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明治政府は 「明治ナショナリズム」(日本国家主義)という明確な国家意識を持っていました。その具体的な方向は、帝国主義・植民地主義の牙を剥く欧米列強への対抗意識から掲げられた“富国強兵”の国家目標です。この時、国家体制の強化が主眼となったため国民一般の主権は無視され、一方で国民の民族意識と愛国心を上から鼓舞する必要が生まれました。明治政府は、この「明治ナショナリズム」の実現のために「神聖で呪術的な象徴」(メコネサンス/meconneissance)を創造し、一般国民が自ら「主権在民」を否定するように仕向けました。元々、メコネサンスは人類学の用語で“相互誤認、無知、無理解、無視、無関心”などの多義的な意味を持っています。つまり、この時に明治政府が目指したのは一種の「神権政治」です。「神権政治」とは、直接、神から最高主権を授与された支配者が支配・統治する国家体制のことです。歴史的にみれば、古代イスラエル王国、皇帝崇拝が強制された時代のローマ帝国、王権神授説によるヨーロッパの絶対王政などがあります。明治期の日本では、神権政治の実現のため軍神をご神体とする「国教制度」の整備が計画されました。このため、明治政府(近代天皇制国家)が1879年(明治12年6月4日)に「国家神道」の中枢として“靖国神社を創設”(厳密には1869年に創設し、1879年に靖国神社と改称)したのです。このため、第二次世界大戦までの間は、一般神社(古来の伝統的な神道)が内務省管轄下であるのに対し、靖国神社は陸・海軍省と内務省の3省で管理されていました。つまり、一般の神社と「靖国神社」の宗教的な(軍神としての)性格は根本的に異なるのです。「靖国神社」が国家守護のための軍神的性格から排他的であるのに対して、日本古来の“神道”では“やおよろずの神々”に対する畏怖心がベースであり、むしろ敵・味方の別を問わず霊を祀ろうとする一種の寛容さが内在します。
このようにして、天皇のために死んだ人々を軍神と化した英霊として祀る靖国神社は、他の宗教とは別格の日本の軍神を祭る国家神道となり、アジア諸国などへの侵略戦争の時に日本軍を派遣する精神的基盤を提供することになります。この神社には、戊辰戦争から太平洋戦争までの戦没者、約246万人が祀られていますが、原爆や空襲で死んだ一般国民の霊は祀られていません。一方、軍国主義国家・日本のため果敢に戦って靖国神社に祀られることは最高の国民的美徳だと倫理的・教育的に称えられるようになり、靖国参拝が政府によって強制され、靖国へ参拝することが愛国心の踏み絵とされてきたのです。また、太平洋戦争の時代には、この国家神道に従わなかった日本基督教団などの諸宗教集団は解散を命じられ、批判的な幹部たちは「治安維持法」違反などを口実に次々と投獄されました。太平洋戦争後、国家神道が廃止され、新しい日本国憲法の「新教の自由」と「政教分離の原則」によって靖国神社は一般の宗教法人の一つとなりました。しかし、靖国の教義と祭祀・儀礼の方法は戦前の姿のままで残され、その境内には大砲・砲弾・人間魚雷・戦闘機などの兵器類が神聖なものとして展示されており、境内最奥の遊就館には「天皇の錦旗」が飾られています。このように見てくると、一般の伝統神道の神社と靖国神社の宗教的な性格が根本的に違うことがハッキリ分かります。しかし、2001年8月、靖国神社の“公式参拝は憲法違反でない!”と公言する小泉首相が、内外からの激しい批判を無視して参拝を強行しました。小泉首相の精神環境(脳裏)では、到底この違いが理解できていないようです。
見方によっては、国家権力が死者を「国家の英霊」として処遇し「最高神」にまで祀り上げ、今度は、それを国家がエゴイスティックに経済発展や侵略戦争の合法化のために利用(活用)するということは、“神”をも怖れぬバチあたりな考えであり、とてつもなく傲慢で非民主主義的な行為です。例えば、穏健・中庸なキリスト教の立場(プロテスタント敬虔主義、カトリック福音派など)では、象徴的な意味でのキリスト(死者)の復活が人間に健全な希望を与える福音となる訳ですが、この出来事を含む聖書の記述内容をリアルな唯一の現実だと短絡的に理解すると「キリスト教原理主義」(米国ブッシュ政権を支えている)の立場に嵌り、聖書に書いてあること以外は悪魔が支配する世界(邪悪な世界)だということになります。このように考えると、かつて、日本が国家神道(靖国神社)を創り上げた時の、政府による国民一人ひとりの「生命と心」の政治権力的な統制も、やはり一種の「原理主義的な精神環境づくり」であったことが分かります。日本は、今や再び「小泉総理大臣の靖国参拝」、「憲法9条改正」(平和主義の放棄?)、「教育基本法改正」などの諸問題を契機として「軍国主義」と「国家主義」が復活する懸念に晒されているのです。これら、いわゆる日本の右傾化の動き(日本を戦争が堂々と出来る“普通の国”に変えてしまうという動き)は、小泉首相の靖国神社への強行参拝が切っ掛けとなって加速し始めたのです。
このような“日本の右傾化”の流れの中で、最近、特に注視すべきと思われる問題が、「教育基本法改正」と「人材づくり」の関連で急浮上した「国民に対する愛国心の強要」と「ヒトゲノム研究の人材育成への応用」です。6月20日、自民党・公明党の連立政権が「教育基本法」を全面的に見直すことで合意して、改正案の準備の中間報告を行いました。そのポイントは次のとお(●)りです。
●人格の完成(現行のまま継続) ●伝統文化の尊重 ●公共精神の重視 ●家庭・幼児・大学教育 ●私学教育の振興 ●愛国心
当然ながら教育基本法の内容は「日本国憲法」と連動します。逆に言えば「日本国憲法」の目指すところは「教育基本法」をベースとして実現されるのであって、両者は表裏一体の関係にあります。つまり、それは日本の国としての将来の有り方をどうするのか?という問題です。そこで、連立与党が最も重視しているのが「愛国心」であり、自民党が考える「愛国心」の姿は、それを形(国民一人ひとりの態度)にどのように具体的に表すかという、いわば「踏み絵」のようのものです。しかし、この問題は一歩誤ると全体主義的な方向へ傾斜する怖れがあります。本来、それが人であれ、国家であれ、何であれ、ある人間が何らかの対象を“愛する”ということは人間の内面の働き、つまり人間の心の中の表象の個性的な働きである筈です。人間の顔や個性が千差万別であるように、何らかの対象を“愛する”方法は、それこそ“人それぞれ、人いろいろ”のはずです。国民一人ひとりの“心の中の働き方”まで、国家が一定の有り方を強制するのはヒトラーのナチス・ドイツや東条英機の軍国主義国家・日本を想起させます。それは全体主義による強圧的な統制国家です。既に、一部の教育機関では「愛国心」などについて、管理・評価面からの強制が始まっており混乱が広がりつつあります。例えば、福岡県では、2003年度から県内67の市立小学校で六年生の社会科の一環として、“国を愛する心情”などについて三段階の評価結果を通知表に記載しています。一旦、このような形での評価・管理が始まってしまうと、評価・管理される側は人参を目先にぶら下げられた馬のような心情となり、目先の点数稼ぎのため国家権力の思惑に沿った行動を取るようになり、否応なしに弱い立場に追い込まれて受身の心理という罠の中に落ちて行きます。そして、国家による見事な“個人の心”の管理が実現することになります。いわば、これは憲法から“平和主義”を捨て去った途端に“先制攻撃論”に頼る以外の選択肢が眼に入らなくなることと同じです。しかし、与党政治家たちは「教育基本法の改正」や「愛国心の強制」を論ずるより先に取り組むべきことがあります。それは、浅薄で卑しい政治理念や汚職などの不祥事にまみれた政治の在り方を当然とする、現在のような恥ずべき政治姿勢を率先して正すことです。政治権力者たちが、自らの“不正・疑惑・悪徳行為・詐欺的行為・誤魔化し”などを棚に上げる一方で、善良な国民の目前に人参をぶら下げて「愛国心」を強制するような不善(倫理を無視した不正行為)を許すべきではありません。
2004.7.29付・東京新聞(特報記事)によると、政府が継続・実行しているタウン・ミーティングの席上で、政府側出席者から「ヒトゲノム研究」に関する恐るべき発言が相次いでいるようです。それは、日本の人材(エリート)育成のために「ヒトゲノム研究」の成果を応用すべきだという発言です。つまり、子どもたちの才能を早めに発見し、早期に人材を選別するために「ヒトゲノム研究」の成果を活用すべきだという考え方です。そのために「遺伝情報検査」を就学時に義務付けるべきだというのです。松山のタウン・ミーティングでパネリストの鳥居泰彦・中央教育審議会長が次のような発言をしています。・・・米国がレーガン政権下の1983年に出した報告書は“優れた国民をつくるには大変なコストがかかる。しかし、長期的にみるともっとコストがかかることがある。それは「凡庸な国民」を大量につくってしまった時の後始末だ。”という印象的な言葉で締めくくっている。この言葉を日本も大切にしなければならない。・・・政府側のパネリストが、このような発言をするのは大いなる自己矛盾であり、天に向かってツバを吐くようなものです。かつての衆議院議員選挙の時に、現政権の黒幕を自認する“某大物政治家”は、“政治に対する無関心層(つまり、政府が言う、多くの“凡庸な国民”)は寝ていてくれればよい(選挙の投票に来なければよい)”と言ったはずです。つまり、政治に無関心な“凡庸な国民”が多いほど、直接的な利害関係をベースとした組織票に支えられる今の政治は安定するというホンネを漏らしたのです。最も責任が重い与党政治家たちが、このように無定見で不見識なホンネ(民主政治の原則に反している)しか持てないとするなら、まず自らの「遺伝情報検査」(ゲノム分析)に早急に取り組むべきです。そして“政治家の適正なし”との科学的な判定が出たら、総理大臣であれ何であれ、文句は言わず即刻辞任すべきです。これがタウン・ミーティングで政府側パネリストが言いたかった本当のところではないでしょうか?
かつて、ナチス・ドイツでは「遺伝病子孫予防法」という法律が制定されています。この法律によって「低価値者」と呼ばれた人々(障害者、精神病患者など)に対する強制的な不妊手術が施されました。更に、彼らを大量に安楽死させるプランが実行されました。この一連のおぞましいナチス・ドイツの政策はアカデミックな「優生学」の理論をバックとして実行されたのです。つまり、これは劣勢遺伝形質を持った人々の子孫を減らし、優れた遺伝形質を持つ人々の子孫だけを増やすべきだという合理的で差別主義的な科学理論が実行されたのです。しかし、後になって考えてみれば、真っ先に強制不妊手術か安楽死の処置を受けるべきであったのは当時の最高権力者、ヒトラー自身であったのかもしれません。人間を経済価値だけで評価するような権力にかしずくだけの科学理論は、このような“ブラック・ユーモア”的な存在以外の何ものでもありません。つまり、あまりにもバカバカしいことです。しかし、一般国民(市民)の眼を絶えず光らせないと、このような“ブラック・ユーモア”の世界が、我われの身近な現実となって牙を剥き襲いかかってくるのです。今、アカデミズムの世界では、「ヒトゲノム研究」の成果を現実化するために、歴史的なナチス・ドイツの汚名を引きずる「優生学」の復権が真剣に検討されており、「良い優生学」「悪い優生学」「新優生学」「レッセフェール優生学」「ユートピア優生学」など様々ブレーク・スルーのための出口が模索されています。しかし、注意すべきは、この「優生学」が政治・経済的に利用されると必ずや何らかの“差別”の道具と化す怖れがあることです。スイフトの『ガリバー旅行記』の第4編「フイヌム国渡航記」の中で、人間そっくりな姿の家畜ヤフー(yahoo)が登場します。このフイヌム国の主人公たちはフイヌムという馬そっくりで非常に理知的な生き物で、家畜ヤフーはフイヌムに従順に従って生きています。
近年、日本社会の特徴の一つとして、日本人一般の政治意識の異常な低さということが指摘されています。少なくとも欧米・アジアの民主主義諸国の標準よりも10ポイントは低いという真に悲しむべき現実があります。(2004.7.14付BLOG・ベスのひとりごと/「低投票率56.6%」が暗示する日本の危機とは?/http://takaya.blogtribe.org/archive-200407.html、参照)また、社会的な階層(階級)、利益集団などの間で成立する社会関係とは、つまるところ人間関係のことですが、この人間関係で作用する力には「物理的な力」と「脳内表象へ作用する力」の二つがあります。国家というものは何らかの統制力がなければ存在できないので、その国家に一定の「統制的な権力」が必要であることは当然のことです。そして、この「統制的な権力」に一定の基準を与えるものが「憲法」だと思われます。現代の民主主義国家では、歴史的な経験から学んだ知恵を生かして人間関係へ作用する二つの力のうち「物理的な力」、つまり暴力(戦力、警察力など)の行使を最小限度にするよう十分配慮されています。しかし、それでも「公正」や「公共善」に対する適切な配慮を失った暴政による極限状況が浮上する可能性が絶えずつきまとっています。そして、もし、そうなった場合にはどのような民主主義国家であるとしても「脳内の表象へ作用する力」という指導・指示・命令的な統制権力だけでは制御不能な民衆側からの反発が噴出する可能性があります。これは、普段の安定的な生活の中では、あまり考えたくもないことですが、人間も動物の一種として生きている以上は絶対に避けられない原点です。それは、いわば生物個体に遺伝的に埋め込まれた『逆鱗』のようなものです。誤ってこの『逆鱗』を踏んだ権力者は直接的な強い反発を食らうことを覚悟しなければなりません。まことに厳しいことながら、これが現実です。今や日本国民の目前に近づきつつある「軍国主義」と「優生学」の復活という深刻な問題(人間の心の中と生命そのものが政治権力に支配されるという意味で)は、この『逆鱗』にショートする可能性があります。しかし、政治権力者に“おこがましさ”(自らのバカバカしさを自覚できないという意味で)がある場合は、より危険な状況となる可能性があります。その場合は警戒心を失った日本国民が本当に眠りこけたままの状態となり、政治権力がこの『逆鱗』の制御に成功する可能性が高くなるからです。そして、その時こそ我われは“人間そっくりな姿の家畜ヤフー(yahoo)”と成り果てるのです。
<参考URL>
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/
http://blog.nettribe.org/btblog.php?bid=9816b255425415106544e90ea752fa1d
http://blog.goo.ne.jp/remb/
http://blog.melma.com/00117791/