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2004年08月21日
私はかつて、この光景を見た - デジャビュとは何か
【TheChronicle】1856年夏、古びた英国の領主宅、スタントン・ハーコートを訪れた作家ナサニエル・ホーソーンは、その家にある大きな調理場にそれまで感じたことのない不思議な印象を受けた。その調理場は地下室全てを使った非常に大きなものだった。「かつて幾人ものシェフ達がここでせわしく動き回り、騒々しい雰囲気の中、鶏や牛の肉が焼かれたのだろう」 - 1863年に記した旅行記「Our Home」の中に、彼はそう記している。そしてホーソーンは調理場の中に立ち尽くし、その時受けた名状し難い感情をして、以下のように続けている。「私はその時、何か恐怖とも混乱ともつかない、不思議な感覚に襲われた。私はかつて、この光景を見た、確かにそう感じたのである。調理場の天井の高さ、暗さ、そしてこの陰鬱なまでの空虚。私はこの調理場を眼にしたとき、勝手知ったる祖母の美しい台所を見る時に感じるような、"そこを既に何度も訪れた事があるような感覚"を確かに感じたのだ。」
しかし、彼がそれまでそこを訪れた事もなければ、そのような場所を見た事がないことは事実だったのである。そして彼はその事実と記憶、感情の間で揺れ動きながら、その時の気持ちをこう記している。「それは本当に不思議な気分だった。私はまるで自分自身をからかうような、気まぐれな記憶とでも言うべき、過去の残響を眼にしているような気分だった。」
ホーソーン(写真)が記したこの出来事には、その当時、まだそうした現象を説明する言葉は存在しなかった。しかし、19世紀の終わりになると、そうした現象が「誤認識」、「記憶錯誤」などと呼ばれるようになり、やがて、学者達はとりあえずの正式な呼称としてフランス語の「デジャ・ビュー(déjà vu)」あるいは「既視(already seen)」を一般的な呼称として用いるようになる。
しかし以前からデジャビュは確かに存在し、それに伴うある種の憂鬱、そして不思議な幸福感は詩人や作家、オカルティストなど様々な人々を魅了してきた。例えば聖アウグスチヌス、ウォルター・スコット、ディケンズやトルストイまでもがそうした朧げな現象をそれぞれ自分の言葉で記述している。しかしこの現象は1890年代以降、多くの学術的心理学者の間では全く無視されるようになる。その当時、このデジャビュを説明する科学力はなく、それらは単なるうわごとの類いとして認識されてしまったのである。
またこのようにデジャビュが忘れ去られた背景には、この気まぐれな現象の発現が余りにも一瞬の出来事であり、また明確な再現性もなく、更には何ら行動となって外部に現れるものでもないということが挙げられる。従って、例えばデジャビュがもし、くしゃみのよう頻繁に起こりえる一般的現象であったとしても、そうした理由から研究することは非常に難しいとされたのだ。
そしてまたその為、数少ないデジャビュ研究者達は、デジャビュの体験者 - 当然、彼らは決してソーホーンほど雄弁なわけではない - からの"余りにも漠然とした"話を研究対象として調査する以外になく、これまでこのデジャビュという現象を「興味深いが、どうにも出来ないもの」と分類し、長い間引き出しの奥にしまいこんでいたのである。
しかしここ20年の間、このデジャビュ現象は再びにわかに注目を浴び、記憶、そして認識に関する様々な研究が行われた結果、徐々にこの現象の謎が解き明かされつつあるという。メソジスト大学心理学教授アラン・S・ブラウン博士は最近発刊された認知科学論文誌に「The Déjà Vu Experience」と題した論文を寄稿し、以下のように記述している。
「我々が解明しようとしている事は、様々な角度でゼロからもう一度この現象を見直すことです。それは決して、例えば"これで謎の現象を完全解明!"といった類いの研究ではありません。しかし確実に、ゆっくりと現象を明らかにしたいと思っています。」
疲労、あるいはフロイト
このデジャビュ現象は19世紀、多くの心理学者らによってほぼ興味本位で研究されたが、当時の研究はまた手探りながら、現代の研究へも貢献しうる多くの示唆を含んでいる。例えば1878年にドイツの心理学者が発表した論文では、デジャビュを、本来脳内で連動して発生する「知覚」、そして「認識」という二つの現象がズレて発生することが原因であるとし、またそのズレは「疲労」によって生ずると分析している。
またそれから11年後、クラーク大学心理学教授ウィリアム・H・バーンハム博士は上述の分析とは異なった見解を示している。博士は論文において、デジャビュは脳が異常に休息している状態に発生すると予想し、「例えば我々が奇妙な物体を目にしたとき、その見慣れない外観から脳は物体を統覚(過去の経験によって新たな知覚を理解すること)することが出来なくなる。しかし、脳が"異常に"休息している際には統覚機能が誤作動し、似た記憶と結びつけられ、結果、デジャビュという現象が発生する」と推測しているのである。
これらの推論は一見もっともらしく見える。しかし、本当に我々の脳の秩序はこれらランダムなイメージによってこうも簡単に撹乱されてしまうのだろうか?近年の研究では、脳はあるイメージがそれまで既知の情報であるかどうかについて、速度が重要な意味を持つという事を示唆している。つまりもし我々の脳がイメージを素早く、円滑に処理するならば、そのイメージはそれまで既に見た事のあるイメージである事を意味しているというのだ。従って、この「疲労」理論、そして「異常休息」理論は棚上げされたままであると言わねばなるまい。
一方、1896年にはコロラド大学心理学教授アーサー・アリン博士がデジャビュ現象に関する様々な推論を書き連ねている。博士は新たな解釈として、デジャビュはあたかも忘れてしまった夢のような現象であると記述している。それは例えば、我々が新たなイメージを目にしたとき、それに対して誤った既知の感情が呼び起こされる現象であるとし、その原因となる、新たなイメージに対して脳が行う分析の最中に発生する非常に短時間の中断がデジャビュ現象であると推測しているのだ。
しかしまたこれら独自のデジャビュ解釈は20世紀初頭、フロイト主義者の台頭によってその多くが影を潜めることになる。フロイト(写真)の影響を受けた学者らはこのデジャビュ現象を超自我、そしてイド(id)に対する自我の闘争の紛れも無い証拠であると推測したのである。1945年、英国の心理学者オリヴァー・L・ザングウィル博士は15ページに渡るエッセイにて、先のソーホーンがスタントン・ハーコートで体験したした現象を取り上げ、それはソーホーンが幼少の頃に抱いた、未解決である母への思慕が原因であると分析した。(しかし、ホーソーンは自身が体験した現象をして、かすかに覚えていたアレクザンダ・ポウプの詩によって誘発された感情であると後に記述している)またそれから久しくして1975年には、高名な心理学者バーナード・L・パセラ博士はデジャビュは自我が退行パニックに陥った際に発生する現象であると分析し、「デジャビュは自身の記憶をリビドーに向けてスキャニングするように段階的に遡行する現象」であると記述している。
4つのアプローチ
しかし今日、デジャビュ研究者の多くはこれまで主流であったフロイト的解釈を放棄し、再び脳の中の働きにその謎の答えを求めている。先のブラウン博士はデジャビュ現象を分析するに当たって、近年の記憶に関する研究を応用し、さらにヴィクトリア朝時代後期の理論にそのヒントを見いだしたという。しかし博士は一方で、研究はまだ初期段階にあり、今後厳格な実験が必要であると話している。また現在、博士はこのデジャビュ理論に関して4種類の予想を立てている。
一つは「二重処理理論」である。神経精神病学者のピエール・グロア博士は1990年代に行った実験から、記憶には「回復」、そして「既知」を司る機能が存在していると主張し、1997年、氏はそれらの理由から「回復」機能が働かずに、「既知」の機能だけが働くという稀な瞬間に、デジャビュが発生しているのではないかと推測している。またその理論を受けて、他の学者らは「回復」機能が完全に停止するということは考えづらく、従って、それら諸機能の同期がズレた瞬間こそがデジャビュではないかと主張したが、この理論は先に挙げた19世紀の疲労理論を思い起こさせるものであることは明らかである。
二つ目は、より単純な神経病学的説明である。博士はこの理論において、デジャビュは非常にわずかで、短期的な発作(癲癇などの類いの)が原因ではないかと推測している。またこの理論の背景として、博士は癲癇患者の多くが発作を起こす寸前に、非常に頻繁にデジャビュを見るといった報告を受けたこと、更に脳の特定領域への電気刺激によってデジャビュが誘発されたことを挙げている。また他にも2002年にオーストラリアの癲癇の専門医師ヨゼフ・スパット氏が発表した論文には、デジャビュは海馬傍回(この皮質は既知を見分ける機能を持っている事で知られている)におけるランダムな情報伝達が原因であると予想している。
三つ目は「記憶理論」である。この理論で博士はデジャビュは様々な記憶に起因すると推測しており、それは例えば実際に既視のもの、あるいは想像したことがあるもの、あるいは映画や文学において知ったもの、更には夢の中で見たものさえも含まれている。また更に、この理論においては記憶の全てではなく断片さえもデジャビュを引き起こす原因になり得ると推測している。(ホーソーンの例で言うならば、スタントン・ハーコートの台所にあった
椅子の色形が祖母の家のそれと似ていたとする。しかしホーソーンはそれらを見て、祖母のそれと誤認識し既視のものと錯覚するといった具合である)またゲシュタルト(形態)理論において、我々はしばし一般的な事物や音を誤認識することがあるということが示唆されているが、これもこの理論を裏付けるものとなり得るという(これは例えば、スタントン・ハーコートにおける台所の広大な外観が、以前訪れて長い間忘れていたある教会などと結びつく)。
そして最後の理論は「二重認識理論」である。この理論は先に挙げた1896年のアリン博士の推測 - 通常の認識機能が寸断され、間違った既知の感情を抱く - を思い起こさせるものである。
1989年、ワシントン大学認知科教授のラリー・L・ジャコヴィ博士、そしてケヴィン・ホワイトハウス博士はデジャビュに関連するある興味深い実験を行っている。実験において博士らは被験者に対し、スクリーンに様々な単語群を映し出して見せ、そして数日後、今度は最初の実験の単語群のうち半分を含む新しい別の単語群を映し出して見せた。そしてそれから最初の実験の時に、どの単語群を見たか、被験者らに問うた。
そして実験の結果、2度目の上映の際、一度目に使われた単語群が映し出される直前に、それらの単語を非常に素早いサブリミナル的な速度(20ミリ秒)で見せた場合、多くの被験者が間違って答えるという事が明らかになったのである。この結果が示すところは即ち、我々が何かに対して半意識的に反応し、注意を向けた場合、「既知」の感覚が誤りやすいという事実を示しているといえる。
「我々が行った実験は、日常的な記憶と認識の中に多くの潜在的な落とし穴が存在していることを明らかにするものの一つに過ぎません。私は、我々は本質的には皆単純なリアリストであると思っています。我々は世界は目に見えたまま、それがそのままの姿であると信じています。しかし我々の実験はそうした認識をわずかですが揺さぶるものです。」ジャコヴィ博士はそう語っている。
またジャコヴィ博士は更に一連の研究を通して、記憶の欠損による年配者の精神的な能力障害の回復に繋がる道を探りたいと話している。「実験を通して実際に体験した記憶、そして体験したと錯覚する記憶、両者の違いを見極めることが出来れば、年配者が抱える一般的な記憶の問題を解決する糸口になるかもしれません。」
記憶、あるいは錯覚
現在、ブラウン博士はデューク大学心理学助教授エリザベス・J・マーシュ博士らと共に更なるデジャビュの研究を進めている。マーシュ博士は先に挙げたジャコヴィ博士らの実験を更に押し進め、独自の研究を行っている人物である。そして今後、博士らは共同してデジャビュに関する新たな実験を予定しているという。
その実験とは、まず、様々な景色が撮影された写真の中に隠された小さな赤いクロスマークを被験者らに出来るだけ素早く探させるというものである。そして一週間後、今度は被験者らに、最初の実験で用いたものとは別の写真を多数混ぜたスライドショーを見せ、ひとつひとつに対して「あなたはこれまでに、この景色を実際に見た事があるか?」、あるいは、「かつてこの(写真の中の)場所にいったことがあるか?」と尋ねる。そして最終的に全てのスライドが終了したのち、今度は被験者らにその中で本当にいったことがある場所を再度尋ねるのである。
この実験において博士らが期待するのは、最初の実験で被験者らが写真の景色そのものではなく、クロスマークにその注意力が集中するという点にある。また博士らの予測では、この実験において被験者らは半意識的に目にした景色を既視であると錯覚することで、いくらかの誤回答(見た事のないものを見たと答える) - あるいはそれがデジャビュとして - するのではないかと期待しているという。
マーシュ博士はそれまで、オーソドックスな記憶の分野に関する研究を行っていた。しかし、ある日、ブラウン博士の論文批評を依頼され、徐々にデジャビュという現象にのめり込んで行ったと話している。「最初は、自分の専門である記憶の基本機能、そして記憶障害という視点から考えていました。だけどブラウン博士が何を言わんとしてるか、考えているうちに、とても惹き付けられてきたんです。彼の研究は確かにいくつかの面白い発見を含んでいます。それは例えば、良く旅行する人は頻繁にデジャビュを体験するといったことですね。」
またブラウン博士は今後、こうした様々な小さな発見を積み重ねることで、この奇妙な現象に何らかの光を投じたいと意欲を燃やしている。それは例えば、一体何故、年配の人はデジャビュを体験しなくなるのか?何故リベラルな人間は保守的な人間よりも多くのデジャビュを見る傾向があるか?また何故、報告される多くのデジャビュ体験は非日常的な場所でなく、ありふれた日常の中で起こるのか?といった小さな、しかし"有意かもしれない"発見である。
(スイスのユング研究者、アーサー・T・ファンクハウザー氏はデジャビュに関する自著の中で、デジャビュは自身を映す窓であるとし、しかしまた、デジャビュに現れるものの多くがしばしば非常に鈍く、奇妙であることを認めた上で以下のように記している。"一体なぜ、デジャビュにおいて無意識はかくも陳腐なものばかりを選ぶのか?")
また更に、博士は今後、癲癇病者、そしてデジャビュを"ほぼ毎日"頻繁に見るという奇妙な傾向を持つ人々の協力を得、研究を進めていくと話している。「そうした頻繁にデジャビュを見るという人、数人からメールを頂いたんです。そうした人々は私の研究にとって、本当にありがたい存在ですね。」
しかしまた、博士は今後の研究において、しばらくの間は大きな成果を挙げることは出来ないだろうことを予測している。「それは可能かもしれませんが、しかし、現在デジャビュと呼ばれるものは、実際には5つから6つの現象からなり、それぞれが違う原因を持っていると考えています。私の研究は、この余りにも抽象的な現象に対して、ゆっくりと歩を進めて行くものです。それはほとんど宇宙探索のようなものかもしれません。一体どんな発見があるのか、全く想像がつきませんね。」ブラウン博士は語った。
デジャビュとは何か
ビクトリア時代、英国の心理学者ジェームス・クリシュトン・ブロウン卿はデジャビュをして、「脳の中の一時的な痙攣」のような「些細で一時的な」脳障害であると指摘した。そして現代、このデジャビュ現象を説明する試論は以下の3つである。
海馬傍回の突発的な神経活動
この理論では、デジャビュを海馬傍回における小さな発作が原因であるとしている。海馬傍回は空間処理と"慣れ"の感覚を処理する部分である。
第二視覚路の遅延
我々が得る視覚情報は二つの経路を通過して認識されることは良く知られた事実である。一つは後頭葉にある視覚皮質へと直接届き、もう一つはそれより幾分遅れて、後頭葉へと向かいながら脳の様々なエリア、特に頭頂葉を経由することが知られている。そしてある科学者はこの"遅延"に目をつけ、第二視覚路の刺激が何らかの理由で特に遅れた場合、脳はこれら二つの視覚路からの情報を、それぞれ別の体験として認識することがデジャビュの原因なのではないかと推測しているのである。
不注意による錯覚
例えば、あなたは慣れない町を車を運転しながら、携帯電話で話している。あなたの注意のほとんどは携帯電話の会話に注がれている。そして数ヶ月後、今度はあなたは再び同じ場所を車で走ったとする。しかし今度は、あなたの注意は携帯電話の会話でなく、慣れない町の景色に注がれているだろう。そしてその時、あなたはふと既視感覚 - デジャビュを経験するのかもしれない。二度目の走行時、あなたの海馬は(その景色を見た事がないものとして)景色を意識的に処理するが、一方であなたはそれを「見た事がある」と認識するからだ。何故なら、あなたの短期記憶の中には、前回の走行時に見た景色の情報がいまだに残されているからである。
http://x51.org/x/04/08/2142.php#more
記憶の心理学(記憶の仕組み・物忘れ・デジャブ・思い出作り)
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/kioku.html
類似性に基づく記憶の自己組織化− アナロジー,メタファ,デジャビュ −
http://kyoumu.educ.kyoto-u.ac.jp/cogpsy/personal/Kusumi/analogy.htm