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(回答先: 夷振り(ひなぶり)について【雛元 昌弘】 投稿者 愚民党 日時 2004 年 7 月 19 日 18:29:39)
http://www.toshikozo.co.jp/kousatu/nihontyuuoutoninazoku.htm
030504(030624一部修正) 雛元昌弘
注:読み物(1つの仮設)としてお読み下さい。
1.「日本中央」の謎
青森県の小川原湖西岸の東北町で、「日本中央」と記された巨大な石が昭和24年に発見されました。http://www.actv.ne.jp/~yappi/mystery/003-nihonchuou.htm http://www.tmh.ne.jp/oktugaru/yoshitsune/ishibumi.htm
平安時代に「いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。田村の将軍征夷の時 弓のはずにて石の面に 日本の中央のよしを書付たれば 石文と云ふと云へり」と書かれ、多くの歌にも読まれていますが、この東北町には石文(いしぶみ)という名前の集落があり、隣接する天間林村には坪(つぼ:都母)という地名があります。
記録と地名、巨石の文字、の3つが一致したのです。しかし、田村麻呂は青森まで行っておらず、この将軍は田村麻呂ではなく、次の将軍で「都母(つも)村」まで進撃したと記録されている文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)の事ではないか、という別人説があります。
いずれにしても、ここまで軍を進めて、「日本」の中央まで征服したぞ、と記した、という征夷大将軍がいたことは事実と考えられます。
青森県は、三内丸山の縄文遺跡で有名なように、日本最大の縄文集落が栄えたところです。さらに、津軽地方の十三湖のほとりには、中世に安東水軍の下で隆盛を誇った十三湊がありました。
大きく時代は違いますが、陸奥湾と十三湖に面して、それぞれ栄えた集落と港湾都市があったのです。ということは、同じように生産性が高く、海上交通の拠点となる小川原湖のほとりにも大きな集落があった可能性は十分にあります。それが「都母(つも)村」であり、この戦略的に重要な中心地を目指して田村麻呂か文室綿麻呂が軍を進め、戦勝記念に石碑を残したということは十分に考えられます。また都でも大事件として語り継がれたことも理解できます。
この「日本中央」は、これまで「ひのもとの中央」と考えられてきましたが、国名である「日本(やまと)」という漢字を、なぜ、敵対する夷(ひな)の地に対して使ったのか、ということは大きな謎のままです。日本国の天皇家側の文書でこのような混乱が起こるとは、考えにくいことです。
2.「日本中央=夷(ひな)本中央」説
私は、日本書紀の中で「東の夷(ひな)の中に日高見国あり」と書かれている「夷(ひな)」については、「夷(ひな)=鄙(いなか)」という一般名詞ではなく、「ひな(日、夷)」という地域名あるいは部族名をさすのではないか、という1つの仮説を考えています。
その範囲は宮城県あたりから、北海道の日高地方あたりまでで、海岸沿いのルートをとると、当時の小川原湖畔の東北町あたりは、ちょうどその中央に位置する良港といえます。
ここから、西に目を転じれば、雪をいただく八甲田連峰がシンボルとしてそびえていますが、手前に見える山の名前は「雛岳(ひなだけ)」であり、彼らの聖地と考えます。
これまで、「日本中央」は、「ひのもと」の中央と考えられてきましたが、出雲風土記の「武日照命(タケヒナテルノミコト)」にように、「日」を「ヒナ」と読ませる当て字がある例からみて、この東北町一帯に「ひな」という集団、あるいはその集団が住む地域「日(ひな)」の「本(もと=中心)」があったのではないか、という仮説を私は考えています。
3.日本の謎
「日本中央」の謎の解明のためには、まず、「日本(やまと)」についてみておく必要があります。
わが国が、倭国(倭は中国からみた当て字)から、日本国(「やまとこく」)へと自ら国名を変えたのは、天智・天武朝ころとされています。しかし、不思議なことに、なぜ中国に対して「日本」と言うようになったのかはどこにも記録されていません。どうやら、国内では差し障りがあったようです。
もっとも古い「日本」の表記は、実は、スサノオを祭る熊野大社(出雲国の一の宮)に出てきます。この神社は、奈良時代に出雲大社ができるまで、出雲地方の最大最高の神社であり、現代も火起こしの神事を行っていますが、その別名を「日本火出初社」といいます。
とすると、「日本」という呼び名は、九州の「倭」ではなく、もともと出雲で使用されていた名称ということになります。
天武天皇は、出雲の先祖であるスサノオを信仰していた出雲系の天皇ということですから、天照系より古くて由緒正しい、スサノオを祭る熊野神社の名前から「日本」を国名としてとった、という可能性があります。
http://www.kumanotaisha.or.jp/top.htm
八百万の神々の国では、新参の天照大神を先祖とする天皇家は、より古い出雲系の神々を先祖に持つ豪族たちと較べて歩が悪いといえます(現代でも神社の8割は出雲系です)。
そこで、自らの正当性を掲げたるために、天武天皇は出雲の始祖のスサノオを押し立てるとともに、国名をその名前の一部をとって「日本」としたのではないでしょうか。
天武朝は蘇我氏や聖徳太子が進めた律令国家に確立に向けて、神々の中での自らの正当性を掲げるために、古事記と日本書紀の作成に入り、出雲系の神社や部族に伝わっている系図や記録を全て取り上げ、天照大神を中心とする(スサノオの姉とした)ように国史を創りあげたのではないでしょうか。
アマテラスをスサノオの姉とし、さらには妻(不思議なことに二人の間に子供がいる)として、出雲王朝の子孫と天皇家が同じルーツを持ち、アマテラス系のほうが支配者として正当性がある、というストーリーを創りあげたと考えられます。
ところが、各部族の記憶や神々の記録を全て消し去ることはできず、各地にスサノオを始めとする祖先を祭る神社や言い伝え、地名などの歴史は残ってしましました。スサノオを祭る神社は半数、出雲系はあわせると8割にのぼるといわれており、そこに目を向けると、別の古代があらわれてきます。
4.出雲の「日本」、都母の「日本中央」は国名の「日本(やまと)」と同じか?
時の絶対権力者が、出雲の「日本」をそのまま国名とし、さらに、抵抗する夷の地に対して「日本(やまと)」というのは、実に不可解です。
考えられる唯一の可能性は、国名を「日本(やまと)」としたのに対し、出雲の地や蝦夷の支配領域あるいは集団は「日(ひな)」あるいは「日本(ひなもと)」の呼び名であって、漢字は同じでも、両者はそもそも読み方が違っていたので問題はなかったのではないでしょうか。
もともと出雲族が「日(ひな)」の国を建て、東北にもそれに連なる「日(ひな)」の地域が広がっていたのに対し、出雲を国譲りさせた(奪った)天皇家は、自らの国を「日本(やまと)」と言い換えて名乗り、出雲と東北を「ひな(鄙、夷)」と低めて呼んだのではないでしょうか。
後世になると、同じ「日本」という漢字なので理解に苦しむことになるのですが、その時代には、出雲族の東北の最後の抵抗拠点を「日=夷=ひな」の地と称し、その中心を「日本=夷本(ひなもと)」と言うのは天皇家側では常識であり、何の差し障りもなかったのではないかと考えられます。
「日本中心」と戦勝を祝って石に記したのは、「ひな(日=夷)」の「本(本拠地)」の中心を征服した、ということではないでしょうか。
5.私の先祖の体験
このような仮説にたどり着いたのは、実は、私の名字にまつわる言い伝えからきています。
「雛元」という私の名刺を差し出すと、たいていの人は「雛人形と関わりがあるのですか」とか、「雛(鳥の雛の意味)というのはかわいいですね」、とか、たまに歴史や古典に詳しい人は「鄙(田舎)というのは、奥ゆかしいですね」と言う人もいます。
この「雛元」の名字の由来は、父親の話では、もともと屋号を「ひな」(お寺の過去帳では、明治以前は「日向(ひな)」と表していた)といっていた先祖が、明治になって「日本(ひなもと)」という漢字に決めて役場に届けたところ、「国名と同じとするとはけしからん」ということで、勝手に「雛元」の字に変えられた、ということです。「雛元」の字に変えられたのでびっくりしたが、当主が後家さんで力がなかったので役場と交渉できず、泣き寝入りになった、と伝わっています。
もともと、屋号を「日向(ひな)」と称し、近くには「日南(ひな)」「日名(ひな)」「日向(ひなた)」という地名があるにも関わらず、なぜ、「日本(ひなもと)」にしたのか、父も理由は知りませんでした。また、近くの別の「ひな」の系統は「雛田」「雛川」の名字になったといわれていますが、なぜ、「日南田(ひなた)」「日名川(ひなかわ)」とせずに、難しい漢字の「雛田(ひなた)」「雛川(ひなかわ)」という当て字になったのか、その理由はわかりませんでした。
知ってのとおり、この国ではもともと文字のないところに中国から文字を輸入したのですから、元々の和語の音を表した全ての漢字は当て字です。明治に入って、やっと、この音にはこの文字をあてよう、という共通の決まりを作っていったのです。「ひな」という屋号を漢字であらわす時には、「日名」「日南」「日奈」「比奈」「雛」「夷」「鄙」など、どれでもよかったのです。現に、明治までは「日向(ひな)」と書いていたのです。
ところが、私の先祖、岡山の山奥の1農家は、明治に入って「ひなもと」を名字にする事を本家と分家が集まって相談して決めた時に、なぜか「日本」と漢字をあてて役場に申請するということをしています。岡山県は、日本で1、2を争う寺子屋の多い地域であり(熊沢蕃山の陽明学の影響と思われます)、言い伝えからみて、私の先祖達は漢字を知っていて、「日向(ひな)」の屋号を「ひなもと」に変えて、あえて「日本」の字を漢字として選んでいるのです。
この例から、私は「ひなもと」を「日本」と漢字で表現することが別に突飛なことではなかった、と考えます。このような事実から、「日本中央」は、「ひなもと中央」と読んでもいいのではないか、ということを思いついたのです。
6.「ひな」の地名探し
では、「ひな」という呼び名は、どのように残っており、どのように表記されているのか、他の例を捜してみました。
地名を国土地理院のデータベースとホームページで捜してみると、芳井町内には「日南(ひな)」という地名があり、すぐ近くの成羽町には「日名(ひな)」という地名があって、ここには中世に「日名」氏という豪族がいました。
他では「日南(広島県に44と一番多く、次いで岡山県に多い。島根県、鳥取県、山口県、高知県、福岡県、佐賀県、熊本県、宮崎県にもみられる)」と表記する地名が一番多く、さらに「日名(岡崎市、豊田市、長野県美麻村)」「日名山(安来市」」「日向原(ひなのはら)(鳥取県横田町)」「日次(ひなみ)(鳥取県伯太町)」「日名条(東広島市)」「火那(同)」「日那(広島県三原町)」「日奈(同大朝町)」「雛側(同甲山町)」「日並(ひな)(同世羅町)」「陽(ひな)(同久世町)」「日名倉山(岡山県・兵庫県)」「雛迫(岡山県井原市)」「日生(岡山県日生町)」「雛山(兵庫県御津町)」「日撫(ひなど)(豊岡市)」「日撫(ひなで)神社(滋賀県近江町)」「日名代(高松市)」「日南登(愛媛県中山町)」「比奈戸(高知県馬路村)」「雛戸山(湯布院町)」「日奈久(熊本県)」「雛場(鹿児島県加治木町)」「夷守岳(宮崎県小林市)」「日名田(熊本県、富山県氷見市)」「日夏(ひな)町(彦根市)」「日南田(三重県)」「比奈知(名張市)」「雛倉(岐阜市)」「雛成(郡上八幡町)」「日名入川(長野県木島平村)」「日名沢(更埴市)」「比奈(富士宮市。古くは姫名)」「比奈窪(秦野市)」「雛子(群馬県群馬町)」「日南郷(福島県)」「雛田(五所川原市)」「雛岳(北八甲田)」など、各地に「ひな」のつく地名があります。
また、「日向(ひなた。単にひな、と読ませるところもみられる)」「日南(ひなが多いが、ひなたと読ませる例もまれにある)」という地名は、岡山や広島、島根や鳥取、関東から東北などに無数にあります。この「日向(ひなた)」については、「日当たりのよいところ=日なた」の意味である、という説があり、実際に、「日影」「日陰」「陰地(おんじ)」「影地(おんじ)」とセットになっている例もありますが、全体では、「ひなた」単独、あるいは「ひな」を含む多様な呼び名が方はるかに多くみられます。また、地形から見て、必ずしも日当たりの土地と、日影の土地のセットになっていない場合もみられます。
「ひなた」から「ひな」がでてきた、という仮説よりも、我が家の伝承から考えてみても、「ひな」という和語の呼び名が先にあって、「ひな田」を始め、様々な当て字ができた、と考えた方が「ひな〇〇」の多くの地名を説明できます。
さらに、雛がつく名字では、雛田、雛川の名字のほかに、広島から兵庫にかけて、雛本、雛倉、雛岡という名字を目にすることもあります。また、日名、日南、日名子、日向、朝比奈などの名字もみられます。
7.歴史の中の「ひな」探し
次に、歴史の中から「ひな」をみていきたいと思います。
出雲風土記の出雲国造伝統略をみると、「天夷鳥命」(アマノヒナトリノミコト)という人物がでてきますが、別名を、「天日名鳥命(アマノヒナトリノミコト)、武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)、武日照命(タケヒナテルノミコト)、建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)、出雲伊波比神(イヅモイハヒノカミ)、伊毘志都弊命(イヒシツヘノミコト)、阿太賀建熊命(アタカタケクマノミコト)、天鳥船命(アマノトリフネノミコト)、天御鳥命(アマノミトリノミコト)、天熊大人(アマノクマウシ)、出雲神と称ス」という伝えです。「ひな」という呼び名は確かにあったようです。
この天日名鳥命神社[アマヒナトリノミコト]は、スサノオ(素盞嗚)命と天照大神の間に生まれた次男の天穂日命(アメノホヒノミコト)の皇子で、出雲国造家の祖ということですから、天日名鳥命が「ひな国、ひなもと国」の地名から名前をとった可能性が十分にあります。
この、天日名鳥命は、姉弟とされるアマテラスとスサノオから生まれた孫、というのは不可解であり、出雲王朝の歴史に、古事記・日本書紀で「アマテラス」を無理矢理に送り込んだ、という可能性が浮かび上がってきます。
ここで、「鳥」は、「鳥船」を指しており、「鳥の羽のような形の帆を持った舟」あるいは「天地を行き来する鳥のような舟」に乗ってきてやってきた人、あるいは、舟をあやつる人、という意味であることがわかります。また、すでに述べたように、「天夷鳥命」「武日照命(タケヒナテルノミコト)」とも記されているように、「ひな=夷=日」と表記していることに注目したいと考えます。
島根県出雲市姫原町394にある「比那(ヒナ)神社」では、「武夷鳥命、木花之佐久夜比賣命」を祭っています。
「阿伎(アスキ)神社(阿須伎神社)」(島根県簸川郡大社町大字遥堪1473)は、大国主命の長男神の「阿遲須伎高日古根命」のほか「五十猛命、天稚彦命、素盞嗚命、下照姫命、猿田彦命、伊邪那岐命、天夷鳥命、稻背脛命、事代主命、天穗日命」を祭っており、「阿須伎神社と称する同名の社が、出雲国風土記に38社、延喜式(905)に11社もある、かつては著名な神社であったが現在は同名の社は当社を遺すのみである。出雲大社の攝社として10月10日の例祭には出雲大社の宮司の名代が献幣使として参向する。国土創成 農耕の神として崇敬をあつめている。」とされており、同社には、「神阿麻能比奈等理(カムアマノヒナトリ)神社」があります。
鳥取市には、天日名鳥命神社(鳥取市大畑字森崎874)があり、「天日名鳥命」と「素盞嗚命」を祭っています。
岡山県と兵庫県の境の日名倉山には日名倉山神社(※)があり、岡崎市に日名神社、石巻市高木・上品山山頂には、九集比奈(くすひな)神社があります。
※日名倉山神社:http://boat.zero.ad.jp/qwerty01/index.htm
また、中国の記録である魏志倭人伝には、「卑奴母離(ひなもり)」という人名(官名)がでてきますし、宮崎県小林市には、これに呼応するかのように「夷守岳」という山があります。
このように、出雲の国の「スサノオ」の孫に「ひな」と称する王がいた可能性があり、その国の各地に「ひな」神社を祭る一族がおり、「ひな」の地名が全国に散らばった、という可能性が浮かび上がってきます。
8.「ひな」=鄙(いなか)説について
「ひな」に鄙(ひな:いなか)という漢字をあてた地名や名字はありませんが、「ひな」は鄙(いなか)ではないか、という説があります。
島根県の益田を任地としていた柿本人麻呂には、「天ざかる 夷(ひな)の長道ゆ恋くれば 明石の門より 大和島みゆ」と読んでいますが、都から離れた夷(ひな)=田舎の長道をきた、とこれまで理解されています。
ところが、島根から広島、岡山にかけて「ひな」の地名が多いことを考えると、むしろ、出雲から岡山にかけての「夷(ひな)」の国を長旅で来た、という解釈もできます。
また、東北では、日本書紀の中で「東の夷(ひな)の中のはなはだ強い蝦夷(えみし)」「東の夷(ひな)の中に日高見国あり」と書かれていますが、これも、夷(ひな)=田舎というよりも、「ひな」という集団、地域があったのではないか、という可能性が考えられます。
和語を漢字で記録する時、「ひ」だと「日」や「比」を当て、「ひな」だと「日名」「日南」「日奈」「比奈」「雛」などの当て字が自然ですが、卑しめていうときには、「卑奴」「夷」などの卑字を当てることになります。
大和朝廷からみると、大国主命から簒奪した出雲の「ひな」も、抵抗を繰り返す東北の「ひな」も、ともに低くみて「夷(ひな」」の字をあてた可能性はどうでしょうか。
9.「ひな」=月の女神説について
ここからは、読み物として少し楽しんで下さい。
ポリネシアには「Hina<ヒナ>」という月の女神がいるとされています。ちなみに、日本では、太陽神のアマテラスに続いて、「ツクヨミノミコト」(月読尊:月の神)、「スサノオ」(海の神)が続いて生まれたとされています。
ハワイでは、次のような伝説が伝わっています。
「時の始まりからしばらくは闇の時期があり、その間にさまざまな植物や動物が生まれた。父なる天はワケアと呼ばれ、母なる地はパパと呼ばれた。
彼らが最初に産んだ子はハロアと名付けられたが、この子は未熟なままに生まれたため手足がなかった。父なる天と母なる地は悲しみのうちにこの子を地面に埋めた。その身体からタロ芋が生まれた。次ぎの子はちゃんと月満ちて生まれ、人間の祖先となった。
最初の男であるクムリポと最初の女であるポエレもこの時に生まれた。やがて世界は明るくなり神々が地上に降りてきた。父なる天ワケアと母なる地パパが『みとのまぐわい』をしてハワイ島が生まれ、ついでマウイ島とカホオラヴェ島が生まれた。この三度の出産に疲れたパパはタヒチ島で身体を休めることにした。一人の残されたワケアはカウラという女性にラナイ島を生ませ、ヒナという女性にはモロカイ島を生ませた。風の便りにそれを聞き伝えたパパは急いでタヒチ島から戻り、ルアという若い元気な神と一緒になりオアフ島を生んだ。そこでようやくワヒアとパパはよりを戻し、元のさやに納まりカウアイ島、ニイハウ島と小さく無人のカウラ島とニホア島を生んだ。(ハワイ紀行池澤夏樹著新潮社より)」。
これは、まさに「日本の神話、イザナギとイザナミの話しにそっくりです。祖先ラピュタ人の遠い記憶が環太平洋の東の端に位置する日本も含めてポリネシアの人々に語り継がれた証拠なのでしょう。」「わが国の陸地起源神話はこれまで専門家によって、全体として南洋、特にポリネシアの神話と似ていることを注目して来ました。」(aloha-laniのホームページより)といわれるとおりではないでしょうか。あるいは逆に、縄文人がそのような神話を持って、南海の島々に渡ったのではないでしょうか。
このポリネシアでは、アウトリガー付きのセーリングカヌーが日常的に使われ、広い大海の島々を星と太陽と渡り鳥を頼りに自在に航海していますが、天鳥船(アマノトリフネ)を操る「天夷鳥命」(アマノヒナトリノミコト)の一族がいた、と想像すると楽しくなります。
鈴木光司氏の小説『楽園』は、共通の祖先(引き裂かれた男女)を持つベーリング海峡を渡ったモンゴリアンと、ポリネシアに散らばったモンゴリアンの末裔が、アメリカで魂を惹かれあって出会う、というDNAの記憶をたどる壮大なロマンが描いていますが、事実、アメリカ(エクアドル)とミクロネシアでは、縄文式の土器が発見され、古田武彦氏は『倭人も太平洋をわたった』の中で、魏志倭人伝に記載されている「(裸国、黒歯国) 東南、船行き1年にして至るべし」が、古代人の太平洋横断(堀江謙一氏の小型ヨットで3か月)をさしているという大胆な提案をされています。
また、DNA鑑定でペルーのインディオの人たちが日本人によく似ており、ピロリ菌のDNA鑑定では、日本人などに見られる菌が、1.2万年前にベーリング海を渡ってアメリカに広がり、1000年前に南太平洋のニュージーランドまで渡った、という研究がなされています(2003年5月2日朝日新聞)。
海洋民族である縄文人の姿や、古代の人々の海を通した交流が浮かび上がってきます。
10.「雛祭り」=「雛送り」の謎
このように見てくると、「雛祭り」についても触れないわけにはいきません。
「雛祭り」の原型となった、「雛送り」の祭りが、「人」の代わりとなる「雛人形」を、病気や災難と一緒に舟で流した、というケガレ払いの説が本当かどうか、ということを疑ってみたくなります。
私は、「雛人形」は人間のひな(子ども)模した人形という意味ではなくて、「ひな(日名、日南)人形」=「出雲族の人形」ではないか、と考えます。鳥取県の用瀬町などに広く残っている「雛送り」が「雛まつり」の原型であるとすると、雛人形は「ひな族」の人形であり、「雛送り」は海を渡ってきた先祖をしのび、望郷の思いをこめて舟で魂を送る、祖先の「ヒナ」のもとに女の子の無事を願って分身を送る、という儀式ではないでしょうか。
以前、朝鮮半島に面して突き出ている山口県豊北町の「土井が浜弥生ミュージアム」で、弥生人達が皆、海を望むように埋葬されていたのを見たときには衝撃が走りました。彼らは、まぎれもなく海から来た民族であったと直感しました。
48mの高さの世界最高の木造建築の出雲大社の祭壇は西南西の方、中国大陸の方を向いており、海から見える巨大な目印として、海からの神を迎える神殿と思います。三内丸山を始めとする日本海沿いに見られる縄文の巨大な列柱の文化も、同じように、海からみた聖なる社ではないでしょうか。
12.「日(ひな)族」の仮説を追って
以上のように、かつて、出雲族は、九州(肥の国)から、東北〜北海道まで「八百万の神々」と連合を結んでいましたが、この地域全体は「ひな国」といわれた時期があり、神社や地名からみて、島根〜広島〜岡山を中心に、全国各地に「ひな」を名乗る一族がいたのではないか、という仮説を私は考えています。
やがて、天皇族(日向、隼人系)に、吉備、大和を手始めに、出雲、筑紫、肥の国(クマソ)などの国は滅ばされてしまいますが、最後まで抵抗したのが、東北・北海道の「日(ひな)族」であった、という可能性は考えられないでしょうか。
ずっと、「ひな」の家のルーツは気になっていたのですが、仕事の縁で「日本中央」の碑を見る機会があり、この連休に2日かけて、わずかなHPや本からの資料をもとに1つの仮説をまとめてみました。各地の地名や神社のいわれなど、原資料をあたった研究ではなく、今は、単なる読み物の段階です。
かつての出雲圏の一角にあった小さな「ひな」の名前が、地名や歴史を調べていくうちに、東北の「日本中央」にまで繋がる仮説として見えてきて、びっくりしているところです。
今のところ、この「日(ひな)族」の仮説を裏付ける物証は、各地の神社と「日本中央」の石碑以外にありません。
東北町の石文(いしぶみ)あるいは隣接する天間林村の坪(つぼ:都母)集落の周辺一帯(当時の小川原湖畔)で発掘調査を行い、三内丸山に次ぐ「日=夷(ひな)本中央」の巨大集落の発掘をめざすシュリーマンはいないでしょうか。
また、アウトリガー付きの、マストと帆を持った「鳥船」が必ず、いつかどこかで見つかることを、期待しているところです。
http://www.toshikozo.co.jp/kousatu/nihontyuuoutoninazoku.htm