。
学生、青年層の支持を失った過激派集団は追い詰められ、いっそう過激さを増していった。
7月7日★東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の盧溝橋33周年集会、華青闘(華僑青年闘争委員会)が新左翼批判。
在日中国人・朝鮮人青年達が全共闘の集会の趣旨の69年入管体制粉砕闘争と65年日韓闘争を、日本階級闘争の
なかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったとして大批判。ついでに日共六全協も。
しかし、当時の反対の柱はあくまで「日本は戦争に巻き込まれるな」だった。
http://konansoft.com/zenrin/html/huajingtou77.htm http://www.chunichi.co.jp/anpo/
一人の男が壇上から八千人の学生らに叫んだ。通名・猪八戒。
「われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。
われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。
実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。
われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。」
9月30日−10月2日 三里塚第一次強制測量。
11月14日 渋谷で第1回ウーマン・リブ大会(女性解放運動)。
11月25日 三島由紀夫、市ヶ谷自衛隊で自殺。
11月28日 チッソ株主総会に水俣病患者ら、1株主として出席。この年、公害深刻化。
水銀、コバルト、カドミウム、鉛、硫酸、オキシダント、PCB、キノホルム、チクロ、シアン、ヒ素、ヘドロ、
光化学スモッグ多発。
12月18日 「銃から革命は生まれる」とする京浜安保共闘が、板橋区上赤塚の交番を襲撃。
そのうちの1人、柴野春彦は巡査に射殺される。
12月20日★沖縄「コザ暴動」。市民5千人、米軍の占領支配への不満爆発。騒乱罪適用。
連続しておきた米軍人による2件の交通事故が引き金になって起きた民衆の決起と暴動
――その背景には、25年におよぶ過酷な米軍支配への鬱積した県民の怒りがあった。
http://www1.jca.apc.org/aml/200012/20276.html