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アメリカ社会が「進歩的な側面」とともに「宗教面での非常な保守性」の姿を垣間見せる背景には、建国以来の伝統として、アメリカがディスペンセーショナリズム(dispensationalism)とリバイバリズム(再生主義/revivalism)の伝統を引きずっているためであると思われます。ディスペンセーショナリズムは、この世で“父なる神の絶対的摂理による新たな統治体制(dispensation)”を創造すること、つまり「新しい神の国」の現世での創造が究極の目的です。また、リバイバリズムは17世紀初頭にニューイングランド地方へ英国から入植した清教徒(プロテスタント)たちが、次第に無法地帯と化しつつあった新大陸植民地をキリスト教本来の敬虔な清教徒の社会に再生しようとする運動であり、その典型となったのが18世紀の始め頃に「大覚醒運動」(Awakening)の指導者となったジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards)でした。そして、エドワーズの説教が、あまりにも人間の感情面を刺激するものであったため、それは多くの人々に対して強いマインドコントロールの作用を及ぼし、結局、聖書に書いてない内容を原理主義的に主張するというような病理現象をもたらしたのです。少し時代は下りますが、映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』(http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=235234 )は、このように狂気のような宗教的混乱に翻弄されるアメリカ建国時代の雰囲気を伝えています。
その後、1920年代のアメリカ・プロテスタント教会内で「ファンダメンタリズム」(根本主義/Fundamentalism)と呼ばれ、リバイバリズムの延長上にある保守的な神学(原理主義)運動が起こりました。1925年、この運動に関連して「スコープス裁判」と呼ばれる事件が起こっています。テネシー州デートンの公立学校の教師・スコープス(J.T.Scopes)が、神の天地創造をそのまま信じている人たち(ファンダメンタリスト)から授業で「進化論」を教えた罪で告発されたのです。1925年3月、ファンダメンタリストの要求を受け入れたテネシー州議会は、聖書の天地創造説に反する理論を公立学校で教えることを禁止していたのです。このため、「進化論」を教えたスコープスは逮捕されて裁判にかけられることになりました。当時、ファンダメンタリストの勢力が強大であったため、結局、スコープスは有罪となり100ドルの罰金刑を課されました。その後、この州法は1967年に廃止されていますが、1980年頃から中南部の各州を中心にファンダメンタリズムの活動が再び活発となり、現在のブッシュ政権を強力に支える一大政治勢力にまで成長したのです。現在の「キリスト教徒連合」(Christian Coalition)や「Focas on the Family」を中心とするキリスト教原理主義勢力は、共和党右派と結びついて政治へ介入する工作を続行してきたのです。本来、この神学運動は近代合理主義や世俗主義への偏重を是正する一種の宗教批判であったはずなのですが、次第に“逐語冷感的な聖書解釈”(聖書の原理主義的な解釈)を徹底する本物の原理主義に変質して行ったのです。そして、自分たちの信仰は無謬であり、自分たちに組しないものは排他的に非難攻撃するという偏狭な方向へ傾いてしまいます。現在、アメリカの中西部(おおよそサウス・キャロライナ州からテキサス州を東西に結ぶ一帯)は「Bible Belt」と呼ばれ、これらファンダメンタリストが多く存在する地域となっています。
ところで、1983年に出版された『第三の惑星、家族構成とイデオロギーシステム』でヨーロッパのジャーナリズム界に議論の渦を巻き起こしたフランスの人口・人類学者、エマニュエル・トッド(Emmanuel Todd/1951- )の近著『移民の運命』(Le Destion des Immigres/1994/翻訳刊1999(藤原書店))によると、アメリカ合衆国の建国の祖はイングランドの各地方からやってきた移民たちで、彼らは厳格カルヴァン主義をはじめとする様々な宗派の清教徒(プロテスタント)たちでした。トッドは彼らの大きな特徴として「自分たちは神に選ばれた人間であるという宗教的な強い信念と他宗派や他宗教に対する強烈な差別意識を持っていた」ことを指摘します。そして、その前提から導かれるのがインディアンや黒人などとの混交の禁止です。ところが、新大陸植民地の大陸会議は、1776年に「アメリカ合衆国・独立宣言」を採択し、ここでは「人間の平等の原則」を高らかに歌い上げています。これは矛盾ではないでしょうか?しかし、トッドは、そこに矛盾はないのだと断言します。なぜなら、彼らアングロ・サクソンの差別意識の対象が明確にインディアンと黒人の上に固着することによって、却って彼らアングロ・サクソンという白人たちの同族性が保証され、「彼らのための平等の原則」が確立したというのです。このような民主主義についての考え方は、一見、逆説(または大きな矛盾)のように聞こえるかもしれません。しかし、言ってみれば、これは古代ギリシャの民主主義と同じことなのです。民主政治のルーツとされる古代ギリシャでは、周知のとおり奴隷が存在したわけです。古代ギリシャの民主主義は奴隷が存在してこそ成り立っていたわけです。この点が「フランス革命(1789)」と「アメリカ独立革命」の決定的な違いだとトッドは指摘します。その後、両国の民主主義は、このように誕生した時の性質が根本的に異なる民主主義をそれぞれ発展させて現在に至っているわけです。
トッドは、現在のフランスとアメリカの親子と婚姻関係の統計データの中に、このような民主主義の違いが現れていると主張します。例えば、現在のフランスは旧植民地だった北アフリカのマグレブ3国(モロッコ、チュニジア、アルジェリア)からの移民が多いのですが、その父親はマグレブ3国からの移民であり、母親がフランス人から子供が生まれたケースは、1975年以降、全体のほぼ10%〜15%を占めています。 一方、アメリカ合衆国内で黒人女性が白人男性と結婚した割合(人口1万人あたり)を見ると、1970年が0・5%、1980年が0・8%、1992年が1・2%となっており、フランスとアメリカの民族混交の状態に関する差は歴然としているのです。フランスとアメリカの民主主義に、このように根本的な差異があることを、トッドはユニバーサリズム(普遍主義/universalism)とコミュニタリズム(孤立共同体主義/communitalism)の違いだと言います。無論、フランスもその国家としての構成要素の中には様々な矛盾を抱えていますが、結果的にフランスという国家は、歴史的に、その矛盾を克服することに成功しています。フランスは、パリを中心とする中央部が自由と平等をもたらす平等主義的な価値観を持った核家族型の世帯から構成されたシステムとなっており、すべての人間を平等とするフランス革命の普遍主義はそこから生まれたとトッドは言います。しかし、フランスには様々な他のタイプの家族システムも存在しており、例えば南フランスのオック語地方を中心とする一帯では、権威と不平等の価値観を産み出す直系家族型の社会システムが優性です。このような極端なシステムのダイナミックな対決こそがフランスの健全な民主主義による統一を可能としてきたのです。トッドによれば、フランスという国は、対立する多様な価値体系にまたがる特異な国であり、フランス人であるということは、このような根本的な矛盾がはらむ内的な緊張を生きるということなのです。フランスでユニバーサリズム(普遍主義)が明示的に形成されるようになったのは、このような内的対決と内的緊張の賜物です。そして、このようなフランスの社会システムの中だからこそ「公共善」や「公益」の意味がすべての国民によって理解され、共有されているのです。そして、これらの価値こそがフランスのユニバーサリズム(普遍主義)を成立させるために重要な回帰的条件となっているのです。一方、アメリカのコミュニタリズム社会では、例えば「ピューリタン」、「ワスプ(WASP)」、「白人」、「黒人」、「ヒスパニック系」、「東洋人」という具合に宗教・人種・民族などによる線引きが厳しく保持され、その差異は拡大する一方なのです。
厳しい見方をする人々がフランスを批判する場合に必ず持ち出されるのがル・ペン党首が率いる極右政党「国民戦線」の存在です。それは、彼らの大きな目的が明らかに外国からの移民排斥だからです。しかし、フランスの国民は、いざと言う時には、このような危険な政党を政治の中枢には絶対に入れないというギリギリの厳しい良識を発揮しています。この点は、アメリカのブッシュ政権がネオコン一派や宗教原理主義と軽々に結びつき、ブッシュ政権が、それらの力によって大きな影響を受けていることと対照的です。ともかくも、このようなフランスの謎を理解するためには、表面的な政治イデオロギーを離れて、フランス国民の無意識的な心性を規定する人類学的な視点から分析しなければならないと、トッドは主張します。トッドは、この点について『移民の運命』の中で次のように書いています。・・・共通の本質への先験的(歴史的・伝統的)確信が、感覚で知覚される無数の差異を副次的なものとして受け入れることを可能にする。住居の型、食事やセックスのやり方、皮膚の色、宗教的な信仰、これらは現実の生活に刺激を与えるが、決して人間の普遍性に対する基本的信念をゆるがすことのない小さな差異に過ぎない。それらの差異は一々、カテゴリーだとか、本質とかに仕立てあげる必要はなく、そのまま受け入れられる。真面目なカトリック信者であろうが、ユダヤ人だろうが、黒人、同性愛者、共産主義者であろうが、エスカルゴが大好きであろうが「人はまず第一に人間である」ことに変わりはない。アングロサクソン的文脈では「差異」という語は、本質にかかわるものであるが、フランス的文脈では、それは大抵は意識的、下意識的、無意識的に、副次的なものとして知覚される特徴を意味するにすぎないのだ。・・・
エマニュエル・トッドのこの主張を理解すると、このようなフランス人の国民性に対して、アングロ・サクソンの心性が非常に対照的に見えてきます。アメリカの白人(アングロ・サクソン)たちの一部、特にブッシュ政権に巣食うネオコンたちは、これら様々な「差異」による人間存在の多様性を認めようとせず、逆にその「差異」に畏怖し、あるいは恐怖して、それらを武力で「征討」しようとします。そして、このような「差異に対する恐怖」の延長上に「大量破壊兵器の存在という嘘」を大義(口実)として突入した「イラク戦争」がある訳です。しかし、「ブッシュ−ネオコン−宗教原理主義」のコアリションの決定的な弱点は、その『現実認識』(リアリズム)のメンタリティの貧弱さ、ひ弱さにあります。つまり、彼らにとっての『リアリズム』は「戦争の勝敗」か「大量破壊兵器の存在の有無」しかないのです。彼らは、真のリアリズムが人間の心の中にある(健全な精神環境である)ことを知らないし、知ろうともしないのです。「アメリカ型民主主義」の深層には、このような“貧困な精神環境”が巣食っているのです。だから。たとえハイテク装備と大型爆弾を投下して目先の戦争に勝ったとしても、たとえ“捏造の大量破壊兵器”が現実に存在したと、現政権配下のメディアが報道し続けたとしても、人間の『心性のリアリズム』に勝利することは不可能なのです。
(2004/05/17/News-Handler、初出)