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自然法則に従う「いろいろ」の変化/晴れた空はなぜ青い?
http://www.asyura2.com/0406/bd36/msg/689.html
投稿者 鷹眼乃見物 日時 2004 年 8 月 15 日 16:28:06:YqqS.BdzuYk56
 

 『減算混合の究極は黒くなる』というのが色素(顔料、染料)を混合した場合の発色原理で、『加算混合の究極は白くなる』というのは光(太陽光)を混合したときの発色原理であることがよく知られています。「顔料」は塗って使う色素であり、「染料」は染めるための色素を指す呼び名です。なお、「顔料」の「顔」(がん、かお)の原義は“ひたい、色”のことです。人間の内面(心理・生理の両面)の動き(動揺、錯乱、欲望、野心、上気、自律神経の不調など)は、必ず“いろいろ”に変化する微妙な色として顔に表れるものだということが『忍ぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問うまで』(百人一首)のよう に表現されています。また、『忍ぶれど色に出にけり長襦袢・・・』など寸鉄人を刺し(殺し)思わずドキッとさせられるような戯れ歌もあります。
 西欧キリスト教世界の伝統では、赤・青など個別の色に対応して、ある一定の象徴的な意味が与えられています。例えば、赤=「地上の愛、情欲、激情、創造」、橙(オレンジ色)=「完全、無限、貞節、聖母マリアの色」、茶=「大地、秋、禁欲」、黄=「黄金、光、太陽、富と権力」、緑=「海、春、自然、生命、平和」、青・藍(欧米人は藍色と青を意識的に区別しない)=「天上の愛、希望、正直、誠実」、紫=「権力、崇高、名誉、知識」、白=「天界、光輝、神聖、純潔、啓示、真理、永遠」、灰色=「曖昧、無関心、無欲、保守」、黒=「始原、虚無、頑固、死」などです。街を散策しているとき、なんとなく落ち着かず気ぜわしい感じになったり、なぜか急に胸騒ぎがして不安に襲われたり、あるいはなんとなく爽やかな気分で歩いていたりすることがありますが、この場合、無意識のうちに街の色彩景観(色彩環境)が我われの内面に大きな影響を与えていることが多いのです。西欧キリスト教世界の伝統と無縁な日本人の場合は、先に述べた象徴的な意味と直接的に結びつくことは少ないと思われますが、我われは、非常に多様で、しかも社会的・家庭的・個人的な経験・体験・学習などの中から無意識に身につけたプラス・マイナスの色彩感情のようなものを持っているはずです。従って、色彩環境が自分にとってプラスの場合は癒され、マイナスの場合は精神的・心理的にダメージを受けることが考えられるのです。しかも、日常生活を単色環境の中で送ることは稀で、我われは、普通は様々な色彩が混じりあった“混合色彩”という現実の中で生活しています。
 ところで、内面の作用である人間の色彩感情(色彩に触発された感情)は、果たして減算混合(色素の混合/究極は黒)なのか加算混合(光の混合/究極は白)なのか、という問題があります。しかし、我われは外部環境の中で生成された混合色や単色を視覚を通してその都度受け入れているわけで、内面のパレットや内面空間で色彩表象の混合が行われるような現象は考えにくいことです。ただ、瞬時ごとの視覚の働きを神経生理学の回路で考えると、「眼球-網膜-神経回路-脳」という一連の色彩・情報処理のプロセスでは、網膜上の「明度」を感じる細胞と「光の三原色(赤、緑、青)」を個々に感じる細胞の役割分担のもとで減算混合のような処理(グラスマンの第一法則)が行われているようです。自然の光の明るさを求めた印象派の画家たちが絵の具をパレット上で混ぜることなく、固有色のままで細かな点に配置し、目の働きに任せて明るい色を再現しようとしたのは、このような理論的根拠に基づいていたようです。このように色彩の点々を併置して遠くから眺めることで網膜上で色を混ぜる印象派の手法は「視覚混合」と名付けられています。また、西洋絵画における描画法の歴史(西洋美術史)の観点から見ると、心象風景の再現描写(模倣、写実)から始まり、網膜処理的な色彩再現のレベルを経て、やがて脳内処理的なレベル(抽象化)へと向かって発展的に進んで来た、美の受容に関する大きな段階的な流れがクローズアップされます。
 イタリア・初期ルネッサンスの時代に書かれた『絵画論』(Trattato della Pittura)で、画家チェンニーノ・チェンニーニ(Cennnino Cennnini/ca1370-ca1435)は、“芸術の基本はディゼーニョ(素描)と色彩にある”と述べています。チェンニーノはこの著書で、14世紀イタリアの画家たちの技法とジョット(Giotto di Bondone/ca1266-1337)との関係についても論じました。ジョットはイタリア・ルネッサンス美術の先駆者で、静謐ながらも独特の生気に満ちた空間と現実感を創り上げた画家です。彼は、初めて従来の生硬な人物像から脱皮した人間的動作と感情をもつ現実的な人物像の表現に成功しました。その人物の背後の建築物や風景も立体的で、彼以前の時代のものと比べれば、よりリアルな空間を構成しています。チェンニーノは、ジョットが新時代のイタリア絵画の基礎を築き、その後のイタリア全土の画家たちに多大な影響を与えたと賞賛しています。その後、ギベルティ(Ghiberti lorenzo/1378-1455/イタリア初期ルネッサンスの代表的な彫刻家の一人)、アルベルティ(L.A. Alberti/1404-1472/美術理論家として15世紀の第一人者、著書『絵画論』、『建築論』)らが、基本的な美術の要素として<空間と物体の境界を示す線>を強調しました。
 特に、彼らが<線>を重視したということは“空間と個々の物体の関係を明晰に認識し、<線>によって輪郭を明瞭に表現するのが芸術の基本だ”という美意識がこの頃に生まれたことを意味します。また、彼らの心の中には、“物体と空間は幾何学的・数学的に把握できる”という確固たる理念が定着していたのです。この基本理念は17世紀のニコラス・プサン(Nicolas Poussin/1593-1665/フランス・アカデミズムを確立した古典主義の大家)や19世紀のアングル(J.A.D. Ingres/1780-1867/ラファエロを賛美した19世紀古典派の代表者)などの西欧古典主義の根本として後世の芸術全般に大きな影響を与えてきました。そして、ある意味では現代もその多大な影響を受け続けているのです。ところで、1400年代の初期ルネサンス(クアトロチェント)を代表する画家の一人であるピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero dellaFrancesca/ca1416-1492)は、このような古典主義の本質的な根本理念、つまり<線による素描の重視>を実践した最初にして最大の代表者だとされています。フランチェスカは戸外で絵画を制作する「外光派」の先駆者でもあり、精確な<線>とともに色彩と明暗の濃淡を駆使して描く「空気遠近法」の技術を使って、人物と背景が調和した力強く統一的な絵画空間を創ることに成功しています。いささか動きの乏しいところがありますが、その人物像も巧みな陰影と独特の短縮法によって現実的な量感を出すことに成功しています。このような新しい絵画技術を確立したピエロ・デッラ・フランチェスカは後の多くの画家たちに計りしれない感化を及ぼしました。同様にクアトロチェントを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci/1452-1519)はチェンニーノの影響を受けて著書『絵画論』を著しました。その著書でレオナルドは“物体と物体を区切る線は想像上のもので実在しない”という謎めいた言葉を残しています。レオナルドが言いたかったのは“私たちが現実空間の中で物体の形を認識できるのは、個々の物体の間に色彩や明るさの違いがあるからで、現実を冷静に観察すれば明瞭な輪郭線などは存在していない”ということです。しかし、こう理解したとしても、一方では“そこに線があるように見える”ということも事実です。なぜ、このような矛盾した現実認識が存在し得るのでしょうか?実は、私たちの視覚的な認知メカニズムの中では、周辺の環境情報を簡略化することによって認知速度を速めるという驚くべき機能が作用しているのです。私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。無論、私たちが少しでも目の位置をズラせば、これらグループ間の関係は瞬時に変わってしまいます。従って、どのようにリアルに描かれたとしても、絵画上のリアリティは様々な人々が動きながら個々に認識している現実とは異なることになるのです。このような考え方は、近年、再評価されつつある20世紀前半のアメリカの認知心理学者ジェームズ・ギブソンのアフォーダンス理論に近いものがあります。
 レオナルドによって完成された「線遠近法」(輪郭処理)と「空気遠近法」(色彩の面的処理)による現実空間の表現は、盛期ルネッサンスの二大巨匠ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti/1475-1564)とラファエロ(Raffaello Santi/1483-1520)で頂点に達し、その伝統は17世紀以降のフランス・アカデミズムに引き継がれ、更に洗練されて行きます。この過程で人間の視覚的な記憶や文脈的な記憶が繰り返し再現・定着されるようになり、カラヴァッジョ(M. Caravaggio/ca1565-1609)などのバロック絵画、ルーベンス(Peter Paul Rubens/1577-1640/フランドル絵画)、レンブラント(Rembrandt/1606-1669/17世紀オランダ絵画)などを経て、その成果はダヴィッド(J.L. David/1748-1825)、アングル(J.A. Ingres/1780-1867)らのフランス・アカデミズムの新古典主義絵画、そしてジェリコー(Gericault Theodore/1791-1824)、ドラクロワ(F.V.E. Delacreix/1798-1863)らのロマン主義絵画などにつながります。
 ファン・アイク兄弟を油絵具の創始者とする説が(ヴァザーりの『美術家列伝』)ありますが、ともかくも、この油絵具は、15世紀後半にフランドルからイタリアへ伝わったとされています。やがて、明暗の強い対比表現を好んだイタリアの画家たちは、それまでの「白色下地」に代えて「有色下地」の技法を考案します。初めに「白色下地」の表面全体を褐色で着色し、これを“中間調”として最明部を白、暗部を暗灰色として全体の明暗の調子を大まかに整える技法です。特に鮮やかな発色を要する部分は、宗教上の約束事などに従った固有色を薄く半透明に塗っておき、このような下書きの上に透明なグラッシ(光沢と深みを出す技法)を何回も塗り重ねて仕上げてゆくようになります。やがて、この新しい技術は、特にジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini/ca1430-1516)、ジョルジオーネ(Giorgione/1478-1510)、ティツィアーノ(Tiziano/1476-1576)らのヴェネツィア派の絵画に大きな影響を与えることになります。なお、ジョヴァンニ・ベッリーニはヴェネツィア派の開祖、ジョルジオーネは初めて情感的な風景画の要素をヴェネツィア派に取り入れた画家、ティツィアーノは独自の色彩美によってヴェネツィア派の頂点を極めバロック絵画への橋渡しの役を担った画家とされています。ヴェネツイ派の絵画は、色彩感覚に特別の関心を向けたという意味で、どちらかというとデュゼーニョ(素描)中心のフィレンツェ絵画とは対照的であり、盛期ルネサンスのイタリアで極めて個性的な位置を占めており、後の時代のイギリス風景画や印象派などの外光派の歴史的流れに大きな影響を与えました。16世紀になると、絵具以外の技術上の変化といえるキャンバスの導入が行われました。イタリアで16世紀後半から、フランドルでは17世紀早々(レンブラントの時代)からキャンバスの使用が目立つようになります。一説では、ヴェネチア派の画家たちが艦船用の帆布を転用したのが最初だともされています。また、このころから絵画の流通商品としての性格が強まり、その輸送上の事情も影響を与えたと考えられています。17世紀初頭までには、絵画需要に応ずるため油の乾燥促進剤の研究がかなり進んでおり、1630年代には油絵具の粘度はかなり調整ができるようになっていました。17世紀半ばになると、硬塗り絵具の先駆が発生して小さいヘラやコテを使った絵具の盛り上げやブラッシュ・ワーク(Brush-Work/筆運び)の痕跡を残すこと、あるいは絵具が盛り上がった谷間にグラッシを繰り返して意図的に色のムラをつくるなどの技法が使えるようになりました。そして、このような高度な油絵の技法を始めて駆使したのが17世紀オランダの画家レンブラントです。18世紀フランスの絶対王政下では宮殿を飾る王侯貴族の肖像画が流行するようになり、それに相応しい大きさの木枠キャンバスが作られます。やがて、自然主義が台頭して明るい外光の自然美が評価されると、再びキャンバスの「白色下地」が好まれるようになり、イギリスでは、18世紀後半の産業革命期になると、白い下塗りをしたキャンバス用の麻布が商品として開発されて“機械練り”の絵具も生産されるようになりました。イギリスの産業革命は徐々に欧州各国へ波及して行くのですが、それから19世紀末頃までの約100年の間に、顔料化学にも革命が起こり“Zinc-White(亜鉛華、亜鉛白)、クローム黄、アリザリン・レーキ(鮮やかな紅色色素)”などの「新しい色」が次々と誕生します。これによって、画家たちは絵具を混ぜ合わせたり、グラッシの工夫に取り組むなどの手間から解放されるようになったのです。このように見てくると、18世紀後半の「印象派」の成立が、このような「白色下地」と「色彩科学(化学)革命」の申し子でもあったことが理解できるのです。
 マネ(Edouard Manet/1832-1883)の『草上の食事』(1863)の官展落選に始まるとされる印象派絵画の特徴の一つは、遠近法と顔料の塗り込み技術を駆使して再現・描写される「心象風景の絵画」のレベルを脱し、初めて、本格的な「網膜絵画」を完成したということです。これは、キャンバス上に併置された固有色(ローカル・カラー)を視覚の働きが瞬時にとらえた上で、「眼球-網膜-神経回路-脳」という色彩・情報処理のための生理的プロセスで処理される、つまり網膜上の「明度」を感じる細胞と「光の三原色(赤、緑、青)」を個々に感じる細胞の役割分担のもとで加算混合処理が、主に網膜の上で行われるということです。そのような網膜上の処理プロセスを経て、我われの視覚は自然界に満ちた明るい色彩と光が織りなす微妙なニュアンスをキャンバス上に発見することになったのです。やがて、この視覚上のメカニズムの実践的な研究は、カンディンスキー(Vassilii Kandinskii/1866-1944)、ピカソ(Pablo Picasso/1881-1973)らの天才画家の出現によって、更に「脳内処理の絵画」(抽象絵画)の段階へ押し進められて行くのです。

[「固有色」の波長と「可視光線のスペクトル」の分布]
 (Thanks to http://www.geocities.co.jp/AnimalPark/2699/hasyoku4.html
               
400〜435nm(紫) 435〜480nm(青) 480〜490nm(緑青) 490〜500nm(青緑) 
500〜560nm(緑) 560〜580nm(黄緑)580〜595nm(黄) 595〜610nm(橙)
610〜750nm(赤) 750〜800nm(赤紫)

夏の空にせよ、秋の空にせよ、高く晴れ上がった天気がよい日の青空ほど我われの気持ちを爽快にしてくれるものはありません。西欧キリスト教世界の伝統では、青の象徴的な意味は「天上の愛、希望、正直、誠実」でした。ところで、空はなぜ青く見えるのでしょうか?それについては次のような科学的説明がなされています。・・・雲が見られないほど十分に高い上空では水素・酸素・炭酸ガスなどの空気成分の分子(可視光線の波長全体の長さ[約400〜800nm/ナノ・メートル、1nm=10億分の1メートル]より十分に小さい)に太陽の光が当ることになり、ここでは「レイリー散乱」と呼ばれる現象が起こっています。この時、可視光線の波長は、固有色の違い(波長の違い)によって異なり、その散乱の度合いの大きさは“波長の4乗に反比例する”(この現象を発見したのがレイリー)ことが知られています。従って、赤い光(波長が相対的に大きい)より青い光(波長が相対的に小さい)の方が散乱される度合いが大きく、その大部分は地上まで到達します。しかし、赤い光は散乱の度合い(散乱光のエネルギー)が小さいため地上に届くまでに減衰してしまいます。このため、高い空の色は青く見える訳です。一方、相対的に低い高度の上空には雲や霧などの大きな粒子(光の波長と同程度の大きさ)があり、ここでは「レイリー散乱」は起こらず「ミー散乱」と呼ばれる現象が起こります。この散乱の大きさの度合いは光の波長の大きさと無関係であり、すべての固有色の光が同等に散乱するので、雲や霧があるところでは光の固有色の減算混合が起こり白い色となります。そのため、雲や霧は白く見えるのです。なお、雲が厚くなれば散乱光のエネルギー全体が減衰するので黒っぽく見えるようになります。また、相対的に高いところの空気の層を斜め方向の低い角度から見上げれば、空気の層が厚くなり、空気の層が厚くなれば青い光の散乱光が減衰して消滅し、少ないながらも残りの赤い光だけが地上に到達することになります。このため夕焼けや朝焼けは赤く見えるのです。・・・
 高度が1万メートル程度の対流圏界面(成層圏の下)を飛行するジェット旅客機の窓の外を見ると青い色よりも紫に近い、深く暗い色に見えることがあります。それは、対流圏界面が薄い空気層(空気成分の分子量が少ない)であるため、そこでは青よりも“より波長の短い光”が散乱しており、また、その光量そのものが少ないため黒っぽい紫色に見えるのです。更に、全く空気が存在しない宇宙に飛び出せば、そこは強烈な白い光を発している太陽以外は真っ黒な宇宙空間です。なお、ESO(ヨーロッパ南天天文台)の電波望遠鏡VLAとハッブル宇宙望遠鏡の観測結果によると、現在の宇宙の色はベージュ色だそうです。しかし、現実の宇宙では、その光の量があまりにも少ないため、地上の人間はこの色を感じることができないということです。(http://www.astroarts.co.jp/news/2003/12/24color_universe/index-j.shtml)また、人工衛星「WMAP」の観測データを解析したNASAの最近の発表によると、宇宙に存在するエネルギー密度の内訳は、光を発している通常の物質が僅か4%で、光を発していない「暗黒物質」(Dark Matter/正体不明の物質)が23%、残りの73%も「暗黒エネルギー(宇宙項)」と呼ばれるものであることが判明しています。これらのことから、「光」に満ちた地球上の生命圏がいかに希少で、貴重なものであるかが分かります。(http://www.kenjm.cst.nihon-u.ac.jp/rik_news/newtra_nihei.html
 光の研究の最も古い事例は古代ギリシアの哲学者ソクラテス(BC5〜4世紀)、プラトン(BC4世紀)、アリストテレス(BC4世紀)そして「新プラトン主義哲学」のプロティノス(AD3世紀)あたりまで遡るようですが、彼らのテーマは「光の形而上学」でした。現代で言う科学的な意味での研究の始祖は、記録に残る限り13世紀のイスラムの物理学者イブン・アルハイサムと、その影響を受けたとされ、その博識によって『驚異博士』と呼ばれた英国のロジャー・ベーコン(Roger Bacon/ca1219-92/スコラ哲学者、科学者)です。しかし、色彩の観点から光を意識的に研究した最初の科学者は英国のニュートン(Isaak Newton/1643-1727)です。ニュートンは1704年に太陽光をプリズムで七色に分光し、すべての色を加算すると白色になることを実証しました。逆に言えば、ニュートンは色彩が光の中に隠れていることを実証した訳です。しかし、1810年(60歳の時)にドイツの文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe/1749-1832)は、還元論的なニュートンの実験結果を否定する目的で大分の著書『色彩論』を発表しました。ゲーテの立場を強いて言えば、古代ギリシアの「光の形而上学」以来の伝統である“闇と光の中から色彩が立ち上がってくる”という認知心理学的な現象を科学的に把握するということです。別に言えば、人間が色彩を感じたとき、それによってどのような精神作用を受けるのか、ということの論理的な解明です。これは17世紀オランダの画家、レンブラントが生涯をかけて立ち向かった実践美学(芸術学)のテーマでもありました。ゲーテの論考と実証によると、色彩は光と影の境界に発生します。驚くべきことに、これは20世紀の前半にアメリカの認知心理学者ジェームス・ギブソン(James J. Gibson/1904-1979)が提唱したアフォーダンス理論のテーマに重なります。しかも、色彩の科学は極めて学際的な性格のものであり、コンピュータの発達に伴い広がりつつあるヴァーチャル・リアリティの壁(限界)の問題やベンヤミンの「アウラ」(芸術作品の一期一会の価値)の問題にも重なってきます。また、色彩の科学は、ドイツ現象学の創始者フッサール(Edmund Husserl/1859-193)が「現象学的還元」を説明するために“この瞬間における人間の根源的な現実体験”、つまり直接的・主観的な光景のことを「本質直観」(Wesensschau)と名付けたことにも重なります。ここでフッサールは、“この本質直観という言葉に神秘的な意味を与えてはならない”と明言します。まして、狂信やカルトのような超感覚的な能力への接近も避けています。大事なことは、我われが自分たちの具体的な経験のなかでの「本質直観」によって、そこにある偶然的な事実以上のものに関する、ある一定の「知的な構造」、つまり論理的に説明可能な「一つの新たな認識」を発見することだ、とフッサールは言います。このような立場に立ってこそ、我われは自分たちの特殊な内輪の生活に閉じこもることなく、あらゆる人々に開かれ、妥当する知識や共有可能な認識に接近することができるのです。別に言えば、フッサールの「本質直観」とは、人間の生き方において未だ主題化されていない「未知の価値」を発見することなのです。このような意味で、ゲーテの『色彩論』は、今、最も注目されるホットで学際的な研究テーマとして見直されつつあるのです。
 “一見神秘的な『色彩象徴』の意味”、“『色彩中心の描画法』の歴史”、“地球環境をとりまく『色彩現象』の様々”という三つの観点から光と色彩について概観して分かるのは、これら「いろいろな光と色彩をめぐる現象」の根底には「自然法則の論理」(抽象論理ではなく、観察可能な現象展開としての因果律)が深く根をおろしているということです。だから、人間社会の綾を表現する「いろいろ」という「言葉」(シニフィアン/signifiant)の「意味内容」(シニフィエ/signifie)の深層には、そのような意味での「論理性」がシッカリ根をおろしているはずです。だから、それを聴衆を煙に巻くために便利な不条理で曖昧な誤魔化しの言葉として使うべきではないのです。だからこそ、人は何か論理的な弁明を求められたときに必死になって「いろいろ」という言葉を使って真剣に答えようと努力するのです。このような観点かすると、最近、日本の政治家が「いろいろ」という表現が困難な局面を打開するための屁理屈として、つまり誤魔化しに役立つ重宝な言葉として使われているのは誤りで、まことに由々しき事態です。そして、最近、その極めつけのような出来事が起こっています。2004.8.10付・毎日新聞等の一部マスコミの報道によると、日本政府は、10日、小泉純一郎首相が会社員時代に勤務実態がないまま厚生年金に加入していた疑惑を国会で追及され“人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ”と答弁したことについて、“この発言を公式に撤回すべきではない”とする答弁書を「閣議決定」したそうです。これで、この小泉首相の“いろいろ発言”は失言ではないとする政府の立場が公に確認されたことになる訳です。この報道内容については、ほとんどの一般国民もマスコミも大きな関心を向けなかったようです。しかし、このことは、実は日本の国家としての有り様の混迷の度合いがますます深まっていることを象徴する出来事です。なぜなら、この発言内容は明らかに現実に起こったことを誤魔化すための“いろいろ”発言であるにもかかわらず(先に述べたとおり“いろいろ”発言をそのような誤魔化す意図で使う、そのこと自体が根本的に誤りなのですが・・・)、つまり、民主主義国家の国民から信任を受けた最高の行政意志決定機関が、総理大臣の虚偽発言を不問に付すことを公式に決めたという、真に道理に反する出来事だからです。これは、恐るべき「暴政」の現れです。最高位の政治権力者の発言に一切の責任が伴わない仕組みは、古代ギリシアの僭主政治か王権神授説を担いだ絶対王政、あるいはナチス等の独裁政権以外では通用しなかったことです。しかし、今や、“民主主義国家・日本”では、このように「自然(宇宙)の論理(道理)」さえ無視するような政治を一般国民が平然と受け入れる「悪政の時代」に深く嵌っているのです。どうやら、いつの間にか日本の閣議決定は、“白は黒である”あるいは“1プラス1は5である”というような首相の発言を不問に付す、英国チューダー朝・ヘンリー7世時代(15世紀)の悪名高き「星室庁」(真偽を問わず、王権に反抗する者を公式に処断する王の直属機関)のような恐るべき機関に変質してしまったのです。
 また、次のような驚くべきニュースが同じ頃の新聞の片隅に小さく載っていました。・・・内閣府は、8月11日、昨年1年間の自殺者が過去最悪を記録したことを受けて、同府にある経済社会総合研究所に、背景も含めて調査・研究させることになった。・・・一方、同じ頃、小泉首相は次のような発言をしています。・・・自殺者増加の理由はなかなかわからない。これだという(対処の)特効薬はない。・・・また、同じ日の新聞の片隅に次のような内容が載っています。・・・昨年1年間の自殺者の内容を分析すると、特に年齢別では50代が1978年当時の2,753人から8,614人(約3.12倍)に、理由では経済・生活問題が1978年の1,703人から8,897人(約5.2倍)に増えている。・・・自殺者数の統計は厚生労働省というれっきとした国家の所轄行政機関が集計・分析した数字のはずであり、何故に小泉首相は“自殺者増加の理由はなかなかわからない”などという、まるで他人事のような発言しかできないのでしょうか?それとも、厚生労働省が推計した数字は全く信用できない(経済・生活問題を理由とする自殺者数が、こんな大きな数字になるはずがない?)ということなのでしょうか?ここでは、国家機関の野放図で非効率な縦割り行政の放置、マスコミの批判精神の欠如などの嘆かわしい問題点が次々と浮き彫りになっています。それにも増して恐るべきことは、政府の意に沿わない調査結果を意図的に操作するための“再調査”を命じたのではないかという想像が掻き立てられることです。いずれにしても、このように安易に善良な国民を誑かすような一連の政治手法がまかりとおる原因の一つは、「批判力が劣化したマスコミの存在」という嘆かわしい現実です。もう一つの理由は、政権与党の「ポピュリズムを煽る政治手法」が図に当っているという現実です。ごく大雑把に見れば、一般国民の7割程度は、何事につけ他人任せで、しかも基本的に政治に無関心な精神環境を持つ、いわゆる一般大衆です。良し悪しはともかくも、これが動かせない現実です。これらの人々の共通認識が消費動向、支持率、視聴率・購読率などに大きな影響力があることも事実です。従って、経営者、政治家、マスコミが一般大衆に照準を合わせること自体は無理もないことです。しかし、経営者、政治家、マスコミには踏み越えてならない一線(禁じ手)というものがあったはずです。消費量(売上)、支持率、視聴率・購読率などの目先の数字を上げることだけに目を奪われ、この一線を踏み越えることは最低限のモラルとして許されないことでした。しかし、ここ数年の間に、この一線は易々と踏みにじられてしまいました。その結果が、深く考えず、一方的に弱者に皺寄せする「安易な自己責任の転嫁」と「社会システムの底なしの劣化」というおぞましくも深刻な事件・事故の続発です。美浜原発で起きたばかりの悲惨な事故も、同じ性質の根本原因が潜んでいるはずです。驚くべきことに、国は2000年度の同原発の保守管理体制を“適切である”と公式に評価していたのです。
 このような深刻な事情には一切おかまいなく、日本政府は相変わらずミランダ(miranda)重視の政策推進に余念がないようです。悲しむべきことですが、政治家も経営者とマスコミ人の多くも、この路線を続ける限り“支持率安泰、売上安泰”だと信じているようです。ミランダとは、現代政治学の父とも呼ばれる米国の政治学者メリアム(Chrales Edward Merriam/1874-1953)の造語です。それは、“国旗・記念日・祭典・セレモニーなどのメコネサンス・シンボル(ナショナリズムを煽る政治的象徴)を意図的に使い、それらを国民の非合理的(情緒的)な面に作用させ、情動的な部分で人に大きな影響力を及ぼす政治手法”のことです。それは、国家による上からのナショナリズムの押付けであり、表面は柔らかい当たりを装いながら、内実は慇懃無礼、かつ動機不純で野心と悪意に満ちた強権支配型の政治手法です。一方、メリアムはクレディンダ(credinda)という政治手法こそが望ましいと述べています。それは“論理・理論・倫理観・イディオロギーなどによって、人の合理的側面や知的関心へ訴えかけ、啓発し続ける政治手法”のことです。また、それは人間愛を基本としつつ、歴史に学び人権を最大限に尊重する民主的な政治手法です。現在の「拡大UE」の理念は、これに近いものです。“いろいろ”などという言葉に翻弄されず、多くの日本国民が一刻も早く「自然を支配する道理」と「クレディンダ」の重要性に目覚めることを願うばかりです。
<参考URL>
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/
http://blog.nettribe.org/btblog.php?bid=9816b255425415106544e90ea752fa1d
http://blog.goo.ne.jp/remb/
http://blog.melma.com/00117791/

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