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三上宥起夫(みかみゆきお)著:ハミングバードはもう鳴かない:
カドカワノウベルズ 1982年9月25日発行 角川書店
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:ハミングバードはもう鳴かない:読書感想
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/8479/mikami1.html
1
「芝居は観るだけにしろ!やるならもう、おまえは首だ」このような言葉で私はこの8月、勤めていた会社をやめさせられた。また再び河原乞食になっただけである。失業中はひたすら体が萎えても読書をする。そのような日々、このサスペンス小説に出会った。
想像力の定義、それは個人それぞれ違う。私にとって、想像力の魔手とは、やがてくる大衆社会その構造の先取りである。1975年、寺山修司と天井桟敷の市街演劇が、それ以降の都市ゲリラ・パルチザン戦争を先取り、大江健三郎:同時代ゲーム:成田空港の二期工事をめぐる三里塚戦争と80年代の最後、1990年10月の頂点大阪西成・釜が崎暴動へと至るある勢いを、:同時代ゲーム:の想像力はすでにつかみとっていたのである。
それでは1982年9月に発刊された:ハミングバードはもう鳴かない:は、80年代における、何の構造と空気をつかみ取ったのであろうか?言うまでもない、60年代後半から70年代におけるラジオの深夜放送における匿名の投稿ハガキ、無名性とそこにおけるラジオ受信機の向こう側における、ある孤独とある孤独を結ぶ物語。
ここから今日のパソコン通信の、ハンドル名と言った匿名・覆面・無名によって、生成する連続と非連続のデジタル情報都市は、あの30年前から発生したラジオ深夜放送と、限りなく連関している。
デジタル社会への転換を身体もろともショックとして宣告されたのは、私にとって1991年1月17日の湾岸戦争であった。こうして世界は新世界無秩序として降臨してきた。デジタル情報世界とは地球の自転とともに回る人口衛星の電波と結ぶ、また海底ケーブルと結ぶ、情報が光速で疾走する世界であろうか?
しかしデジタル社会は各個人の情報データさえ01記号で構築されたデータベースに置換すると同時に、そこには見えない無数の孔が打たれている。不断に情報はその孔から逃亡していく。時間は溶解して流動して液体として生成する。これがデジタル世界の時間であり、新世界無秩序はここに誕生する。
ここでは有名であるか無名であるかは、すでに問題にならない。実名であるか匿名ハンドル名であるか問題ではない。ネットワークは疾走し、顔が見えない個人が役者のように電話回線から突然、ディスプレイの舞台に登場する。それぞれの書き込みはすでに文学が大衆化され一般化されたことを物語っている。顔が見えない役者は、多様な人間に演じることが可能になり、演劇は大衆化され一般化されたのである。
私がここで定義する「大衆」「一般」とは、これまでの幽霊としてのマスのことでない。それぞれ個人として日常化され、規格を個人が道具として操作可能・また参加している構造のことである。マルチメディアとはダウンサイジングされた巨大な工場を、いまや個人が私有し操作可能となった事実を示している。
チャトと呼ばれるRTは、複数の役者たちによって演じられる台詞劇の生成現場である。RTにおけるダイアローグとしての台詞劇。そして書き込みはモノローグとしての台詞劇であろう。演劇はこうして日常化されているのだ。
2
三上宥起夫は:ハミングバードはもう鳴かない:で衝撃的にデビューした。このサスペンス小説は3万部ほど売れ、やがて絶版となるのだが、この書物で展開された物語は、その後、出現した事件を想起させる。グリコ事件である。三上宥起夫はわれわれの80年代の空洞を表現することに成功したのであろう。
グリコ事件は日本列島を振動させた。帽子をかぶったあのキツネ目の男が、コンビニエンスストアーでうごめいている。あのモニターが全国ネットのTVで放映された時、私の親族は「おまえに似ているぞ!」と心配して電話をかけてきた。母親も動揺し「おめぇにソックリじゃねぇかぁ?」と、私に聞いてきた。誰だれに似ているという話題が全国の茶の間、飲み屋で会話されていたことだろう。
ある顔の見えない特定の人間よって、マス・メディアは自由自在に操られてしまう情報化社会の脆さを、グリコ事件は舞台に上げてしまった。情報が怪物のように肥大化し、まるで生物のように管理の手から離れ都市に仮想身体を揺さぶっている。グリコ事件こそは、無数の孔が打たれそこから不断に逃亡するつかみどころがない、今日のデジタル社会を先取った情報操作犯罪であったのだろう。あの時点において、おそらく日本のマス・メディアは崩壊をとげていたのである。
80年代の空洞を象徴する、ただひとつの音声。グリコ犯一族のあれは少年か少女か幼子か? あれこそは80年代空洞のハミングバードだったのかもしれない。黒いカラス、その不気味な音声。舞台装置は仮想都市であり、マス・メディアを操り情報の仮想怪物を日本列島に飛ばした、あれは最終演劇の誘惑だったのかもしれない。
「シカタ・しかたありませんな」グリコ犯の脅迫状の言語。それは日本語の遊技としてのレトリックにも止めを刺す。電通のCMコピー言語が崩壊したのは、あの時点からであったと思う。それを最終都市演劇の言語と呼ぼう。
一方における情報消費社会の空洞と漂流。他方における顔が見えない匿名・無名な一族と警察庁との都市情報戦争。80年代とはこの二重構造において分裂していたのであり、浮力都市と重力都市に分裂していたのだろう。情報の海峡に沈み、突然、海峡から出現する重力都市。
3
サスペンス小説:ハミングバードはもう鳴かない:のコード、その動物は鳥篭の小鳥であった。90年代の政治・経済の空洞に、想像力の魔手を伸ばした、村上龍の長編小説:愛と幻想のファシズム:におけるコード動物は鹿である。そのように物語には必ずコードである生物が登場する。
80年代の最終を飾った90年10月の大阪西成・釜が崎暴動においては、沖縄人の富村順一さんが日本列島の旅に連れていた愛犬が暴動の発端を切ったと言う話しがある。一体、都市と動物の関係とは何であろうか?
私のコード生物は、すでにわがアパートの部屋を占領したゴキブリ軍である。私の部屋に進駐するゴキブリ軍、私はもはや彼らと闘争する気力も喪失している。
結
三上宥起夫:ハミングバードはもう鳴かない:は、私に80年代は何であったのかを、再び自己に問う欲望をうながしてくれた。そして90年代とは何か?情報化社会マルチメディアの行方は? マルチメディアは何処から来て何処へ行こうとしているのだろうか? 情報とは一体、何であるのか?
1994,08,30