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孫娘はなぜイラクへ
パラオの戦中派に影落とす
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20041121/mng_____tokuho__000.shtml
西太平洋の絶海に浮かぶパラオ共和国。スペイン、ドイツから日本、第二次世界大戦後は長く米国に統治されてきた。日本に支配されていた戦時中、ジャングルを逃げまどった老人世代にとって、いま、米軍に入り、イラク戦争へ赴く孫たちへのまなざしは複雑だ。
(蒲敏哉)
■戦争、支配 身近に感じる
「私たちはいつも戦争を望んでいません。今、ここで戦いは起きていないけれど、戦争がとても身近に感じられる。なぜでしょう。悲しいことです」
パラオの首都コロール。小高い丘の中腹に住むイバウ・オイテロンさん(87)はとつとつとながら、きれいな日本語で語りだした。
日本は一九一四年の第一次世界大戦で、ドイツからパラオを含む独領ミクロネシア(南洋群島)を奪い、占領。二〇年に国際連盟から委任統治を認められ、第二次世界大戦中、米軍に占領されるまで約三十年間にわたり、この地域を支配した。パラオには、ミクロネシア最大の空港や南洋群島全域を管轄する南洋庁本庁が設置された。
イバウさんは「大正六(一九一七)年、コロールで生まれ、日本政府が島民のために設けた公学校で五年間学びました」と日本語を学んだいきさつを話しながら、手を高く挙げた。
「一つ、私どもは天皇陛下の赤子(せきし)であります。一つ、私どもは日本人になります。一つ、私どもは忠義を尽くします」
さらに満州事変(三一年)当時、はやった軍歌(婦人従軍歌)を「ほづつの響き 遠ざかる 跡にも虫も声たてず 吹き立つ風はなまぐさく」と調子を付けて歌った。
■戦前の首都には2万人の日本人
「大東亜戦争前、コロールにはパラオ人約七千人に対し二万人以上の日本人が住み、ミクロネシア一の繁華街“リトル東京”と呼ばれました。多くの商店が軒を連ね、日本の商社ナンボウ(南洋貿易株式会社)がさまざまな商品を輸入して売っていた。私も天皇陛下の弟君(高松宮)がお見えになるというので、真新しい洋服を買ってもらった覚えがある。南洋神社のお祭りではパラオ人もみこしを担いだ。日本人と島民は仲が良かった」
イバウさんは、日本人の巡査のもとで「巡警」を勤めるパラオ人のデンジャニンさんと結婚。「地元の治安を担う係で、島民がなれる最高の職。誇らしかった」と懐かしがる。
やがて真珠湾攻撃(四一年)。「日本はすごい。アメリカに勝つに違いないとみんな大喜びだったが、四四年の三月、まだ水くみにも出かけない明け方に突然、米軍機が四十−五十機来襲し、空港や基地を爆撃した。日本の兵隊さんたちに『危ないから本島のバベルダオブ島に疎開しろ』と言われ、ジャングルの中に命からがら逃げ込んだ」
「ジャングルでは、持っていた食べ物はすぐなくなり、ペルロイと呼ばれる芋を煮て、水であく抜きして食べた。パラオ人はペルロイの食べ方を知っていたけど、日本兵は調理の仕方を十分知らなかったのでおなかを壊していた。ヘビやトカゲばかり食べ、衰弱して亡くなった方は多い」
■米機銃掃射の恐怖
当時、夫はコロールの守備に残ったまま。イバウさんは二歳の長女を背負い、四カ月の二女を抱え谷間に隠れた。「忘れもしない八月八日の朝。畑仕事をしていたら米軍機が飛んできて機銃掃射を浴びた。バナナの葉っぱが飛び散りパタタタと目の前を弾が飛び跳ねた。身動き一つできなかったが、なぜか当たらなかった。私にとってアメリカ軍とはこの恐ろしい思い出でしかない」
やがて八月十五日、日本軍とパラオ人との連絡係をしていた弟が「姉さん、天皇陛下が降参した。戦争が終わったよ」と伝えた。ジャングルから「終わった、終わった」と言いながら皆出てきたという。
米軍の占領後間もなく、イバウさんは夫と無事出会ったが「今度は米軍からポリスマンになれ、と言われたといって、米軍の服を着てきたのにはびっくりした。本人は小さいころからキリスト教だったから英語が勉強できてよかったかもしれない。何よりうれしかったのは、見たこともないたくさんの缶詰が配給されたこと。チーズだけはだめだったけど」と笑う。
イバウさんはその後、十二人の子どもをもうけた。そのうちの五女が米国アリゾナ州に渡り、そこで孫娘が生まれた。ジャスミン・アンドレスさん(21)だ。
ジャスミンさんはアイダホ州の短大を卒業後、米陸軍に入隊した。
イバウさんは「今年四月にパラオに来たとき『何で米軍に入ったの』と聞くと『軍隊に入ったらただで勉強できるから』と言っていた。女の子が銃を持つなんて信じられない」と話す。
ジャスミンさんは七月にイラクへ派遣され十月に電話をかけてきた。「どんな任務か言えないけど、バグダッドでテントを張って住んでいると話していた」
「幼いころからジャスミンに戦争時代のことは話してきた。イラクではたくさんのお母さん、子どもたちが逃げまどっている。ジャスミンにはその苦しみが分かるでしょうか。そう思うとあまりにも悲しい」
■70−80代は200人 聞き取り活動も
イバウさんのように、戦前の日本統治時代を生きた七十−八十代のパラオ人は約二百人。次第に少なくなっているが「ご存命のうちにパラオと日本の生きた歴史を記したい」と活動する日本人女性がいる。
愛媛県松山市出身の山本悠子さん(64)。日本カトリック信徒宣教者会(東京都港区)から派遣され、二〇〇〇年からパラオ在住のパラオ人や日本人のお年寄りから聞き取り調査をしている。「挺身(ていしん)隊」としてニューギニア戦線に送り込まれた混血の日系二世のインタビューなども紹介してきた。
山本さんは「日本は統治下、島民に日本語を公用語として学ばせ、子どもがパラオ語を話した場合は『島語』と呼んで指を定規でたたくなどの体罰を行った。皆同じ天皇陛下の子どもだと呼びかけながら、日本人とパラオ人の通う学校も区別し、政治経済的な知識を与えないような差別的行為もあった」と指摘する。
その一方で「優秀な子どもたちは日本の実家に招いたり、船大工などの技術で地元にとけ込んだ。後に子弟が大統領や閣僚になった日系人もいる。それぞれの実体験を紹介することで、パラオと日本の関係の光と影をあぶり出したい」と調査活動の抱負を話す。
山本さんは「ニューギニア戦線では約百五十人の島民が駆り出された。住民は日本政府に対し補償や記念碑の建立を要請したが、拒否されたまま」と説明しながらこう訴える。
「日本人、パラオ両国の若者は数奇な運命をたどったこの国の人々の苦しみを知らない。そして、実際に体験したお年寄りは日々、亡くなっていく。これからもできる限り聞き取りを行い、多くの人に戦争が普通の人々に何をもたらすのかを知ってもらいたい」