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秩父困民党事件から120年 、「60年周期説」でいくと二周り目になるわけですが経済状況
の相似性には慄然とします。変わったのは「松」が「竹」に格落ちしたぐらいかもしれ
ません。(苦笑)困民党には以下URL以外にも膨大な論考がありますが、彼らが近代国民
国家の礎としての公教育と国民皆兵を忌避したことは記憶に止める必要があります。
回り舞台(朝日新聞・埼玉地方版に掲載)
http://www.ksky.ne.jp/~nakakuki/nakakuki/titibu/titibu-jiken.htm
農民が決起した背景
明治政府は基盤整備や近代産業の育成、1877年(明治10年)に起きた西南戦争の
戦費を賄う目的などで不換紙幣を乱発し、激しいインフレを招いた。1881年秋、
大蔵卿に就いた松方正義は財政を立て直すため、支出を厳しく絞ってデフレ政策を進
めた。一方で軍備増強の財源をつくるため、諸税率を引き上げ、新税を創設したこと
から国内景気は一気に冷え込む。幕末の横浜開港から、生糸の輸 出ブームで養蚕を主体
とする秩父の農山村も潤っていたが、内需の落ち込みに海外の不況も重なり、生糸を
はじめ農産物価格が暴落。好景気の時代に生活や設備拡張の資金を借りた農民らは困窮
し、自殺者も急増する。高利貸や警察、郡役所などに返済期限の延長や金のかかる学校
の休校、税の軽減などを訴えたが無視された。切羽詰まった農民らは「秩父自由党」
(困民党は官側の呼祢)を名乗り、「世均し」(よならし)を目指して立ち上がった。
蜂起後の秩父困民党
大宮郷出身の田代栄助が総理、石間村(吉田町)の加藤織平が副総理、信州から参加の
菊池貫平が参謀長、下吉田村の井上伝蔵は会計長などを務め、軍隊にならい秩父地方や
信州、上州から集まった3000人で2大隊を編成、秩父の郡都・大宮郷を制圧した。
だが、皆野に本陣を移した3日目以降は情報の混乱などで統制が乱れ、4日目には
大隊長の1人が捕虜の巡査に斬られて重症を負い、首脳部が相次いで離脱して本陣は
崩壊。児玉方面に進撃した500人の部隊も金屋で政府軍と銃撃戦の末、敗れた。
あきらめない約200人は菊池貫平をリーダーに陣容を再編し、吉田から屋久峠を越え
て上州に進出。山中谷から十石峠を越え、信州へ進んだが、東馬流で野営中を襲われて
大敗。逃れた一団も山梨県境に近い野辺山で壊滅した。だが、「金品の略奪や酒宴、
私怨による放火や暴力行為」などを禁じた厳しい軍律は、最後まで守り通した。
三新法
1887年(明治11年)7月布告の郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則。
郡区町村編成法では、維新後、複数の町村をまとめて設定した大区・小区制 を 廃止
して行政単位を郡・町・村の系列に戻して、戸長や議員を公選制にして円滑化すること
を図った。4連村は旧小区の枠を残した移行期の産物で、初議会から 2年後の18
81年には協議の上、行政単位を各村に戻している。府県会規則は、地方税で賄う予算
やその徴収法を決めるため府県会の開設を定めたもの。だが、議 案の発議権はなく、
議論の内容が治安上問題があるような時は、県令が中止させることも出来た。地方税
規則は、あいまいだった府県財政と町村財政の区分を明 確化するもので、府県分は
地方税でまかない、町村分は協議費として調達することにした。だが、それまで国費
だった道路や河川等基幹施設整備費が、府県負担 に切り替えられ、地方の出費は増大
した。
http://www.kumagaya.or.jp/~yasutani/ccbziken/about/ccziken.htm
秩父事件とはどういう事件か
1884(明治17)年10月31日から11月9日にかけて、埼玉・群馬・長野などの民衆数千人が
負債の延納、雑税の減少などを求めて武装蜂起した。
山国秩父では、江戸時代なかば以来、養蚕がさかんだった。農民たちは、石だらけの
傾斜地に桑を植え、蚕を飼って糸をとった。1859(安政6)年にヨーロッパ・アメリカとの
貿易が始まってからの、日本の最大の輸出品は生糸だった。秩父の農民がつむいだ生糸も
横浜に運ばれ、イギリス商人らに高値で買いとられていった。
明治に入ってからも、秩父の農民たちは、桑の増産や、養蚕・製糸のための道具の改良
に知恵をしぼった。養蚕先進県群馬と接する秩父地方には、温度管理・湿度管理を徹底
することで繭の安定した収穫をはかる児玉町・競進社系の「温暖育」などが導入された。
また、水力を使った機械製糸工場を創業しようとする人々や、困難ではあるが成功すれ
ば大きな利益が見込める天蚕飼育に挑戦する人々もいた。
山国秩父で、斜面の多い大地に根ざした近代産業をいかにして創っていくかが、地域の
課題であり、人々は、金融業者から借りた資金を設備投資に投入した。
明治初年から松方デフレの時期まで、ヨーロッパで蚕病が流行したことも手伝って、景気
はおおむね好況に推移した。経済的な活況を反映して、村の祭りがはなやかに催され、
芝居(歌舞伎)・踊り・人形芝居・相撲・剣術などの民衆娯楽・芸能が開花した。
各地から、さまざまな人々が秩父に往来し、新しい情報が秩父の谷にも流れこんだ。
(民権期の思想状況 )自由民権の思想もそのひとつである。
1879(明治12)年に下吉田・久長・阿熊・上日野沢連合村会の記録には、「自由」や「権利」
を謳歌することばが躍っている。1881(明治14)年に、板垣退助らによって日本で初め
ての政党である自由党が結成された。1882(明治15)年には、群馬県の自由党員の影響で、
下日野沢村の中庭蘭渓が自由党に入党し、秩父に自由党の組織が作られていった。
1881(明治14)年以後大蔵卿に就任した松方正義によるデフレ政策の影響が出始めたのは
翌年あたりからだった。軍備を拡大するための間接税の増税と緊縮財政によって、各地
の農村は深刻なデフレに見舞われた。その影響によって、生糸の価格は大暴落し、養蚕
に賭けていた農民たちの生活は破滅に瀕した。学校費の負担や、国政に関する業務の
拡大によって増える町村費が、彼らの負担を重くした。
1884(明治17)年2月には、自由党幹部の大井憲太郎が来秩し、演説会を開いた。また、
落合寅市の回想録によると、同年3月に東京で開かれた自由党大会の際、大井憲太郎ら
有志が専制政府転覆に向けた地方の組織化を、秘密のうちに決議した。高岸善吉がこれ
に参加し、帰郷後秩父の自由党員らに伝えた。
この年の養蚕が終わったあと、負債に悩む秩父の農民たちは、各地で山林集会を開き、
困民党と呼ばれる集団が組織されていった。その中心は自由党員であり、困民党の活動
を通じて自由党に入党する人も出てきた。
自由党中央は、政府による懐柔と抑圧によって、広範な国民を組織する展望も力量も
失っていたが、在地の自由党員を中核とする秩父困民党は、請願活動や高利貸との直接
交渉をくり返す中で、武装蜂起路線を決定し、1884年10月半ば以降、資金面をはじめと
する蜂起準備に入った。
決起に向けた組織活動は自由党員ら(少なくとも300名以上の党員が存在した)によって
進められ、秩父地方だけでなく、秩父に隣接する埼玉県男衾郡や大里郡や、群馬県多胡
・緑野・南北甘楽郡、さらには長野県南佐久郡に及んだ。
11月1日の夕刻、吉田町椋神社で困民党が武装蜂起した。総理田代栄助以下の困民党役割
や五ヶ条の軍律は、ここで決定された。困民軍は、同日深夜には小鹿野町、翌日には
郡都大宮郷を占拠し、さらに皆野町に進んだ。
しかし、政府側は警察のみならず、憲兵隊や東京鎮台までを動員し、徹底的な武力鎮圧
をはかった。困民軍は、群馬県山中谷をへて長野県南佐久まで転戦したが、11月9日に
壊滅した。
各地の戦闘での戦死者は、困民党側で25名を超え(正確にはわからない)、警官が3名、
他に無関係の婦人1名が亡くなった。事件後の裁判の結果、死刑7名を含む4000名余が
処罰され、事件は「秩父暴動」と呼ばれて、郷土の恥ずべき歴史として記録された。
一方、事件参加者をはじめとする、復権に向けた活動も行われ、ねばり強い顕彰運動の
中で、事件の史実が解明され、事件の正しい姿が定着した。しかし、未解明の部分も
多く、今後の課題も大きい。
(主人公・会計長)井上伝蔵・・・・・緒形 直人
下吉田村(現吉田町)出身。
地域の名望家として広く養蚕農民を助け、絹布の問屋商人として「丸井の旦那」
の愛称をもつ。人望が厚いばかりでなく、当時全国的に流行していた自由民権運
動に触発されて自由党に入党し、東京の党本部と秩父の入党者とのパイプ役とな
る。 明治17年に至ってデフレ政策が秩父の農民の生活を圧迫し、ついに蜂起
するに至っては困民党軍の会計長として幹部に迎えられ活躍する。しかし事件は
政府軍に鎮圧され、幹部が次々と捕縛・自首する中で伝蔵は実家の近所の土蔵に
2年間隠れ住み、そののち北海道に移住。伊藤房次郎と名を変えて妻子をもう
け、1918(大正7)年のその死の直前、家族に自分の正体を明かし、来歴を
隠 さず語った事で世の中に衝撃が走った。
(総理)田代栄助・・・・・林 隆三
大宮郷(現秩父市)出身。
秩父郡じゅうにその名を知られた侠客。博徒であったというが金貸しをもしてい
たようで、事件直前には多くの農民に金を貸し付け、事あるごとに貧しい農民た
ちの世話を焼いていた。日野沢の村上泰治と行き違いがあって自由党には入党し
なかったが、「強きを挫き弱きを扶け」る律儀な性格で、蜂起に至っては総理に
推され、困民党軍を一手に指揮する。蜂起から3日後、本陣が解体して困民党軍
の指揮がとれなくなったのちは武甲山々腹の洞窟に隠れ、のちに黒谷村に移った
ところで捕縛される。翌年2月に裁判で死刑が確定し、刑場の露と消える。
(副総理)加藤織平・・・・・杉本 哲太
石間村(現吉田町)出身。
田代栄助とともに秩父郡で有名だった博徒。もともと上層農家の家に生まれたが
坂本宗作らに農民救済を持ちかけられ、9月頃より困民党の活動に参加するよう
になった。事件では副総理となって農民たちの先頭に立ち、本陣解体後は川越を
経由して東京・神田に逃亡。そののち逮捕され田代らとともに死刑となる。
井出孫六 「秩父困民党」 講談社現代新書
高橋哲郎 「律儀なれど、任侠者 秩父困民党総理田代栄助 」 現代企画室
広瀬隆 「漢方経済学」 光文社