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今こそ後藤新平
橋、公園、環状道路… 都市政策の父
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20041118/mng_____thatu___000.shtml
明治中期から昭和にかけて東京市長や内務大臣などを歴任し、都市政策などで数々の功績を残した政治家、後藤新平。その生誕百五十周年を記念する「後藤新平の全仕事」(藤原書店)の刊行が今月、始まる。なぜ今、後藤新平が再評価されるのか? 「小説 後藤新平」(学陽書房)の著書がある前都副知事の青山〓(やすし)・明大大学院教授と都内の足跡を訪ねた。
■生誕150年『全仕事』刊行
吾妻橋に駒形橋、両国橋−。デザイン性に優れた橋が並ぶ隅田川は「橋の博物館」と呼ばれる。その多くが、関東大震災後に新平が手掛けた「帝都復興計画」によるものだ。
これらの橋を一望できるアサヒビール本部ビル(墨田区)の屋上に、青山さんと立ってみた。
「当時の橋が、そのまま使われている。私は『こういうものを残そう』と、都の職員にいつも言ってきた」。青山さんは感慨深げだ。
近くにある隅田公園も、震災復興による国内初の水辺公園だ。新平は当時、「日本に地震は何度もくる。今後、大きな被害を出さないため、公園と道路をつくれ」と部下を鼓舞したという。
隅田川を離れ、台東区の大関横町交差点に。「見てください。ここで幅四十四メートルの昭和通りが終わり、途端に道幅が狭くなる。いつもここで渋滞が始まる」と青山さん。
新平は昭和通りなど八本の環状道路を都内に配置する構想を立案した。だが、復興計画は予算が十分の一に削られ、未完に終わる。大関横町交差点はその象徴だ。
青山さんは「新平の都市政策は、都市と都市のネットワークを重視した点で画期的だった。日本における都市政策の父といっていい。計画通りに環状道路網が完成していれば、世界に例のない機能的な都市ができたのに」と残念がる。
新平が東京市長に就任したのは一九二〇(大正九)年。六十三歳だった。東京市は市長が疑獄事件で辞任した混乱時で、大物政治家の新平に白羽の矢が立ったのだ。
新平は二年余の在任中に、都市基盤を整備する大規模な「八億円プラン」をまとめた。市の年間予算が一億円台の時代だ。ほかにも、職員研修制度の導入など市政刷新に尽力。本格的な調査機関の必要性も説き、これが後に「東京市政調査会」が入る日比谷公会堂の建設につながる。市長退任の半年後に関東大震災が起きると、内務大臣として震災復興を担った。
青山さんは小説執筆の取材のため、新平が日本統治下に、民政局長として産業振興などに力を入れた台湾まで足を運んだ。新平の業績が今も評価されていることを知り、「植民地支配にもかかわらず、新平を憎む人がいないことに驚かされた」という。
「新平は、その土地に富をもたらす住民のための改革ができる人だ。首長になった人は、新平の本を読むのが一番いい」と青山さん。「新平はスケールが非常に大きく、すべて抜本策でことに当たった。現代の逼塞(ひっそく)状況の中では、新平のように白紙から絵を描ける政治家が求められている」と力説した。
■27日にシンポジウム
「後藤新平の全仕事」は「正伝 後藤新平」(全八分冊別巻一)の刊行が今月から始まるほか、来年から「後藤新平日記(全十巻)」「後藤新平全書簡(同)」「後藤新平言行録」などを順次、刊行する。刊行を記念したシンポジウム「今、なぜ後藤新平か?」が二十七日午後一時半から、東京都文京区の東京大学安田講堂で開かれる。御厨貴・東大先端科学技術研究センター教授、青山明大大学院教授、哲学者の鶴見俊輔さんらが、後藤新平について語り合う。入場料は一般二千円、学生千円。申し込みが必要。藤原書店内の実行委=電03(5272)0301=へ。
(メモ) 後藤新平 (1857−1929)。水沢藩(現岩手県)出身。医学校に学び、23歳で愛知県立病院長に。内務省衛生局長を経て、1898年、台湾民政局長に。初代満州鉄道総裁、逓信大臣、外務大臣などを歴任した後、東京市長に。各分野で先駆的な構想を次々に打ち出した。
文・石井敬/写真・高瀬晃、中嶋大
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(〓はにんべんにハに月)